植木等と小林信彦

 NHK土曜ドラマ植木等とのぼせもん』のレビューを書くため、久々に小林信彦の『喜劇人に花束を』(新潮文庫)のうち植木等のくだりを読み返す。

ドラマの第1回で植木等が過労による肝炎で入院する場面が出てきたが、小林もこのとき見舞いに訪ね、植木が「自分の肉体に自信を失いましたよ」と口にするのを聞いたという。日付もはっきりしていて、1964年2月10日(東京オリンピック開会式のちょうど8カ月前だ)。当時の小林の日記を抄録した『60年代日記』(白夜書房)にも見舞ったときの記述がある。植木が入院したのは五反田の逓信病院(のちに渡辺プロダクション社長の渡邊晋もここに入院している)で、小林はこの日夜に訪ねていた。ちなみに同日の日記には、午後に砂川啓介の結婚パーティに出席したとの記述も見える。ということは、小林信彦は、大山のぶ代の花嫁姿を見ているのか!

 

喜劇人に花束を (新潮文庫)

喜劇人に花束を (新潮文庫)

 

 

小林信彦60年代日記―1959~1970 (1985年)

小林信彦60年代日記―1959~1970 (1985年)

 

 

「小松」と「大松」

小松政夫の本名は「松崎雅臣」。芸名の「小松」は、現場で同姓の松崎真(のちに『笑点』の座布団運びで有名になる)と一緒になることが多く、まぎらわしいということで、松崎真の「大松」と呼び分けたことに由来する。

似たような理由で芸名をつけた例では、コロッケが思い出される。コロッケの場合、働いていたパブにいた先輩の「ロッキーさん」に似ていたことから「小ロッキー」というあだ名がつき、それが転じたという。芸名ではないが、10代の頃の仲間に「ダイケン」「チューケン」がいたことからショーケンとあだ名されるようになった萩原健一も、この系統のネーミングといえる。

ちなみに小松政夫の「政夫」のほうは、師匠の植木等が、「小松」との組み合わせで一番縁起のいい画数ということで命名してくれたとか(植木の母が姓名判断に凝っていたらしい)。

(意外にも)同い年・同じ月生まれ・同郷の俳優

松平健平田満は、ともに1953年11月に豊橋市に生まれて俳優になったが、まるで接点がなさそうなのが面白い。共演作はあるのだろうか。

平田は、早稲田大学在学中に小劇場の世界に入り、つかこうへいの劇団の看板俳優となった。それに対し松平は高校を中退して板前修業に出たものの、映画俳優に憧れ、勝新太郎のもとで学んでいる。1978年には24歳にして『暴れん坊将軍』で主役の将軍・徳川吉宗に抜擢、一躍スターとなった。それなりに下積みを経験しているとはいえ、かなりの早咲きである。

文春オンライン連載「ご存知ですか?」2017年8月分一覧

野口「4兄弟」の物語になっていたドラマ『1942年のプレイボール』

8月12日に総合テレビで放送されたドラマ『1942年のプレイボール』を、NHKオンデマンドで視聴する。

本作は、4人の兄弟が全員中京商業からプロ野球に入った「野口兄弟」を、次男の野口二郎(演:太賀)を主人公に描いたもの。末っ子の渉さんは生前、私の友人と同じ職場(中日新聞の関連会社)で働いていて、話をすることもあったという。渉さんは兄弟のプロ野球での活躍について「いつも野口『3兄弟』と言われるんだ」と自分がカウントされないことを笑いながら語っていたらしい。だが、今回のドラマはまぎれもなく「4兄弟」の物語になっていた。

兄たちは中京商業時代、野球に十分打ち込めた。それなのに渉(ドラマでは福山康平が演じていた)は、同じ学校に入ってもすでに時代は戦争に突入し、満足に野球ができず、将来にも希望が持てない。ドラマの後半では、そんな不満を兄たちにぶつけるシーンもあった。

多くの記録を打ち立て野球殿堂入りも果たした二郎のほか、長男の明(演:勝地涼)は中日ドラゴンズの初優勝に貢献、三男の昇(演:斎藤嘉樹)は残念ながら戦死したとはいえ、上の3兄弟はそれぞれ球史に名前を残している。それに対して渉はプロ入りしたとはいえ、記録らしい記録も残さないまま引退、べつの道を歩むことになる。

 

文春オンライン連載「ご存知ですか?」2017年7月分一覧

文春オンライン連載「ご存知ですか?」2017年6月分一覧