立石紘一と横尾忠則の作品における「旭日パターン」

以下は、ばるぼらさんのブログのエントリ(立石紘一「である(DE-ART)」のしましま。)への私見。立石紘一(のちタイガー立石、さらに立石大河亞と改名)が描くところのしましまと、横尾忠則が描くしましまと、どちらが先か? というお話です。
当初、先方のコメント欄に書こうと思ったのだけれども、長くなったので、自分のところに書いておきます。
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微妙に立石紘一のほうが早いのではないでしょうか。
旧日本軍の旭日旗から発想されたというこのパターンについて、立石は生前、横尾より自分のほうが早く使ったと言っていたそうですし(という話をどこかで読むか聞くかしました*1)、実際、この作品(「である(DE-ART)」)と同じく1963年に発表された立石の複数の作品にはすでにこのパターンが散見されます。
参考までに、僕の手元にある、9年前に品川区のO美術館で開催された立石の回顧展の図録によれば、《フランスのヌーボーレアリズムやアメリカのポップアートに対抗するために旭日パターンの絵画を描く》と自筆年譜の1963年の項には書かれています。
それに対して、横尾忠則がこの旭日パターンを用いたのは、1965年の土方巽暗黒舞踏公演「バラ色ダンス」のポスター(参照)あたりがどうも最初のようです(細かく調べたわけではないので、はっきりと断言はできませんが)。
ただし、このパターンには、旭日という日本的なもの(言い方を変えれば土着的なもの)のイメージに加え、おそらくはアメリカの星条旗のストライプのイメージも重ね合わせられていると思われます。これはまさに横尾の60年代作品に見られる志向性とも合致するわけで、そう考えると、別に立石から影響を受けたとかそういうわけではなくて、たまたま横尾も自分のテーマを追求していったら、このイメージをたどりついた、というまでの話なのではないでしょうか*2
それにしても、「DE-ART」という作品は初めて見ました。画面中央に描かれている傘を見てふと気づいたのですが、これって、植木等が「アイデアル」のCM(YouTubeにも映像がありました)で差していた傘がモチーフになってるんじゃないでしょうかね。この記事によれば、このCMは63年から65年にかけて放映されたものらしいので、ちょうど時期的にも一致しますし。

*1:O美術館で回顧展を記念して開催されたシンポジウムで、たしか四方田犬彦中原佑介あたりがそんな話をしていたような……。
同様のエピソードとして、立石は、80年代に細野晴臣中沢新一が「観光」と題して連続対談を行なったときにも、自分のほうがずっと前から「観光」ということばを(新たな意味合いで)用いていたと語っていた、なんて話も覚えてて、それもおそらくO美術館でのシンポジウムで誰かが話していたのだと思います。

*2:なお、横尾と立石は中村宏、篠原有司男らとともに、1966年4月に池袋のギャラリー西武で、「IT'S A MAD,MAD ART 美術の中の4つの“観光”」という展覧会を開催しています。