賞を贈る側の事情

この秋の褒章でケラリーノ・サンドロヴィッチ紫綬褒章が贈られると聞いて、山下洋輔が2003年に紫綬褒章を受章するに際し、評論家の相倉久人に言われたという言葉を思い出した。

受章の決定時、山下へ相倉から電話があり、《『山下も勲章をもらうようになったか』と言われるだろうが、賞を贈る側にもそれなりの事情があって、『こういう人にも目を向けています』とアピールしたいんだから、がっかりしないでもらってやりなさい》と言われたという。

これは二人の対談本に出てくるエピソードだが、相倉は同書で、自身も各種の賞で選考を担った経験から《選考委員や審査員たちの気持ちはとてもよく分かります。「自分たちはこういうものだってちゃんと評価できるんだ」というのを見せたいわけ》とも語っている(以上、引用は山下洋輔相倉久人『ジャズの証言』新潮新書より)。

「こういう人にも目を向けています」「自分たちはこういうものだってちゃんと評価できるんだ」とは、紫綬褒章にかぎらず、最近の文化勲章文化功労者の面々を見ていてもたしかに感じるところだ。

 

ジャズの証言 (新潮新書)

ジャズの証言 (新潮新書)

 

 

 

トリビアの真偽は?

国鉄の「いい日旅立ち」キャンペーンが始まったのは、調べてみたところ、40年前のきょうらしい。キャンペーンソングに使われた山口百恵いい日旅立ち」のレコードリリースは、キャンペーン開始の約2週間前の1978年10月21日。

よく聞かれるトリビアで、「いい日旅立ち」というタイトルには、協賛企業の日本旅行(日旅)と日立製作所の名前が織り込まれているというのがあるが(Wikipediaにも書かれている)、同キャンペーンを手がけた当事者である電通のプロデューサー藤岡和賀夫はこれを否定している(こちらはWikipediaには書かれていない)。

この手のトリビアはほかにも結構ある。有名なところでは、最近IMAXリバイバル上映された『2001年宇宙の旅』に出てくる宇宙船の制御コンピュータ「HAL」の名前は、IBMの三文字をそれぞれABC順の一つ前にずらしたもの、というのがある。ただし、これについては先の藤岡と同様に、監督のスタンリー・キューブリックと共同脚本のアーサー・C・クラークがはっきりと否定している。だが、キューブリックとクラークはごまかしているだけだという見方もいまだ根強い。クラークの言うところの、HALは「Heuristically programmed ALgorithmic computer」の略だという説明がいかにも苦しいというのがその理由らしい。

山崎正和に文化勲章

山崎正和文化勲章を受章したということで、去年中央公論から出た『舞台をまわす、舞台がまわる―山崎正和オーラルヒストリー―』を本の山から引っ張り出す。

演劇界、論壇、アカデミズム、そして政権ブレーンとして政界と、複数の分野で活躍してきた著者だけに、どのページをめくっても意外なエピソードが出てくる。そんなわけで、思いついたときに、ちびちび読んでいるのだけれども、きょう読んでいたら、こんな話が「余談」として語られていて驚愕した。

それは、劇作家の岸田國士に山口晋平という弟子がいて、結局「演劇の世界に深入りしないで平凡に終わ」ったのだが、その山口の息子が、社会党委員長の浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢だという。沢木耕太郎の『テロルの決算』には、晋平が青年時代に演劇に熱中するも断念して、その後職を転々としたことに触れられているが(ちなみに妻は作家・村上浪六の長女)、まさか岸田國士に師事していたとは。とんだ「国士」つながりである。

再び、山崎正和に話を戻せば、言論人が文化勲章に選ばれるのはかなり久々ではないか。歴代受章者を見るかぎり、戦前から終戦直後にかけて徳富蘇峰(1946年に返上)、三宅雪嶺長谷川如是閑が受章した例はあるが、その後は皆無のようだ(ただし、新聞記者から小説家に転身した司馬遼太郎のような例は除いてだが)。論壇やジャーナリズムは、国の栄誉とは本質的に相対するものだからだろうか。

文化勲章親授式に、今上天皇が出席するのも今年が最後である。ちなみに文化勲章授与にあたり、天皇が授章者に直接勲章を手渡すようになったのは平成9年(1997)からだとか。今回の受章者の一人、作曲家の一柳慧小野洋子の元夫だが、小野洋子はたしか今上天皇学習院の同窓生ではなかったか。

 

 

新装版 テロルの決算 (文春文庫)

新装版 テロルの決算 (文春文庫)

 

 

 

樹木希林とジャニス・ジョプリン

樹木希林ジャニス・ジョプリンは同い年(1943年生まれ)で誕生日もわずか4日違い(それぞれ1月の15日と19日)。そう言われると、声も何となく似ている気がしてきた。だから内田裕也が惚れたのかと思わないでもない。

cakes連載「一故人」では、樹木希林をとりあげた際、彼女と演劇史のかかわりにも少し言及した(各メディアの追悼では、岸田森と結婚していたことも含め、そこに触れたものをあまり見なかったので)。樹木が当時の夫の岸田森と参加した六月劇場の最終公演には、高校を卒業したばかりの松田優作が裏方にかかわっていたとか。とすれば、樹木希林はおそらく内田裕也よりも先に松田に会っていたことになる。

cakes.mu

最初の日本シリーズの開催球場は?

NPBのオフィシャルサイトで、1950年に開催された最初の日本シリーズ(セは松竹、パは毎日が出場)では、対戦チームが互いの本拠地ではなく、試合ごとに球場を移動していたことを知って驚く。しかも移動日は後楽園での第2試合の翌日、東京から関西に移動する一日だけ。第4試合は西宮球場で、第5試合を名古屋の中日球場で行なったのち、翌日にはまた関西に舞い戻って大阪球場で第6試合と、当時の交通事情を考えればかなりの強行軍である。

npb.jp

バカリズムの芸名の由来は?

バカリズムという芸名(本来はコンビ名)は、ひょっとして、アフォリズムアホリズムバカリズムという連想からなのか。まあ、お笑い芸人の芸名やユニット名はわりと思いつきでつけられているものが多いけど。

『新婚さんいらっしゃい!』初代司会者は月亭可朝だった

新婚さんいらっしゃい!』は当初、月亭可朝をメイン司会に始まったということを、文春オンラインのこの記事を書いたとき初めて知った。

bunshun.jp

現在まで司会を務める桂文枝(当時、三枝)はサブ的ポジションからスタートしたものの、番組開始から数ヵ月後に可朝が唐突に参院選に出馬して降板したため、急遽メインへと昇格したとされる(ちなみにこのときの参院選では、可朝と同じく落語界から立川談志も出馬、談志が全国区で最下位当選したのに対し、可朝は落選している)。

ただ、下衆の勘繰りながら、『新婚さんいらっしゃい!』のスタッフは、可朝がいずれ何かやらかして番組を降りることを初めから何となく想定していたのではないか。当時売り出し中の三枝をサブに据えたのはそのためという気もするし、何より、タイトルに「いらっしゃい!」と三枝の持ちネタを掲げたあたり、可朝をメインに始まった番組としてはどうも不自然な感じがするのだが、どうか。