「ジャンルの横断」だなんて、いやらしい

きのうの日記(http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/20031129)に補足。
きのう「あらゆるジャンルから取りこぼされたものを、ことごとく拾い上げている雑誌」なんて、妙に『BUBKA』を持ち上げてしまったが、そんなふうに持ち上げてもあまり『BUBKA』側にいる人たちは喜ばないんじゃないだろうか。
よく、「あらゆるジャンルを横断する」なんてことを掲げている雑誌があるが(それはぼく自身がつくってるミニコミ誌でもさんざん言ってきたことだが)、考えてみると、わざわざそんなことをいうこと自体いやらしい。そういえば細川周平がかつてこんなことを書いていた。

フュージョン、あるいはクロスオーバーなどとも呼ばれ、従来のジャズ、ロック、ラテン、ソウル、ポップス、などのジャンルを越境しているかのような新しいジャンルの音楽の根底にあるのは、柄谷行人が(『現代思想』、一九七八年七月)、「学際的」という一種の流行語の根本にいみじくも看破した「足し合わせ」の原理、つまり、「足し合わされることがすでに、分かれてしまっているものを、それぞれ単独に存在しているとみなすことにほかならない」という発想である。それは、中間領域に固執した一つのジャンルであり、マイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』や『マイルス・オン・ザ・コーナー』が先駆的に示した音楽をモデルとして――当時はまだフュージョンともクロスオーバーとも呼ばれず、何と名付けてよいか、何とレッテル貼りをしてよいか判らない程(「名付けえないもの」!)刺激的で、正にコンフューズ、、、、、、した(混線した)状態にあった――シリーズ化しやすいように変形した音楽である。
細川周平ウォークマンの修辞学』朝日出版社、1981年)

ようするに、「ジャンルの横断」だなんて言ってみても、それは結局、ジャンルがジャンルとしてそれぞれ個別に存在していると見なすことにすぎず、そこに混線コンフューズが起こることなどありえない。そう、ジャンルとジャンルがぶつかり合うことなく、ただお行儀よくラベルを貼られて並べられているだけでは。『BUBKA』がやっぱり偉いのは、まかり間違っても「ジャンルの横断」などと言い出さないところだと思う。
昨年から今年にかけてはカルチャー系や文学系の新雑誌創刊ラッシュなどといわれていたようだが、『新現実』といい『en-taXi』といい、正直なところ期待はずれだった。少なくとも、ぼくが高校時代に『Quick Japan』の創刊準備号を読んだ時のように胸が高鳴ることはなかった*1。やはり『新現実』も『en-taXi』もジャンルの横断や越境を狙っていることが見え見えだからダメなのではないか。それだったら、よっぽど正統派の文芸誌を目指したほうがいさぎよい。唐沢俊一が「おたくは閉鎖的だからこそいい」といっているように、文芸誌もいっそおたく的な閉鎖空間――一定のルールがあって、その中にいる者にはそれをちゃんと守ってもらうという感じにしてしまったほうが、逆にそれに対する確固たるアンチが生まれるなどして文学の世界が活性化されるのではないか。もちろん閉鎖空間とはいえ、茶室のにじり口ぐらいの出入口は確保しておき、来る者は拒まず去る者は追わずということにしておくべきだろうが*2

*1:なにせぼくは初めて『QJ』を読んだ時に、「これは、おれの雑誌だ!」と思いましたから。要はなんか敷居が低く見えたんですね。でもその敷居の低さこそサブカルチャー雑誌の条件なんじゃないかと。それはかつての『宝島』や『ビックリハウス』などにも当然言えるわけですが、一方『新現実』などにはそれがあまり感じられないような気がします(そういえば「新現実新人賞」はどうなった?)。まさに、閾値ならぬ「敷居値」は、その雑誌のサブカルチャーの度合いを如実に示すものなのです。

*2:唐沢氏が理想とするおたくの集まりとはつまるところ、茶会であったり俳諧などにおける連みたいなものなのではないか。もちろん集まる連中がある程度の教養を共有していないことには、単なる閉鎖のための閉鎖空間になって悲惨なことになりかねないけれども。