大竹まことよ、反省しる!

昨晩友人の田中北京(別名・クワトロ・ペキーナ)氏との電話の中で、昨年末のM-1グランプリの話が出る。やはり夜のシマネコ(http://t-job.vis.ne.jp/Nikki/N0401.htm)の1月4日付の日記で東天寺ヨブ氏も書いていたように、今回の本当の優勝者は笑い飯であったということで田中氏と意見が一致。また、島田洋七中田カウスはともかく、少なくとも大竹まことは自身の芸風などを鑑みれば、やはりフットボールアワーではなく笑い飯に票を投じるべきだったのではないかと。
ここで思うのは、M-1のようなショーアップ化された賞での投票に際して重視すべきなのは、個人の好き嫌いではけっしてなく、いくらあざといと言われようともまずは時代における文脈だとか世間への衝撃度なのではないか*1。そもそもそういったことを重視してグランプリを選出することこそが、従来の賞に対するM-1の存在意義だったんじゃないの? 同グランプリの実質上の企図者である島田紳助が今回最終戦笑い飯に投票したのは、もちろん個人的な好み・評価もあるんだろうけど、それ以前に賞の本来の意図を踏まえた上でのことであったはずだ。その点を大竹まことはすっかり忘れていたか、考えていなかったのだと思う。大竹まことよ、反省しる!

*1:その意味で、文学において現在もっともショーアップ化された賞は芥川賞ではなく、選考委員の福田和也が自認しているようにやはり三島賞なのだと思う(芥川賞石原慎太郎から村上龍あたりまでは確実に文学のショーアップ化が最大の目的だったはずなのだが)。あと文脈を考えて賞を選んだ例としては、かつてパルコ主催の日本グラフィック展で日比野克彦が受賞した際に、選考委員だった藤原新也が個人的には日比野の作品が嫌いだったにもかかわらず、当時の文脈からすれば彼に受賞させなければならないと考え、投票したということがあったようだ。