黒田雅子とエチオピア王室

サーヤが結婚して、黒田清子という名前になったという記事を見て、ふと似たような名前でエチオピア王室に嫁ぐ予定だった女性がいなかったっけ? と思い、ちょっと手元にある『現代日本朝日人物事典』で調べてみた。ああそうだ、黒田雅子という人だったっけ(しかしこの名前、いまの皇室とどこか奇縁を感じさせる名前である)。
千葉の久留里藩の旧藩主・黒田広志子爵の次女として生まれた彼女は、1933年にエチオピア皇帝、ハイレ・セラシエ1世の従弟であるリジ・アリア・アベベ王子*1が妃に日本女性を望んでいるという朝日新聞の記事を見て、両親に無断で応募。翌年、第一候補に選ばれている。しかしこの縁談は、当時エチオピアに覇権を伸ばしていたイタリアの干渉や当時の宮内省の消極的な態度で結果的に破談となってしまった。やがて日本はイタリアと同盟を結ぶことになるわけだが、この縁談が成立していればもう少し状況は変わったのだろうか。
英語でEmperorと呼ばれる存在で、第二次大戦後まで残ったのはたしかエチオピアの皇帝と日本の天皇だけだったはずだが、そのエチオピア王室も1974年の軍事クーデターによって終焉を迎え、最後の皇帝、ハイレ・セラシエ1世はその翌年軍に幽閉されたまま死去した。もし先述の黒田雅子とアベベ王子が実際に結婚していたとしたら、結局はこのような動乱に巻き込まれざるをえなかったかもしれない。
なお、明治天皇崩御の2ヶ月後、1912年9月に生まれた黒田雅子はエチオピア王子との婚約破談ののち、1936年に日本人のエンジニアと結婚し、1989年1月、昭和天皇崩御の直後に亡くなったという。
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黒田雅子の縁談については下記のサイトでも簡潔な紹介がされている。

このほか、朝日新聞社から少し前に『マスカルの花嫁―幻のエチオピア王子妃』(山田一広著、ISBN:4022570474)というノンフィクションが出ていたり、最近岩波から出た『アフリカ「発見」 日本におけるアフリカ像の変遷』(藤田みどり著、ISBN:4000268538)にもこのことについて詳述されているようなので(参照)、ちょっとチェックしてみようかと思う。

*1:『朝日人物事典』も含め、多くの文献でこのアベベ王子がエチオピアの皇太子として扱われているのだが、その後1974年に起きた軍事クーデターの際の皇太子の名前はウェッセンである(彼は当時スイスにて病気療養中であり、クーデターを起こした軍からハイレ・セラシエに代わり皇帝即位を要請されたものの結局断わっている)。アベベとウェッセンはおそらく別人だろう。もしかして途中で皇太子が代わったのか、それとも単にアベベを皇太子とする文献が誤まっているだけなのか。ネット上には、ハイレ・セラシエ1世が皇太子時代に結婚相手に日本女性を望んだという記述すら見つかるのだが、ハイレ・セラシエが皇帝に即位したのは1930年であり、時期的には黒田雅子らが王子妃候補に応募するよりも前なので、これは完全な事実誤認だろう。