「メディアとしての建築──ピラネージからEXPO'70まで」展@東京大学総合研究博物館

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/real/#exhibition
5月8日(日)まで。「メディアとしての建築」という言葉からは、かつて梅棹忠夫大阪万博のパビリオンについて「情報建築」と呼んでいたのを思い出す。

万国博の敷地は、(略)奇想天外な建物がめちゃくちゃにたちならんで、ひじょうに不思議な地域を形成しているわけです。しかも、形からいっても、人間がすめるようなシロモノではない。ひとつひとつ、じつにケッタイなものです。すむとか、何かを製造するとか、そういう世俗的な目的をもったものとは全然ちがうのです。どれひとつとっても、それひとつをさしあげましょうといわれても、もらったひとはこまるようなシロモノなんです。(略)ということは、実用的な目的をはじめからもっていないということなのです。たとえば、テーマ館の岡本太郎さんのたてた太陽の塔、このおもいきった造型なんていうのは、どうしようもない。シンボルとしての意味以外何もないというものなのです。逆にシンボルとして、モニュメントとしてみた場合にはおそろしく迫力がある。どの建物をとっても、みんなそのような性格をもっています。ということは、ひとつひとつの建物が、機能的な目的をもったものではなくて、それ自体がひとつの情報なのだということなのです。わたしたち「万国博をかんがえる会」*1小松左京氏の言葉をかりると「万国博の建築は全部情報建築だ」ということになります。実用建築ではなくて、情報建築なのだというのであります。
 ―梅棹忠夫日本万国博覧会の意義」(1970年)*2

それにしても本当に万博がらみの催しが多いなあ。

*1:「万国博をかんがえる会」とは、東京オリンピック以前(ということは政府や通産省が万博召致に動き出すずっと以前)より梅棹や小松左京ら関西の知識人たちが、日本で万博が開かれたらどんなことができるのか、その可能性を考えるために結成したグループ。その後、大阪で万博が開催されることが決まってからは、メンバーの多くはブレーンとして駆り出されることになる。

*2:『地球時代の日本人』(中公文庫、1980年)所収。