マラソンがグローバリゼーションに負けた日

http://news.msn.co.jp/newsarticle.armx?id=656982
これまで「世界最高記録」としか扱われなかったマラソン競歩といったロード種目のレコードが、ついにトラック種目と同様に「世界記録」として認められるようになったというお話。
一見、大したことではないように思えるが、実はこれは、マラソンという競技がついにグローバリゼーションの波に巻き込まれたことを意味する結構重大なできごとなのではないか。
たしかにマラソンは近代オリンピックとともに生まれたものであり、当初からグローバリゼーションとは切っても切り離せない関係にはあった。しかしそれでも「レースによってコース条件が異なる点を考慮し」あくまでほかの競技とは記録を区別されることで、けっしてグローバリゼーションに取り込まれることのない局地的(ローカリゼーション)な性格を守ってきたともいえるだろう。同じ距離(しかも100メートルや200メートルといったきりのいい距離ではなく、42.195キロという中途半端な距離)なのに、行なわれる場所(トポス)の相違によってレースの内容が変わってしまうというマラソンの特異性は、全世界に均一のものを押し広めようという動きに反するという意味において「反近代的」ですらあった。
そもそも近代オリンピック自体が、産業革命以来の近代化があるところまで行き着いてしまったがゆえに生まれた19世紀末ヨーロッパにおける閉塞状況を打破するために、古代オリンピックに範を求めて発案されたものだったわけで、ある意味、「近代の超克=ポストモダン」的な性格も含んでいたとはいえないだろうか。その中でも「マラトンの戦い」の故事を再現するものとして考案されたマラソンは、よりポストモダン的な種目だったといえる(そもそもマラソンを発案した人物が、教え子にソシュールなどを持つフランスの言語学者・ミッシェル・ブレアルだったというのも何だか意味深だし)。
しかし今回の世界記録公認という事態によって、マラソンはトポスとは無縁の、極端にいってしまえば単なる数字の競争にすぎないほかの近代スポーツと同じ次元へと堕ちた。これによって、さらに記録の出る条件を求めて、マラソンのコースの平均化がより推進されることだろう。そして、高地など平地ではない場所はことごとくレースの開催地から排除されるに違いない。ということは、メキシコ・シティのような高地にある都市はもう二度とオリンピックの開催地にすら選ばれないかもしれないのだ。
そんなふうに考えると、きょうまさにマラソンはグローバリゼーションに負けたのである。