都内某所にて(って先に告知してるのでバレバレでしょうがw)、1979年にテレビ朝日で放映された泉谷しげる主演の長編ドラマ『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』を観る。吉展ちゃん事件とは1963年に実際に起こった誘拐事件で、同事件を取材した本田靖春のノンフィクション『誘拐』*1がこのドラマの原作となっている。この事件の誘拐犯・小原保の役を泉谷しげるが名演した作品として、ぼくも以前からその存在は知っていたのだけれども、実際に観たのはきょうが初めて。テレビ関係の各賞を受賞するなど世間の評価は高かったにもかかわらず、なぜか現在にいたるまでビデオ化もされていないことから、よっぽど残虐な描写でもあるのかと思っていたのだが、そんな場面はほとんどない。小原が誘拐した四歳の子供を窒息させて殺害する場面も、ほとんどロングショットで、子供が命を絶たれる様子は直接的には撮られていない。しかし何ともいえない重苦しさが全編を通して漂っている*2。
この重たさは、まず事件そのものに由来するのだと思う。小原保は福島の貧農の出身であり、上京してからは時計職人として働いていたがやがて借金を重ね、取り立てに追われることになる。彼が犯行に及んだのはその借金返済のためであった。こうした境遇の上、彼は右足が不自由だった。これもまた貧困がそもそもの原因である。少年時代、藁草履しか履かせてもらえない家に育った彼は、冬場に足の指にあかぎれをつくり、雪が溶けてぬかるんだ道を歩くうち、その傷口から細菌が入り指は化膿しやがて脊髄まで冒されてしまったのだ。こうして小原保が抱えるに至った足の障碍まで、泉谷しげるは見事に演じている……と、おおかたの何も知らない人は思うだろう。しかしこの裏には複雑な事情がある。というのも実は泉谷しげる自身もまた右足に障碍を抱えているのだ。思えば、そんな役を泉谷に依頼した制作側も制作側だが、彼もよく引き受けたものだ。しかしそのおかげもあって、この作品は事件をリアルに再現することに成功している。
ところで、右足が不自由な役を泉谷が演じた例としてぼくが思い出す作品がもう一つある。それは『誘拐』のちょうど20年後の1999年にTBSで放映された連続ドラマ『ケイゾク』だ。この中で泉谷は、自宅に送りつけられた爆弾で妻子を喪うとともに自らも片足の自由を奪われた定年間際の刑事を演じていた。それを思い出して、ぼくはひょっとして演出の堤幸彦が『誘拐』へのオマージュとして泉谷にこの役を依頼したのかと思わず邪推したのだが*3、真相はどうも逆で、『ケイゾク』の第一話を観た泉谷のほうから、自らも出演したいとアピールしたのだという。ただし、本人としてはあくまでも犯人役、それも警察官など権力を持つ人物の役を希望していたようである。
前々から、権力を持つヤツのヤバさをやってみたかったんだよ。現実も、こんな偉い人が? っていう事件ばっかり起こってるじゃない。自分は選ばれし人間だっていう思い込みだろうけど、その感覚を出せたらいいなと思ってね。で、『俺にやらせろ、犯人役だぞ』つって。ところが、えらく情のある刑事役だったろ? 最近は、二枚目の悪役のほうがゾクゾクするんだな。俺みたいな怖い顔のヤツはいい人に回されちゃうんだ(笑)
(柴田純保存委員会編『ケイゾク公式事件ファイル』角川書店、1999年)
泉谷も語っているように、たしかに90年代以降、ドラマや映画などでの犯罪者役を二枚目の俳優が演じることが多くなった。それも彼らが演じるのはだいたい「快楽殺人」「理由なき殺人」などと呼ばれるような凶行に及ぶ、これもまた90年代以降目立つようになったタイプの犯罪者である。『ケイゾク』に登場する犯罪者たちもこの手のタイプが多く、高木将大などが演じていた。一方、泉谷がかつて『誘拐』で演じたのは、生活苦や借金に追われやむなく犯行――いわば「理由ある殺人」に及ぶタイプの犯罪者だった。ぼくが思うに、泉谷が『ケイゾク』で犯人役にキャスティングされなかったのは、つまるところ、彼のような俳優には「理由なき殺人」タイプの犯罪者を演じることを求められていないからではないだろうか? たとえ泉谷が「理由なき殺人」に及ぶ役を演じたとしても、あまりにも理由を背負いすぎているような印象を与えてしまうはずだ。それよりはむしろツルッとした、一見すると虫も殺さないような二枚目タイプの俳優のほうがこの手の役にふさわしい……というのが現在の多くのドラマや映画の制作者の見解ではないだろうか。やはり「理由なき」というアリバイをつくるには、いかにも人を殺しそうな「怖い顔」の俳優では困るのだ。
そもそも『誘拐』で描かれたような貧困を直接の原因とする犯罪事件は、吉展ちゃん事件や永山則夫による連続射殺事件あたりを最後に、日本という国が経済的に豊かになることでほぼ消滅したといってもいいだろう。たとえばこの事件から8年後、ちょうど小原保が死刑に処された1971年に発生し、ビートたけし主演でテレビドラマ化もされている大久保清による連続女性殺害事件などは、もはや小原の犯罪とは異質のものである。大久保の犯罪は、自らの欲望を女性の欲望を利用して(具体的には画家を名乗りモデルになってくれなどと誘うことで)満たそうという類いのものだったからだ。それはけっして「やむなく」犯すようなものではない。その後あらわれた「快楽殺人」などはこの手の犯罪の究極的なものだといえる。
それにしても冒頭にも書いたように、『誘拐』がいまにいたってもソフト化されていないのはやはり不思議である。聞くところによれば、一度だけビデオ化の話が持ち上がったものの、ちょうど宮崎勤による連続幼女殺害事件のころであったため、泉谷自身が配慮して断ったそうだが、それはあくまでも時期が悪かったというだけの話であり、そのあとでビデオが出てもよかったはずだ。そう考えると、何かもっと別の問題があって出せないのだろうかという疑念を抱いてしまう。たとえば犯人や被害者を実名であげていることなどが問題なのかとか*4。しかしそんな理由だけで出せないなんて、本当にもったいない。いまではほとんどありえない事件だからこそ、四半世紀前のオンエア時よりももっと距離感をもって(とりわけ若い世代には)このドラマを見ることができると思うのだけれど……。
※ちなみにこのドラマは現在でも横浜の放送ライブラリーに行けば観られるようです。未見の方は中華街に行きがてらこちらで鑑賞するというのはいかがでしょう? デートの際にこのドラマを観れば、きっと何ともいえない気分になることうけあい!
*1:余談ながら、たしかこの本を読んで猪瀬直樹はノンフィクション作家を志したんだっけ。
*2:映像を観てこんなに重たい、救いようのない気分になったのはいまは亡きBOX東中野で小沢昭一主演の映画『競輪上人行状記』を観て以来かもしれない。あれもまた貧困の直接的な描写がこれでもかこれでもかと出てくる作品だった。
*3:だって、『ケイゾク』には昔の刑事ドラマへのオマージュ的なネタ(たとえば主人公の名前・柴田純は、『太陽にほえろ』で松田優作が演じた“ジーパン”の本名からとったとか)がたくさんちりばめられていたもんだから、つい……。
*4:ドラマの中では、事件当時の新聞記事も何度か出てくるのだが、これがやけにまがまがしい。やはり現在の電算写植にはない活字というものの持つ物質的な力のせいだろうか。