Culture Vulture

ライター・近藤正高のブログ

忘れ去られた〈ドリフ=1970年代〉

『全員集合』が1985年の9月に終わる際、その16年間の放映のあいだに日本の総理は7人も変わったのだと紹介されていたのがやけに印象に残っている。たしか「総理の名前は知らなくても『全員集合』は誰でも知っている」なんて言い方もされていたはずだ(ちなみに『全員集合』終了の数日後に始まった『ニュースステーション』放映期間中の18年半のあいだに、日本の総理は12人変わっている)。
だが、思えばドリフというのは長いあいだずっと忘れられていたのではないだろうか。あれだけの怪物だったのに……否、怪物だったからこそ誰もまともに語ろうとはしなかった。『日本の喜劇人』の小林信彦も、《子供相手の笑いを提供するドリフターズが、怪物番組としてテレビに居続けていた七〇年代(昭和四十六年から五十五年まで)は、昭和二十年代の喜劇界の空白を思わせないでもない。/ドリフターズそのものには好きな部分もあるのだが、そうした好き嫌いを超えて、土曜の夜を占拠するTBSの兵器となっては、あれこれ言うのが野暮であろう。》と数行を記すにとどめている(『日本の喜劇人』新潮文庫、1982年)。全盛期ですらそんな感じだったのだから、『全員集合』が終わり、裏番組だった『ひょうきん族』など『全員集合』とはまったく違うタイプのお笑いがもてはやされる時代にいたっては誰がドリフを語るというのか。ようするに、もう長いこと誰もドリフのことなんか忘れていた*1。そうじゃないのか?
ようやくドリフがまともに語られるようになったのは、本当にごくごく最近のことだと思う。まずは20世紀も末に『全員集合』プロデューサーの居作昌果あたりが語り出し、それに続いてようやくいかりや長介志村けんが語ることになる。またドリフ関連のソフトも長いあいだ出なかったが、『全員集合』はようやく今年初めにDVDが発売された*2
ただ、忘れられていた云々以前に、本質的にドリフは語りにくいというのはあるだろう。まずドリフは世代でくくりにくい。何せ、メンバーの中で一番交際が長かったといういかりや長介加藤茶の年齢差からして実に12歳だ。旧メンバーの荒井注とそのあとに入ったメンバーである志村けんの年齢差にいたっては22歳である*3。それに加えてドリフのファンも、『全員集合』『大爆笑』が長寿番組だけに年齢層は厚い。これでは世代で論じることは難しい。それにくらべたらドリフに先行するクレイジーキャッツの実に明快なこと。メンバーは「昭和ひとけた生まれ」の一言でくくることができる。
クレイジーキャッツとの比較でいえば、クレイジーが数多くのオリジナル曲で知られているのに対して、ドリフのオリジナル曲というのはびっくりするほど少ない。『全員集合』のオープニング曲である「ドリフ音頭」の原曲は北海道の民謡「北海盆歌」だし、エンディングの「ビバノン音頭」はデューク・エイセスの「いい湯だな」(その後ドリフもカバーしているが)の替え歌である。『大爆笑』のオープニングの「ド、ド、ドリフの大爆笑♪」という歌は日中戦争下の国民歌謡「隣組」(作詞は岡本一平)の替え歌だし、「ドリフのズンドコ節」や「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」も戦時中の軍国歌謡が元ネタである*4。ようするにぼくらがドリフソングとしてすぐに思い出すのは、ほぼ大半がカバー曲なのだ。もともと音楽が原点であるはずのグループなのに、なぜそうなったのか不思議だが。
ちなみに上にあげた「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」は、その元歌である「ほんとにほんとにご苦労ね」自体が「軍隊小唄」という歌の替え歌だった。この例が示すとおり、軍隊内や戦時下の庶民のあいだで歌われた歌には替え歌がつきもので、それらは時には戦時体制に対する鬱憤を晴らすための一服の清涼剤としての役割を果たしていたはずだ(時の総理をからかった「見よ東條の禿頭♪」というフレーズではじまる「愛国行進曲」の替え歌や、たばこの値上がりを嘆いた「金鵄上がって15銭 栄えある光30銭♪」という「紀元二千六百年」の替え歌などはその代表的なものである)*5。とすれば、ドリフの一連のヒットソングも、高度成長期という一種の「戦時下」において清涼剤の役割を担っていた部分があるのではないか。もちろん、それは先行するクレイジーキャッツのオリジナル曲にも同じことが言えるわけだが(「とかくこの世は無責任 こつこつやるやつぁ ご苦労さん♪」と歌った「ドント節」「無責任一代男」などは、がむしゃらに働くモーレツ社員をからかったものといえる)、彼らの歌がどちらかというとサラリーマンなどホワイトカラー層向けという感じがするのに対して、ドリフソングにはブルーカラー層向けというか泥臭さがプンプン漂っている。クレイジーもドリフももともとは同じ渡辺プロダクション所属のグループだが、ひょっとして都会的なクレイジーとは対照的に、土着的なドリフというイメージで意図的に売り出そうとしていたのだろうか?
クレイジーとの比較対照でいえば、クレイジー結成以来変わらぬメンバーでハナ肇をリーダーとする基本体制を崩さないまま全盛期を迎えたのに対し、ドリフは前リーダーの桜井輝夫の現役引退と小野ヤスシら4人のメンバーの脱退ののち、いかりやと加藤に新たなメンバーを加えて再デビューしたという経歴を持つ。その後、よく知られるようにビートルズ日本公演の前座を務めるなどそれなりに華々しい舞台には立ってきたものの、それでも『全員集合』放映開始時にいたっても、相変わらずドリフはクレイジーの二番手というポジションにあった。そもそも『全員集合』は当初そんなに長く続くとは思われていなかったという話を聞いたことがある。考えてみると、同番組の放映開始前後には、ブレヒトの前衛劇を彼らにやらせてみたらどうかと小林信彦に本気で考えせしめたコント55号が人気・実力ともに絶頂を迎え、また日本テレビでは、大橋巨泉前田武彦という放送作家出身のタレント二人が司会を務めるコント番組『ゲバゲバ90分』が始まっていたのだ。先鋭的で、頭脳的ともいえるこれらの笑いとくらべたら、ドリフは完全に肉体的な、前時代的ですらある笑いである。そんな彼らが、まさか一時代を築こうとは誰も思わなかったのではないか。
しかし70年代はドリフの時代となった。『全員集合』はPTAから目の仇にされつつ、1971年には視聴率50.4%を記録し、平均視聴率も40%と「お化け番組」と呼ばれた。テレビが国民のほぼ全世帯に普及した時代ということを考えると、やはりこの記録は驚異としか言いようがない。いわばドリフは、各局が番組制作プロダクションを抱えどんどん分業化を図り巨大産業へと変貌を遂げていく――つまりは「怪物」となっていくテレビを象徴する存在であった。そういえばその同時代のできごととして、テレビがその一部始終を追い続けたあさま山荘事件があるが、あの事件のクライマックスである山荘に鉄球が打ち込まれるシーンは『全員集合』のコントのオチにそっくりではないか。ただし、この事件が露呈させたテレビのドキュメンタリー性をバラエティ番組に生かしたのはドリフではなく、そのライバルの萩本欽一であった*6。フジテレビの『欽ちゃんのドンとやってみよう』(『全員集合』の裏番組だったこの番組は一時視聴率競争でドリフを打ち負かすこともあった)などで展開されたそうした萩本の試みはその後、『オレたちひょうきん族』に受け継がれて*7さらにエスカレートし、ついにはテレビ界全体に定着することになる。一切のハプニングを許さず、徹底的につくり込まれた『全員集合』がピリオドを打ったのは、まさにそんな時代に突入したころだった――。
余談ながら、『全員集合』の後番組の『カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ』に、「おもしろビデオコーナー」という一コーナーが設けられたのはいまにして思えば非常に示唆的である。ハプニングの瞬間をとらえた、しかも一般の視聴者が撮ったビデオを紹介するこのコーナーは、テレビが「怪物」として視聴者の上に君臨した時代から、ビデオカメラを手にすれば誰もが映像を撮られる立場にも撮る立場にもなりうる時代が到来したことを告げることとなった。その後、似たような企画は様々なテレビ番組で見られるようになったが、そのきっかけを、かつてハプニングを徹底して排除してきたドリフのメンバーがつくったというのは意味深いものがあるのではないだろうか。
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それにしても、ドリフをはじめとして70年代に一世を風靡したものというのは、ノスタルジーの対象となることこそ多いが、まともに論じられることは思いのほか少ない。ピンク・レディーにしろキャンディーズにしろ、誰かその歴史的位置づけを試みようと一冊の本を著したことがあっただろうか*8。あるいは久世光彦の仕事を体系的にまとめたり、文学や映画の世界に角川春樹がもたらしたものを――それこそ彼の句作を含めて細かく検証した仕事がこれまでに存在したのか? 寡聞にしてぼくは知らない*9
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あと、もう一つ蛇足。どこか泥臭いイメージがつきまとい、「イケていない」存在だったはずのグループが、ある時を境に突然ブレイクを果たし子供たちをはじめ国民的人気を集めるという、かつてドリフがたどったサクセスストーリーは、最近でもどこかで見かけたような気がするのだが……あ、そうか、モーニング娘。というのはドリフの90年代少女バージョンだったのだ! そんなわけで、今後「ドリフ物語」などといったドラマが企画される際には、ぜひモー娘。のそれも1期〜3期のメンバーあたりで演じられることを切に願いたい。

【追記】id:akaponさんから指摘を受けたので(id:akapon:20040429)、二箇所ばかり訂正しました。どうもありがとうございます。なお、「ドント節」や「無責任一代男」を《歌っているのはクレージーキャッツじゃなくてピンの植木等》というご指摘もいただきましたが、とりあえず上記の文章を書くにあたっては、植木等がピンの曲もクレイジーソングの一つとして考えました(クレイジーキャッツのベスト盤の多くも、植木のソロ曲もメンバー全員で歌ったものもクレイジーソングとしてひとくくりで収録していることですし)。そんなわけなので、この点についてはどうぞご容赦ください。
しかし、akaponさんから紹介していただいたサイトを見ると、クレイジーもかなりメンバー変遷が激しいんですね。勉強になりました。(2004.4.30)

*1:小林信彦は『週刊文春』の連載コラムで、《いかりやさんは国葬に近くなったけど、ベースを弾くCMと『踊る大捜査線』がなかったら、〈むかしドリフのリーダーだった人〉で終わりでしょう。》という40代の知人の発言を紹介している(4月29日・5月6日合併号)。やはり『全員集合』が終わってからしばらくは多くの人がドリフ、特にいかりや長介のことなど忘れていたのだ。

*2:こうしたドリフ関連のソフト化は今後ますます活発になることだろう。こうなると、幅広い購買層をターゲットに、手を変え品を変えて次々と関連商品が発売されているドラえもんとともにドリフが“ダブルD”と称される日も近い!?

*3:ちなみに荒井と志村はそれぞれ初代若乃花とその弟の――あまりの年齢差に親子と疑われることさえあった――元大関貴ノ花(現・二子山。元横綱貴乃花の父)と同い年である。

*4:ドリフのほか小林旭が歌ったことでも知られる「ズンドコ節」はもともと「海軍小唄」という題名でも知られる。

*5:もちろんこれらの替え歌は体制に対する抵抗にはまったくなりえず、ただ一時の憂さを晴らすぐらいしか機能しえなかったわけだが。……って、なんだか鶴見俊輔みたいな物言いだな。

*6:俳優としていかりや長介に再びスポットが当たる契機をつくったドラマ『踊る大捜査線』の脚本家が、萩本欽一の弟子である君塚良一だったというのも、何やら歴史の因縁みたいなものを感じる。

*7:欽ドン』のスタッフであった三宅恵介はのちに『ひょうきん族』のディレクターとなり、「ひょうきんディレクター」として自身も番組に出演したことは有名なお話。

*8:そう考えると、平岡正明の『山口百恵は菩薩である』をはじめ、様々な形で語られた山口百恵というのは70年代のアイドルでは本当に稀有な存在だろう。

*9:その意味で、最近出た樋口尚文の、その名も『『砂の器』と『日本沈没』 70年代日本の超大作映画』(筑摩書房)という著書は貴重な仕事だといえると思う。