『プレイボーイ』と「スーダラ節」

本日公開されたcakesの拙記事で、『プレイボーイ』創刊号を飾ったマリリン・モンローが、創刊者のヘフナーと同じ1926年生まれだったことに触れたが、このほかエリザベス女王渡邉恒雄石井ふく子植木等なども同い年。

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というわけで、NHK土曜ドラマ植木等とのぼせもん』も終わってしまったわけだけど、その最終回のレビューを本日あげました。タイトルと画像が思いがけずシンクロ。

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考えてみたら、プロテスタントの教義に支配された家庭に反抗するように『プレイボーイ』を創刊したヘフナーと、実家の浄土真宗の寺を継ぐはずが音楽の道に進んだ植木等は、どこか重ならなくもない。『プレイボーイ』という雑誌と人間の業を肯定した「スーダラ節」にも、精神性において通じるものがあるかも。

人名三題

小倉優香というグラビアアイドルが最近出てきたが、本名なのだろうか。かつての人気グラドルである小倉優子と優香にちなんでの命名とすれば、千代の富士が師匠の千代の山北の富士からしこ名をとったみたいで面白いのだが。

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現在の神戸製鋼所の社長・会長は「川崎」だという。いま川崎製鉄があったら、結構ややこしいことになっていたと思う。

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村上春樹の「春樹」は、ひょっとすると島崎藤村の本名からとったのではないか。村上春樹の両親はともに国語教師だったというから、ありえない話ではないと思うのだが。ちなみに父が美術教師だった村上龍の本名は「龍之助」だが、これは芥川龍之介からとったらしい。

文春オンライン連載「ご存知ですか?」2017年9月分一覧

植木等と小林信彦

 NHK土曜ドラマ植木等とのぼせもん』のレビューを書くため、久々に小林信彦の『喜劇人に花束を』(新潮文庫)のうち植木等のくだりを読み返す。

ドラマの第1回で植木等が過労による肝炎で入院する場面が出てきたが、小林もこのとき見舞いに訪ね、植木が「自分の肉体に自信を失いましたよ」と口にするのを聞いたという。日付もはっきりしていて、1964年2月10日(東京オリンピック開会式のちょうど8カ月前だ)。当時の小林の日記を抄録した『60年代日記』(白夜書房)にも見舞ったときの記述がある。植木が入院したのは五反田の逓信病院(のちに渡辺プロダクション社長の渡邊晋もここに入院している)で、小林はこの日夜に訪ねていた。ちなみに同日の日記には、午後に砂川啓介の結婚パーティに出席したとの記述も見える。ということは、小林信彦は、大山のぶ代の花嫁姿を見ているのか!

 

喜劇人に花束を (新潮文庫)

喜劇人に花束を (新潮文庫)

 

 

小林信彦60年代日記―1959~1970 (1985年)

小林信彦60年代日記―1959~1970 (1985年)

 

 

「小松」と「大松」

小松政夫の本名は「松崎雅臣」。芸名の「小松」は、現場で同姓の松崎真(のちに『笑点』の座布団運びで有名になる)と一緒になることが多く、まぎらわしいということで、松崎真の「大松」と呼び分けたことに由来する。

似たような理由で芸名をつけた例では、コロッケが思い出される。コロッケの場合、働いていたパブにいた先輩の「ロッキーさん」に似ていたことから「小ロッキー」というあだ名がつき、それが転じたという。芸名ではないが、10代の頃の仲間に「ダイケン」「チューケン」がいたことからショーケンとあだ名されるようになった萩原健一も、この系統のネーミングといえる。

ちなみに小松政夫の「政夫」のほうは、師匠の植木等が、「小松」との組み合わせで一番縁起のいい画数ということで命名してくれたとか(植木の母が姓名判断に凝っていたらしい)。

(意外にも)同い年・同じ月生まれ・同郷の俳優

松平健平田満は、ともに1953年11月に豊橋市に生まれて俳優になったが、まるで接点がなさそうなのが面白い。共演作はあるのだろうか。

平田は、早稲田大学在学中に小劇場の世界に入り、つかこうへいの劇団の看板俳優となった。それに対し松平は高校を中退して板前修業に出たものの、映画俳優に憧れ、勝新太郎のもとで学んでいる。1978年には24歳にして『暴れん坊将軍』で主役の将軍・徳川吉宗に抜擢、一躍スターとなった。それなりに下積みを経験しているとはいえ、かなりの早咲きである。

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