はてなサーバー移転のどさくさにまぎれてこんな与太を一つ…

今週号の『ヤングサンデー』巻頭の相武紗季グラビアが良いです。ほー、近々主演映画が公開され、写真集も出るとですか。刊行記念にイベント開いてくれないかな。
それはそうと、相武という字面を見るたびに、西武とか東武みたいにそんな鉄道会社が実在するのではないかとつい妄想してしまいます。たとえばこんなふうに。

相武鉄道【あいぶてつどう】 東京都の府中と神奈川県の相模大野のあいだを結ぶ私鉄。大正12年に府中・南多摩(現中央大学前。現在のJR南武線南多摩駅とは別の駅)間が開業した南多摩鉄道がその前身。昭和13年に本線が相模大野まで延伸したのを機に現在の社名に改称した。府中・相模大野間のいわゆる相武本線以外にも中央大学前(旧南多摩)・多摩動物公園間を結ぶ公園線(昭和33年開業)という支線もあったが、平成12年の多摩都市モノレールの多摩センター・立川北間の開通とともに廃止された。本来、相武は「そうぶ」と読まれるべきだが、旧国鉄総武本線と区別するためかいつしか「あいぶ」と呼ばれるようになっていたというのが定説である*1昭和19年には戦時統制で東急・京王・小田急京急などと統合されたものの*2、戦後再び独立を果たした。小田急ロマンスカー東武スペーシアのような観光列車を走らせることもなく(例外として昭和30年代のレジャーブームの折に「いさみ」「そうじ」といった新撰組にあやかった臨時特急が日曜ごとに運行されたほか、昭和59年には多摩動物公園にやってきたコアラの名前にあやかり臨時特急「タムタム号」「トムトム号」が記念に運行されている)、長年地元住民の足として細々と営業を続けてきたが、昭和53年の中央大学の多摩移転にともない一時的に業績が上向き、宅地開発事業にも乗り出すもバブルの崩壊とともにあっけなく撤退。以来多額の負債を抱え、苦しい経営が続いている。しかし昨年、イメージキャラクターに相武紗季を起用し、「アイブのさきには何がある? ――80年目の相武です」というキャッチコピーでテレビCMを放映したところ、これが人気を呼ぶことに。その反響を受けて、同社は今春3月20日に臨時特急「さき」を走らせるとともに、相武鉄道の一日社長に任命された相武紗季が各駅でイベントを行ない、多くのファンを集めた。

「アイブのさきには何がある?」なんてことを17、8の女の子に言わせようとは、われながらそのオヤジ的センスに苦笑してしまいます……あははは。しかしアイドルヲタと鉄ちゃんというのは重なるもんなんですかね。そこらへんちょっと気になります。
ところで、ちょっとネットで調べてみたら、「相武電気鉄道」というのが本当に計画されていたんですね。
 参照:http://www2.famille.ne.jp/~masa-tee/k_soubu/
もちろんこれは「あいぶ」ではなく、「そうぶ」と読むのでしょうが。
さて、ぼくはきょうは昼から友人と、アテネフランセで上映される小川紳介監督の『圧殺の森』と土本典昭監督の『パルチザン前史』を見てこようと思います(参照)。ちなみに『圧殺の森』というのは60年代半ばの高崎経済大学闘争の記録映画なんですけど、一緒に行くつもりの友人にはこの闘争史についてぼくのミニコミ誌『ZAMDA』に連載してもらっているのです。ああ、次号の編集にもいいかげん力を入れないと……。

*1:ウーン、われながら苦しいな。

*2:初代社長で学生時代には社会主義運動に参加した経験も持つ宮川卯吉は最後まで抵抗したが、「強盗慶太」の異名で恐れられた当時の東急総帥・五島慶太から強く迫られ最終的に統合に応じた。その際、宮川が全社員を前に「いつかまた小さくともわが社が主権を回復する日が来ることを諸君に約束する」と涙ながらに告げたことはいまでも語り草である。こうした創業者の反骨精神はその後も受け継がれ、同社は首都圏の民鉄の共通乗車券・パスネットにも、「利用客には不便をかけるだろうが、JRとも相互利用できるようになるまではわが社は参加しない」として昨年まで参加を拒否してきた。……なんてな。