なぜコクドの造成した別荘地に三越が店を出したのか?

余談ながらぼくは以前、あさま山荘事件(1972年)に西武の影を見てとって、同事件をちょっと論じてみたことがある。連合赤軍のメンバーが管理人の妻を人質に立て籠もった河合楽器の保養所・あさま山荘は、当時コクドによって造成が進められていたレイクニュータウンと呼ばれる別荘地の中にあったのだ(参照)。

レイクニュータウンの入口にはフランスの古城・シュベルニー城を模したといわれる三越のファッション館が建っているが(開店は1974年。写真参照)、レイクニュータウンの別荘は、全国の三越を通じてサラリーマンにも購入できる値段で分譲が行なわれた。この当時の三越の社長こそ、後年そのワンマン経営や会社の私物化が問題となり、ついには取締役会で社長を解任され「なぜだ」の迷フレーズを残すことになる岡田茂である(解任後には特別背任罪で逮捕・起訴され、実刑判決を受けた)。岡田は三越銀座店の店長時代に、老舗百貨店としては大胆な若者路線への転進を図ったことでトップへと昇りつめた人物だが、この軽井沢のファッション館もその路線の延長線上にあったことは言うまでもない。しかし彼の悲劇は、仕事のことを相談できる相手が、社内には一切おらず、のちにその関係を糾弾されることになる愛人・竹久みち(彼女はファッション業界における元祖キャリアウーマンともいうべき存在だった)という社外の人間しかいなかったことにあった、と岡田茂について橋本治は同情的に論じている*1。さらに橋本は、岡田三越とは対照的に、古いものに縛られることなく新しい文化の創造に成功した例として、堤清二率いる西武百貨店をあげているのだが、それにしてもなぜ、堤義明のコクドによって開発されたレイクニュータウンに出店したのが、異母兄の経営する西武百貨店ではなく、岡田茂三越だったのだろう? ここにもまた兄弟の確執が現れているというべきか。少なくとも堤清二であれば、俗悪としかいいようがないあのような建物を建てることはなかったはずだが。

*1:糸井重里竹久みちの関係について」、『とうに涅槃をすぎて』(徳間文庫、1984年)所収。