「鉄鋼館」から「万博資料館」へ――来年の大阪万博40周年を機に

 大阪の万博記念公園にある「鉄鋼館」が万博資料館になることが決まったとか。

 記事にもあるとおり、鉄鋼館は1970年の日本万国博覧会大阪万博)にて日本鉄鋼連盟が出展したパビリオンだ。
 やはり現存する万博パビリオンである太陽の塔とくらべれば、残念ながら知名度は低いだろう。が、太陽の塔が当初あくまでも万博閉幕後の保存が未定だった(いわば“仮設建築物”である)のに対し、鉄鋼館は最初から「永久保存」が決まっていた“本格建築”である。
 僕は一昨年(2007年)の3月、ある旅行代理店の企画による太陽の塔の内部見学ツアーの際に、鉄鋼館を訪れている*1
大阪・万博公園「鉄鋼館」全景(西面)
▲鉄鋼館全景
 館内施設のうち、万博開催時に「スペース・シアター」と呼ばれ、コンサートやレーザー光線による演出が披露された円形状のホールは閉鎖されているものの(ちなみに鉄鋼館で流された音楽は近年CD化もされている。それについては当ブログのこのエントリでも触れた)、ホワイエの部分は現在、オープンスペースとして貸し出しが行なわれている(参照)。
 僕が訪れたときには、上記ツアーの参加記念品(クリアファイルでした)の配布のほか、自宅内に「万博ミュージアム」を開設している白井達郎氏(参照)によるコレクションの展示とレクチャーが行なわれていた。
 ホワイエはかなり広くスペースがとられている上、外に面する部分はすべてガラス張りになっており、非常に開放的な感じだ。この点は、鉄鋼館と同じく前川國男の設計した東京文化会館神奈川県立音楽堂などのコンサートホールにも通じる。
大阪・万博公園「鉄鋼館」ホワイエ外観
▲鉄鋼館ホワイエ外観
大阪・万博公園「鉄鋼館」ホワイエ内観
▲鉄鋼館ホワイエ内部
 ただ、万博閉幕後に大阪市へ譲渡された鉄鋼館だが、舞台装置の操作が複雑だったことや、また管理・維持にもそうとうの費用を要したこともあって、今日にいたるまでコンサートホールとして使われたことはないという。現に、建物を裏に回ってみると、倉庫として利用されているのがうかがえた。
大阪・万博公園「鉄鋼館」を裏にまわれば…
▲裏側から覗いてみた鉄鋼館
 こうした鉄鋼館の“末路”に対しては、ホールで流す楽曲を提供した高橋悠治による痛烈な批判がある。

 万国博のあとで、鉄鋼館は地方自治体にゆずりわたされた。しかし、それがこの建物を維持するだけでさえ必要な巨額なカネを支出することができたとしても、スペース・シアターにはあまりに限られた使用法しかなく、しかもだれがそれに興味をもったろう。ある劇場が共同体にとって必要とされる条件をかんがえることなく、大衆とのはなしあいもなく、かってにつくられ、ゆずられた建物は、この上なくめいわくなおくりものでしかなかったにちがいない。それは今、ホコリのなかにくちてゆこうとしている。その実験の成果はどこにも生かされなかったし、その失敗の教訓をだれもまなばなかった。
 高橋悠治「技術について」(『高橋悠治|コレクション1970年代』平凡社ライブラリー、2004年)

 高橋の批判は、後年問題化する、いわゆる「ハコモノ行政」によって日本各地に建てられた多くの文化施設に対しても通用するのではないだろうか。
 ところで鉄鋼館を実際に見てさらに興味を覚えた僕は、当時の資料にあたるため、同じ年の9月には大阪府中之島図書館まで足を運んでいる。
 そもそも円形ホールというアイデア自体はどこから出たものなのか。気になって調べてみると、当時のパンフレットなどには、発案者として意外な人物の名前があがっていた。その人物とは――
 ……もったいぶって申し訳ないけれども、これについてはまた機会をあらためて書いてみたい。このネタをもとに、戦後日本の企業史と万博との関連を概観したいと考えているんですがねえ。
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 なお目下、上野の国立科学博物館にて「1970年大阪万博の軌跡」という展覧会が開催中である。

 時期を同じくして特別公開中の「上野のパンダ全員集合」(こちらは4月5日まで)とともにぜひ見ておきたい。
【2009年1月27日追記】「鉄鋼館」についてはこのサイトで、現在非公開のホール内の写真も含めてくわしく紹介されている。ぜひ参照されたい。

*1:ちょうど春休み中とあってか、このとき、同じく万博公園内にあるエキスポランドの前では子供を中心に大勢の人たちが列を組んで開園を待っていた。エキスポランドのジェットコースターで事故が起きたのはその2ヶ月後のこと。