“From ticket puncher to Prime Minister”

岩川隆『忍魁・佐藤栄作研究』(徳間文庫)読了。
主に兄・岸信介との比較から佐藤栄作という人物に迫ったノンフィクション。蛇足ながら、1984年2月15日初刷と奥付にあるこの本には、「84年春休み一斉ロードショー《特別優待割引券》」と書かれた『風の谷のナウシカ』のしおりが挟まれていた(何せ徳間文庫だからな)。
そんなことはともかく、60年安保の際、デモ隊に取り囲まれた首相官邸内で、二人きりになった首相・岸に向かって「兄貴、一緒に死のう」と言ったというエピソードに象徴されるように、佐藤は情に熱く、身内や郷里・山口への情愛が強い人だったようだ。また、敵対する派閥(佐藤が吉田茂から派閥を受け継いだのに対し、岸は反吉田の急先鋒・鳩山一郎から派閥を受け継いだ)に所属したにもかかわらず、岸が総裁選に立候補した際には、兄を支持したことからも、その兄思いの性格がうかがえる。
このほかにも、造船疑獄*1で政治家生命の危機に立たされたのに懲りて(同書では、この時受け取った献金を佐藤は、吉田茂に反発して当時自由党を脱党していた鳩山一郎の一派を買い戻すために使ったのではないかという説がとりあげられている)、以後自分から金を動かすことはなくなり、おかげで佐藤の事務所や派閥の議員は選挙資金を集めるのに苦労したとか、涙もろく、好きな新国劇を観ては泣き、母校・東大での学生紛争直後に東大構内を視察した際にも泣き(これは機動隊の撃った催涙ガスがまだ残ってたからじゃないかという気もするけど)、69年にニクソンとの会談で沖縄返還の確約をとった時にも泣いて「もうこれで、おれの仕事はなくなった」とまで言ったとか(と言いつつ彼はその後3年も首相を続けるのだが)、人間くさいエピソードには事欠かない。
それに対して、岸は「情」よりも「理」の人で、どこか弟を都合のいいように利用していたところがあるという。そもそも弟のことを本当に考えていたら、戦後、政界復帰にあたって弟と同じ選挙区から立候補するなんてことはなかっただろう(まあ同じ選挙区から同じ党に所属する兄弟が一緒に立候補するなんてことは、中選挙区制だったからこそ可能だったのだろうが)。
同書では佐藤について、その首相辞任までしか扱われていないが、どうせならいきなり長髪にしてみたり、ノーベル平和賞を受賞したりした最晩年まで書いてほしかった。特に佐藤のノーベル平和賞の受賞については、鹿島建設の鹿島守之助*2あたりが結構尽力したという話は聞いたことがあるものの(鹿島が外務省に支援を依頼したところ、「佐藤さんは平和にどんな功績があるんですか」と聞かれたらしい)、その内幕などについてはもう少しくわしく知りたいところ。
それにしても、兄弟合わせて11年もの長期間にわたって政権を担当したというのは、いくら世襲制が横行している政界とはいえ、やはり近代日本においては異例のことと言うしかないだろう。

ところで、ここに表題として掲げた「From ticket puncher to Prime Minister」というのは、鉄道省入省後の一時期、郷里の門司駅で見習いとして切符切りをしていたこともある佐藤栄作が、首相として初めて訪米する際にアメリカ向けにつくられたキャッチフレーズなのだが、これは岩川隆の本ではなく、別の本で紹介されていた言葉だ。そもそもこのフレーズは、岸信介の事務所に出入りする一方で、外資系の企業を顧客にパブリック・リレーションズを手がけていたエージェントで働いていた坂井保之(現プロ野球経営評論家)が考案したもので、坂井の著書『波瀾興亡の球譜』(ベースボールマガジン社ISBN:4583032587)に出てくる。坂井はその後72年秋に、岸の筆頭秘書だった中村長芳に請われて、中村が西鉄から買収しオーナーに就任した太平洋クラブ・ライオンズの球団代表を務めることになる。実は西鉄は一時期、中村を介してペプシコーラが買い取るという話が、かなり現実味を帯びて進められていたものの、ペプシ側との直接交渉直前に東映フライヤーズ(のちの日本ハム)が身売りするという事態が起き、パリーグ自体の信用を疑われて結局立ち消えとなっている。
ペプシといえば、米大統領選でケネディに敗れ、さらにはカリフォルニア州知事選にも落選したニクソンが、大統領に就任するまでのあいだ顧問弁護士を務めていたこともあり*3、その彼が岸と親交があったことを考えると、なかなか興味深い(ただし坂井の著書では、中村とペプシの出会いは、日米経済人会議の席であったと記されている)。なお、ペプシとの破談ののち結局ライオンズを買い取ることになった中村に対して、岸は《西鉄といえば栄光ある球団だ。それを3000万円(引用者注:西鉄側は買収額としてこの値段を提示していた)というのはいかにも哀れだ。せめて1億円ぐらいを考えたがいい》と助言し、中村はこれに従うこととなる。こうして見ると岸信介は、60年安保闘争の際の「一部の者が国会の周りを取り巻いてデモっているだけで、後楽園では何万の人が野球を見ている」という有名な発言とあわせて、日本のプロ野球史にもその名を刻んでいるのだ。

*1:不況下にあった造船・海運業界を保護する法律制定のため、当時の与党・自由党の国会議員たちが業界から多額のリベートを受け取ったとされる事件(1954年)。佐藤栄作も逮捕の一歩手前まで追い詰められるが、当時の法相・犬養健の指揮権発動により免れる。

*2:八重洲ブックセンターをつくった人。

*3:たしか日本ではコカコーラに押されっ放しだったペプシに対して、シェア拡大のため大阪万博への出展を強く勧めたのはニクソンじゃなかったっけ。