Culture Vulture

ライター・近藤正高のブログ

覆面作家たち ―作家のビジュアルイメージをめぐる覚書・その2

ところで、これまでの近代日本文学の歴史を振り返ると、作家と肖像写真などそのビジュアルイメージはほかのジャンルにも増して分かちがたく結びついているのではないかとの思いを強くする。舞城王太郎覆面作家であることがことさらに注目されるのも、そういう歴史性ゆえではないだろうか。
実はぼくはここしばらくずっと、以前はてなで書いた文章(id:d-sakamata:20040216)を膨らませて、作家のビジュアルイメージの変遷から近代日本文学史を語ることはできないものかと考えていた。
それにあたりぼくがまず参考にしたのは、後藤明生の「千円札文学論」だ。千円札の肖像といえば夏目漱石だが、その表側だけしか印刷されていなければ偽札であるのと同じく、小説も「読むこと」という表と「書くこと」という裏と文字通り表裏一体になっていなければ偽物である……というこの「千円札文学論」にならえば、まさに明治以降の日本文学の歴史は、作家の肖像という表と作品という裏とが一体になって成立してきたのではないか。さらには、それに当てはまらない例はことごとく「異端」として扱われてきたのではないだろうか。
これは過去において作家が顔を出さなかったケースがどんなものだったか考えていけば、とりあえず証明できるように思う。
たとえば、『いのちの初夜』の北條民雄などに代表されるいわゆるハンセン病文学の作家たち。日本の近代化の途上にあって、同病の患者たちはずっと社会から排除され続け、隔離される際には自らの家族や故郷、過去の経歴、さらには名前にいたるまで一切合財を捨て去らなければならなかった。そんな彼らの文学は、けっして日本文学の本流とはなりえなかった。
あるいは、『四畳半襖の下張り』の金阜山人や『家畜人ヤプー』の沼正三。彼らは作品のスキャンダラスな内容からその素性をあきらかにすることはなかった(前者は永井荷風の変名と伝えられるが)。前者はのちにわいせつ裁判を引き起こし、文壇のみならず社会的に波紋を投げかけたが、やはり異端であることに変わりはない。
しかしもっとも覆面作家を多く輩出しているのは、やはりミステリー小説の分野だろう。これはこのジャンル特有の現象ともいえる。だが、彼/彼女たちにしても、賞を受賞するなりベストセラーを飛ばすなり、ある程度一般的に認知されるようになるとその素性を明かしてしまう(あるいは周囲から明かされてしまう)ケースがほとんどのように思われる。やはり謎の解かれないミステリー小説はないということか? いや、それ以上にまた、ここにも日本文学における歴史性が深くかかわっているように、ぼくは感じるのだが……。
ただ、舞城王太郎はおそらくはこの系譜につらなるものだろうから、今後この分野から「本流」が現われることは十分に考えられると思う。そう考えた時、やはり舞城王太郎と、あるいは作品とはまったく別の次元で(たとえば「りさたん萌え」という形で)そのルックスが話題を呼んだ綿矢りさという両極端な作家の登場は、これまでの近代日本文学史を覆すくらいのエポックとなったのではないか? というのが、ぼくのおおまかな見方だ。ふたたび千円札にたとえるならば、舞城の千円札には肖像があるはずの表がなく、それに対して綿矢の千円札には作品があるはずの裏がない……というより、表と裏が分離して千円札の体をなしていない、とでもなるだろうか*1。どちらにしろこれまでの日本文学史の「本流」からすれば、二人は「偽札」である。いや、舞城にいたってはもはや偽札というよりも、肖像を必要としないカード型の電子マネーにたとえたほうがより的確かもしれない。
――と、このように、舞城・綿矢にいたるまでの作家とビジュアルイメージをめぐる歴史を、樋口一葉あたりから始めて、さらには太宰・三島などといった作家たちのエピソードをふんだんにまじえて書くつもりでいるのだが。さて、一体いつ完成することやら。

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覆面作家に関してさらに追記。四方田犬彦の「詩人たちの肖像」(評論集『クリティック』所収)という文章には、経歴に謎が多く肖像写真も死後1世紀にわたって発見されなかった19世紀フランスの詩人・ロートレアモンについて触れた興味深い箇所がある。

構造主義的思考の洗礼を経過しつつあった(中略)詩人や批評家たちは、(引用者注:ロートレアモンにおける)肖像の不在という事実を敷衍して、非人称的なテクスト理論の傍証に用いようと試みた。「ポエジーは一人によってではなく、万人の手でなされなければならない」というロートレアモンの一句を旗印にして、彼らはテクスト一般を統合支配する主体の位置に揺動を仕掛けたのだが、その際、顔を欠いた詩人とは理想的ともいえる存在だったわけである。

テクスト理論は日本でもかつてニューアカブームあたりを契機に一部では流行したわけだが、その旗振り役を務めた批評家たち――たとえば渡部直己などは、舞城王太郎についてどうとらえているのだろうか? ちょっと気になる。

*1:余談ながら、紙幣を表と裏に分離して使うという事件はたしか10年くらい前に実際にあったはずだ。贋金づくりの歴史からしても、これだけセコい偽造の仕方もないだろう。あ、いや、だからって別に綿矢りさがセコいとかそんなことを言いたいわけじゃないです。念のため。