2007年の新幹線(再録)

本エントリでこれから転載する文章はもともと、昨年11月の文学フリマで発売した個人誌『Re:Re:Re:』臨時増刊「新幹線をめぐるディスクール・断章 増補改訂版 1964-2007」に掲載したものです。
昨年の大晦日になって、ブラジルへの新幹線技術の輸出を政府が検討しているというニュース*1が報じられました(ただし私がこのことを知ったのは年が明けてからでしたが)。このニュースを受けてあらためて考えるに、2007年という年は新幹線にとって、初の海外輸出のケースとなった台湾高速鉄道の開業にはじまり、ブラジルへの輸出構想に終わったという感を抱きます。
このほかにもこの一年のあいだには、新幹線をめぐってさまざまな動きがありました。ここに転載する拙文は、それらもろもろの動きを「新幹線技術の海外輸出」「新幹線と地域社会をめぐる問題」「リニア中央新幹線実現に向けた動き」と三つのトピックスに分けてとりあげるとともに、問題点等をざっと考察したものです。いずれのトピックも今年以降も引き続きさまざまな面から検討されるべきものであることから、今回、年頭にあたって再録する次第です。

なお、文中でかなりの紙幅を割いて言及している九州新幹線長崎ルートの問題は、昨年末になって、その着工条件となっていた並行在来線の経営分離をせず、新幹線開業後も20年間は運行継続を保証するという方向で、佐賀・長崎両県とJR九州のあいだで合意がなされ(参照)、上記条件を理由にいままで建設に反対していた地元自治体(佐賀県鹿島市江北町)もこれを容認したことから(参照)、事態は急速に進展を見せ始めている……ということを、ここにつけくわえておきます。

余談ながら、この文章を収録した個人誌については、刊行直後、id:leftside_3さんという未知の方から絶賛をいただき、大変うれしかったです。遅ればせながらここに御礼申し上げる次第です。ありがとうございました。
※以下の文中に出てくる「今年」は2007年、「昨年」は2006年を指します。そのほか、転載にあたり漢数字をすべてアラビア数字にあらためました。
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 オリジナル版(2004年11月に発行した個人誌『Re:Re:Re:』Vol.2「新幹線と〈その先の日本〉」)の発行から3年が経つ。おかげさまで先の版は一部で好評を受けた(一部は一部でも「ごく一部だろ」というツッコミは受けつけません(笑))。この間にも新幹線をめぐっては各方面で動きがあり、とりわけ今年、2007年は新幹線にとってエポックとなる年として後世記憶されるのではないかと思わせるほど、重要なできごとが相次いだような印象がある。
 もちろん、2003年の東海道新幹線の品川駅の開業とそれに合わせた大規模なダイヤ改正のように派手なできごとがあったわけではない。今年の新幹線をめぐるトピックとしては、たしかに東海道・山陽新幹線の新型車両「N700系」のデビューは人々の耳目を集めたが、15年前の300系のぞみの登場以来、JR各社が競うように新型車両を開発を繰り広げている昨今の流れからすれば、N700系という最新技術を投入した気鋭の車両ですら単なるモデルチェンジというぐらいにしか扱われかねない。
 ぼくがエポックだというのは、もっと本質的な部分で、あとから振り返ったときに、すべてのはじまりはこの年にあったといわれるような、そういう事項がいくつか重なったことを指している。おおまかに分けるなら以下の三つのトピックに集約されるだろうか。

 (1)新幹線技術の海外輸出
 (2)新幹線と地域社会をめぐる問題
 (3)リニア中央新幹線実現に向けた動き

 本稿では、これらのトピックに含まれる具体的なできごとをあげ、それらが意味するものを考えながら、針の穴から覗く程度でも新幹線の将来を展望できればと思う。

 (1)新幹線技術の海外輸出
 ことし年明け早々、台湾高速鉄道の板橋(台北市)・左営(高雄市)間が開通、3月には台北・左営間がついに正式開業した。日本の新幹線技術が海を渡ったのはこれが初めてである。このことが弾みをつけたのか、6月には、ロシアが2030年を目標に進めるシベリア鉄道などの鉄道網整備計画について、日本政府が新幹線技術を使った支援に向けてロシア側と協議に入ることを表明している。またイギリスでも、ロンドン市内のセントパンクラスとドーヴァーを結ぶ高速線「CTRL」と同線に乗り入れる在来線を走る高速鉄道車両を日立製作所が受注、2009年に予定される運行開始を目指し、今年8月より試運転が始まった。日立製作所東海道新幹線開業時より新幹線用車両を製作しているほか、新幹線運転管理システム(COMTRAC)の開発も手がけており、今回英国に輸出された車両にも当然ながら新幹線技術が利用されている。
 とはいえ、新幹線技術を海外に輸出しようという動きは何も近年に始まったことではない。すでに30年前には当時の国鉄がイランへの新幹線輸出に向けてマスタープランを作成している。だがこの計画は、1978年から翌年にかけてイラン国内に起こったイスラム革命によって頓挫してしまった。90年代に入ると、韓国でソウル・釜山を結ぶKTXが建設されるにあたって、日本の商社やメーカーが新幹線を売り込むべく連合を組み、フランスやドイツのメーカーと熾烈な商戦を展開したものの、日本は93年の最終入札には参入できず敗北を喫した(採用されたのはフランスのTGVだった)。先述の台湾高速鉄道の入札でも、日本はフランスとドイツの欧州連合に一旦は敗れており、必ずしも順調に輸出が決まったわけではない。それがここへ来て、新幹線技術の海外輸出が徐々に実現を果たし、将来の展開についても日本の企業や政府が積極的な姿勢を示していることは注目に値するだろう。
 なお、かつて日本の新幹線が導入される計画のあったイランの首都・テヘランと北東部の聖地・マシャドを結ぶ路線については、今年6月、ドイツのリニアモーターカー「トランスラピッド」を導入する方向で、イラン政府とドイツ企業が初期調査を始めることで合意に達したという。

 (2)新幹線と地域社会をめぐる問題
 4月25日、九州新幹線鹿児島ルートの高架橋建設により住環境や財産権を侵害されたとして、鹿児島市内の住民7人が鉄道建設・運輸施設整備支援機構(旧・日本鉄道建設公団)に対し損害賠償を求めた訴訟の判決が鹿児島地裁で下された。判決では日照阻害および騒音・振動の被害と、それにともなう土地・家屋の資産価値下落による経済的損害が認められ、同機構に対し計約1700万円の支払いが命じられた。問題となったのは、鹿児島中央駅から500メートルほど先にあるトンネルに入るまでの区間である。この付近は人口密集地帯にもかかわらず、日本鉄道建設公団は必要最低限の用地しか買収しなかったため、多数の民家の間近を新幹線の高架橋が通ることとなってしまった。
 新幹線公害というと、かつて名古屋市内の東海道新幹線沿線の住民たちが訴えを起こした「名古屋新幹線公害訴訟」がよく知られている。このケースでもやはり必要最低限の用地買収しか行なわれず、新幹線が住宅密集地を通ることになったがために沿線住民に深刻な被害が発生した。この反省から以後の新幹線建設では事前に公害防止対策が実施されている。たとえば山陽新幹線では、北九州市内の区間で日本最大の緩衝機能を持つグリーンベルトが設置されたほか、東北・上越新幹線の建設にあたっても、東京や埼玉の都心部を走る区間で線路の両側に約20メートルの緩衝地帯が設けられ、その地帯となる居住者に対しては移転補償がなされた。そうした経験があったにもかかわらず、九州新幹線鹿児島ルートの建設――少なくとも先述の区間では十分に生かされず、今回の賠償命令という結果となってしまったわけである。しかも起訴は2000年9月と、新幹線が開業する3年半も前のことであり、開業前に何とか解決を図れなかったものなのかという疑問が残る。この事例は、新幹線公害という過去にある程度クリアしたはずの問題が、新たに建設された路線でふたたび現われ出たケースといえるだろう。
 公害は古くて新しい問題だが、次にあげる二つの事例は、新幹線と地域社会が新たな関係に入りつつあることを示しているように思う。
 一つは、滋賀県栗東市に設置が予定されていた東海道新幹線の新駅「南びわ湖駅」(仮称)をめぐる問題だ。同駅はすでに昨年5月に起工式が行なわれ本格工事に入る目前だったが、同年7月の滋賀県知事選挙で、建設凍結を公約に掲げた京都精華大学教授の嘉田由紀子が当選したことで計画の見直しを迫られた。この新駅は、地元の要望により計画された「請願駅」である。
 東海道新幹線で初めての請願駅は、1969年開業の三島駅である。だが多額の経費を要する新駅の建設は、経営危機に陥っていた国鉄にはあまりに負担が大きすぎたため三島駅の開業以後は長らく避けられる傾向にあった。それが83年に「全国新幹線鉄道整備法」が一部改正され、地元の費用負担により新幹線に新駅を設置することが認められたのを契機に、JR発足後の88年には、東海道新幹線では19年ぶりの新駅となる新富士掛川三河安城の各駅が、山陽新幹線新尾道・東広島の両駅と同時に開業している(山陽新幹線ではさらに99年、厚狭駅が開業した)。実は栗東市の新駅は、これら開業済みの請願駅に先んじて計画が始動している。三島駅の開業した69年、当時の栗東町の町議会は新幹線新駅誘致特別委員会を設置、これに滋賀県と周辺の市町が同調したことから誘致運動が始まった。
 しかし40年近くものあいだ計画が進められるなかで、県の財政は悪化し、また全国的にも公共事業が見直されるようになり、果たして地元が全額負担してまで駅を建設する必要性があるのか、地元の住民たちも疑問を抱きはじめた。そうした状況の変化が滋賀県民に新駅建設の反対を訴える人物を知事に選ばせることとなったのだろう。栗東市では昨年10月の市長選で、建設推進派の国松正一が再選を果たしたものの、その一週間後には、市議会の議長が「市長選で、新駅建設の凍結、中止を掲げた二候補の得票が合わせて六割近くを占めたのに市長が推進を訴えているのはおかしい」として自ら辞任するなど(『読売新聞』2006年10月30日付)市政は混迷した。
 知事にとって直接の追い風となったのは、今年4月の県議会選挙で建設の凍結・中止を唱える当選者が議会の過半数に達したことだろう。さらにそれまで駅建設を推進してきた県議会の自民党の会派も建設凍結へ方針を転換したため、ついに県議会には推進派はいなくなり、新駅建設の凍結はほぼ確定的となった。この間4月24日には、滋賀県栗東市・「東海道新幹線(仮称)南びわ湖駅設置促進協議会」*2(以下、促進協議会と略)・JR東海の四者のあいだで覚書が交わされ、10月末までに新駅設置について結論を出すこととなった。覚書では、JR東海以外の三者が建設を進めることで合意した場合を除き、建設中止で合意するしないにかかわらず新駅建設にかかわるすべての協定類は10月末をもって終了することになっていた。結局、知事の中止の提案を栗東市長が応じることはなく、10月28日に開かれた促進協議会の総会では合意にいたらなかったという事実が確認された。これを受けてJR東海も先述の覚書にもとづいて協定類の終了を発表、ついに新駅建設は中止が最終決定したのだった。請願駅が着工後に中止されたのはこれが初めてである。
 地域におけるもう一つの事例は、九州新幹線長崎ルート(西九州ルートとも呼ばれる)における並行在来線の問題である。
 JR発足後、それまで一時凍結されていた整備新幹線(1973年に整備計画が決定した、九州の2ルート〈鹿児島・長崎〉・北陸・東北〈盛岡以北〉・北海道の五つの新幹線)の建設が再始動した際、新幹線と並行する在来線のうち採算の見込めないものはJRから経営分離することが可能となった。整備新幹線として最初に開業した長野新幹線北陸新幹線の一部。1997年開業)では、並行する信越本線のうち横川・軽井沢間は廃止、軽井沢・篠ノ井間はJR東日本から経営分離され、長野県をはじめとする沿線の自治体や企業が出資して新たに設立された第三セクターの「しなの鉄道」に移管された。その後も、東北新幹線の盛岡・八戸間の開業時(2002年)には、並行する東北本線の同区間が「IGRいわて銀河鉄道線」と「青い森鉄道」に、九州新幹線鹿児島ルートの新八代鹿児島中央間の開業時(2003年)には、並行する鹿児島本線のうち八代・川内間が「肥薩おれんじ鉄道」に……というぐあいにそれぞれ経営権がJRから第三セクターに移行されている。
 こうした流れに対しては、地元への負担の増加や地域交通の衰退などを懸念して、在来線沿線の自治体や住民たちから反対の声もあがっている。とりわけ長崎ルートの建設にあたっては、並行在来線の経営分離の対象となる佐賀県内の自治体が反対の姿勢を示した。当初は反対していたのは、対象の4自治体すべてだったが、県の説得もあり2町が建設に同意し、現在では江北町鹿島市のみとなっている(ただし江北町では町長は反対姿勢を貫いているが、町議会は昨年3月に経営分離について同意決議を行なっている)。このうち鹿島市では昨年、新幹線建設反対を訴える現職市長の桑原充彦(まさひこ)が、建設推進派の候補を破って五期目の当選を果たした。桑原は今年3月に開かれた定例市議会でもあらためて反対理由の説明を行ない、そのなかで在来線特急の「かもめ」を生物における絶滅危惧種になぞらえ、その存続を訴えたことが話題を呼んだ(このときの市議会での市長の説明は、このサイトにある議会会期日程表の3月1日の箇所、「市長の提案理由説明」〈PDFファイル〉から読むことができる)。
 この演説のなかで桑原は、九州新幹線長崎ルートの特殊性に触れ、同ルートが「他の整備新幹線と同列に論ずることはできない」ことを強調している。どういうことか一言でいえば、線路の幅がほかの新幹線とは違うのである。
 九州新幹線長崎ルートにおいて、ほかの新幹線と同じ幅の線路(標準軌)を走るのは、現段階の計画では鹿児島ルートと共用する博多・新鳥栖間(2011年開業予定)だけである。それ以外の区間は、在来線の長崎本線佐世保線を走る区間新鳥栖・武雄温泉間、諫早・長崎間)はもちろん、新たに建設される武雄温泉・諫早間も将来的には時速200キロの走行が可能な高規格新線とはいえ、在来線と同じ幅の狭い線路(狭軌)が敷設されることになっている。もちろん従来の列車ではすべての区間軌間が統一されていなければ直通運転は無理だが、それを可能にすべく、車輪の幅を変換できるフリーゲージトレインの導入が検討中である。ちなみに所要時間は、現在の博多・長崎間が特急かもめで2時間3分かかるのに対して、新幹線が開通してフリーゲージトレインが導入された場合、1時間19分に短縮されるという(国土交通省の試算による。長崎新幹線建設期成会の試算では1時間2分だが、これは新線の建設区間諫早から長崎まで広げるという条件で計算されたものであり、現段階の計画とはやや外れている)。この短縮効果を大きいとするか小さいとするか、意見が分かれるところだろうが。
 さて、ここまであげたあらましからすれば、このルートは新幹線というよりもむしろ「限りなく新幹線に近い在来新線」といったほうがいいのかもしれない。もちろん最初から全区間標準軌のいわゆる「フル規格」で建設したいのはやまやまだが、地元の現在のふところぐあいではこういう形でしか新幹線がつくれない……ということなのだろう。そのこと自体を責めるつもりはない。問題は、そうした建設計画の実情がどれだけ地元の住民たちに知られ、同意が得られているのか? ということだ。前述の鹿島市長の演説によれば、地元でも、長崎ルートにはフル規格の新幹線が走ると「まだ多くの佐賀県民や長崎県民が錯覚して」いるようである。もちろん、計画を推進する両県はPRにも力を入れている。にもかかわらず、計画の内容が県民たちにはきちんと受けとめられていないとするなら、それは新幹線建設に対する人々の関心の薄さを示しているとはいえないだろうか。つまりは、新幹線の実現に執心する政治家や役人らと、地元に住む人たちとの温度差がそこにはあるように思われるのだ。
 これまでの新幹線、あるいは新駅の建設では、程度の差こそあれ地元自治体と住民が一丸となって誘致活動を行なわれてきたが、ここにあげた二つの地域の事例を見るかぎり、どうも状況は変わりつつあるようである。滋賀県の新駅については、その建設の是非があらためて問われた結果、民意ははっきりとそれを否定した。長崎ルートもこれと同様に、それは本当にそこに住む人たちが必要としているものなのか、もう一度根本的に問い直されるべきだろう。

 (3)リニア中央新幹線実現に向けた動き
 3月1日、JR東海が、自社で開発中のリニアモーターカーについて、今後20年を目処に東京・大阪間で実用化する計画を発表した。さらに4月26日には、同区間のうち、2025年に首都圏・中京圏間での営業を開始するという目標が掲げられた。10月の発表によれば、その建設費は用地買収にかかる費用も含めて4兆〜6兆円と試算され、JR東海の投資余力からすれば自力での建設は十分に可能だという(『東京新聞』2007年10月17日付)*3
 このリニア中央新幹線の自主建設の発表に先がけて昨年9月には、JR東海は、山梨リニア実験線の設備を実用レベルの仕様に切り換えるとともに、実験線全線を建設するため延伸工事を行なうことを決定している(着工は2007年度中を予定)。実験線が将来的には中央新幹線の一区間となる予定だということを考えれば、延伸工事を新幹線実現への布石ととらえることもできるだろう。
 リニア新幹線建設についてぼくが懸念を抱くのは、その計画がもっぱら技術者主導で進められているように思われるからである。リニアモーターカーの開発は1962年に始まったという。驚いたことに、まだ東海道新幹線も建設中のころである。以来、リニアモーターカーは現行の新幹線の文字どおり直線(リニア)上にあるものとして、さらなるスピードアップを至上命令に開発が進められてきた。技術者が長年続けてきた開発を実用化したいと願うのはわかる。しかし単なる技術優先主義にはどうしても危うさを感じてしまうのだ。建設をはじめる前に、経済的な波及効果を予測しておくのもさることながら、リニア中央新幹線の実現で東京・大阪間の所要時間がさらに縮まることで、文化や人々の生活にどのような影響を及ぼすのか、十分に調査しておくことも重要だと思う。
 そもそも1964年に東海道新幹線が登場した時点ですでに、関西から東京へ一方的に人が流れ一極集中化が促進されたという「ストロー効果」が指摘されている。それが三大都市圏が一時間以内の移動圏内となった場合どうなるのか。各地域でさらに基盤づくりをしないことには、いま以上に東京に人口が集中したり、各地域の個性が失われることになるのではないか。ぼくはそのへんに危惧を覚えるのだ。
 ところで、リニア新幹線というと思い出すできごとがある。それは一昨年、2005年の愛知万博に出かけたときのこと。地元の有力企業として出展したJR東海は、そのパビリオンの前に実際に実験線を走行したリニアモーターカーの車両(MLX01-1)を展示したのだが、ぼくの近くで見学していた人が、リニア新幹線について時速500キロのスピードにより、東京・大阪間の所要時間1時間を目指すとパネルで説明されていたのに対し、「そんなに速くなくてもいいよ」とぽつりと漏らしていたのがとても印象に残っている。
 リニア新幹線に関しても問い直されるべきはやはり、その必要性だ。たしかに、将来的に東海道新幹線が改修や災害被害などにより全面的に運行を休止せざるをえなくなったときのためにも、代替路線の確保は必要だとは思う。しかし、時速500キロというスピードをどれだけの人々が求めているのか、いま一度根本的に考えてみるべきだろう。
 余談ながら、ちょうどこの原稿を書いている途中、技術評論家の星野芳郎の訃報(11月8日死去)を知った。星野の言説は、今回の企画*4のなかでもとりあげているが(1995年の節を参照*5)、彼は新幹線のスピードに対して終始批判的だった。東海道新幹線開業時には1年以内にきっと大事故を起こすだろうと“予言”して、絶対に新幹線に乗らないと言っていたという逸話もある。もっとも結果的に新幹線はこれまで乗客・乗員の死亡事故を起こさずにきたわけだが、それでも星野は、ことあるごとに新幹線のスピード偏重主義的な傾向に警告を発してきた点で稀有な存在であった。
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 以上、三つのトピックに分けて、それぞれ事例をあげてあれこれと考えてみた。今年はJRにとってはグループ発足から20年という記念すべきでもあり、これまであげた以外にも、九州新幹線鹿児島ルートの全線開業時(2011年予定)における山陽新幹線との相互乗り入れ開始や、東北新幹線新青森への延伸(2010年度末予定)にあわせたスピードアップなど、各社が競うように自社の新幹線について、将来に向けた計画を発表した。だが、「サービス向上」と謳われるこれらの計画は、果たしてどれだけの人たちの望みにこたえるものなのだろうか。たとえば、山陽新幹線と鹿児島ルートの乗り入れに関しては、航空機への対抗という意味合いもあるようだが、新大阪・鹿児島中央間が約4時間になって、いったいどれだけの乗客が見込めるのか……など、疑問はまだ尽きない。
 そういえば、JR東日本は発足20年を記念した「新幹線YEARキャンペーン」のなかで、「あなたが乗るから、わたしは走る。」というキャッチフレーズを掲げた。乗客の要望にこたえようという企業姿勢を示したなかなかいいコピーだと思うが、これが「わたしが走るから、あなたは乗る。」ではやはり困るのである。あらためて、現在計画中の整備新幹線や中央リニア新幹線が、そうならないよう、今後、議論がより深まるよう願わずにはいられない。

*1:ウェブ魚拓による『読売新聞』2007年12月31日付の当該記事の引用

*2:新駅設置の促進を図るため1988年に設立された組織(設立当初の名称では「(仮称)栗東駅」。2006年5月の着工を控え「(仮称)南びわ湖駅」と改められた)、栗東市をはじめとする周辺自治体の首長および議長と滋賀県知事、関係市選出県議会議員、経済団体などで構成された。

*3:その後2007年12月25日に、JR東海リニア中央新幹線について全額自己負担を前提に建設すると正式に発表した(参照)。

*4:初出誌である個人誌臨時増刊のメイン企画「新幹線をめぐるディスクール・断章〜」のこと。新幹線について書かれたさまざまな文献を引用して、東海道新幹線が開業した1964年から年代別に構成した。

*5:ここで参照しているのは、1995年の阪神・淡路大震災後に『毎日新聞』(95年3月5日付)に掲載された星野芳郎のインタビュー記事である。一部引用すると、こんなものだった。
「仮に今回の地震発生が、一時間半遅れていたらどうだったか。最高時速二七〇キロで走る新幹線は脱線、転覆どころか高架から転落して乗客はもとより周辺住民にも多数の被害を出していたでしょう。地震が新幹線の始発前に発生したことと、ほかの被害が大変な状況だったため、だれも新幹線のプロジェクトそのものを問題にしていないが、僕は痛切に感じました。/新幹線落下の事態になっていれば、恐らく新幹線の安全性なんて問題ではなくなる。新幹線というプロジェクトそのものが正しいのか、正しくないのかが問われただろう。日本の新幹線だけでなく、仏、独の高速鉄道を含め、三〇〇キロ近いスピードで鉄道が走ることがいいのか、悪いのか。いいとすればその根拠は何なのか、と。/日本列島は世界的に見ても地盤が抜群に不安定な列島です。したがって「向こう(仏、独)は三〇〇キロでも、こっちは一〇〇キロでいい」というのが先進国的発想でしょう。JRはあしきナショナリズムとコンプレックスが強い。その結果、三〇〇キロ運転プロジェクトに突っ走っているんでしょう。/(中略)JRはナショナリズムを振りかざして技術的な欠陥は技術で補えるという考え方というか執念。それに僕はイヤな感じを持つんです。つまり、さらにスピードを高めると同時にどんな地震でも技術で克服することが技術者の使命であると。/根本的な問題はプロジェクトの是非なんです。つまり、日本独特の自然を考えず、ただひたすら欧米の技術を追っていくという途上国的発想が、数ヶ月にわたって交通の大動脈が切断されるという被害をもたらした。/新幹線は開業以来三十一年、乗客、乗員の死亡事故を起こしていない。それは誇るべきことで、今後も貫徹させるべきだと思います。しかし、どう考えてもこの不安定で狭い国土に三〇〇キロものスピードで走る鉄道はおかしい」