大平政権と同時代のサブカルチャー

 以下は、「日刊新書レビュー」の本日付の更新に関連する覚え書き。
 まずはこんな引用から。

 昭和三十九年は、カウンター・カルチャーの旗手であるビートルズアメリカのマーケットに進出した年であるが、この年に日本では「平凡パンチ」が発刊された。これは、若者文化、カウンター・カルチャーにとって画期的な出来事であった。すなわち、従来の週刊誌に対し、「平凡パンチ」は、ピンアップ用のカラー・グラビアをふんだんに盛り込んだ斬新な体制をもって挑んだ。その内容の特徴は、アメリカ東部の学生のファッション(アイビー・ルック)や車文化の紹介などであり、その影響を受けた若者が、週末、銀座みゆき通りにたむろするところから「みゆき族」と呼ばれ独特の風俗を形づくった。創刊当時の「平凡パンチ」は、まさに、後に続く若者向け週刊誌の繁栄を象徴する尖兵であったと言えよう。
 (中略)若者文化の尖兵と言える「平凡パンチ」と、最近、登場した「ポパイ」とでは、内容的に変化が見られる。創刊当時の「平凡パンチ」が、アメリカ東部の学生生活や高級車など手の届かない「あこがれ」に編集のポイントを置いたのに対し、「ポパイ」は、身近な情報を手早くより多く伝えるという編集方針に徹している。外国取材記事も多いが、その取材方法は、あこがれや夢の対象を美しく描くというより、外国旅行に有用なノウハウの紹介に重点を置いている。例えば、アメリカについての記事でも、西部の若者生活についてのものが目立つ。それもサーフィンやローラー・スケートの遊び場所など、少し無理をすれば実現できそうな遊びに関する記事が多い。
 ちなみに、「平凡パンチ」発売当時は、読者がそれを持ってアメリカ東部に出掛けることなど考えられなかったが、最近は「ポパイ」片手にアメリカ西部に旅する若者たちも多いようだ。この変化は明らかに高度経済成長に伴う豊かさと関係がある。
 「ポパイ」と同じ読者層を対象とした「ブルータス」も、かなりの売れ行きを見せているが、従来のように単なる欧米文化に対するあこがれをあおるのではなく、雑誌「新青年」や昭和初期の銀座風俗など戦前文化を特集している点が注目される。既に第二章でわれわれは、若者の「伝統回帰」現象を見てきたが、彼らの心底には「日本的なものへの郷愁」があり、「ブルータス」の編集方針はそれに焦点を合わせたものと思われる。

 戦後の若者雑誌の系譜を紹介・分析したこの文章は、サブカルチャー史の類いに掲載されたものではない。実はこれは、大平正芳内閣が設置した9つのグループで構成された「政策研究会」のうち、「多元化社会の生活関心研究グループ」の報告書の「週刊誌から見た若者文化」と題する節から引いたものである。
 今回の「新書レビュー」の原稿でも書いたように、僕は大平正芳という政治家に惹かれてここ数年(もう5年以上が経つと思う)関連書を集めてきた。上記の報告書を収めた『大平総理の政策研究会報告書』(自由民主党広報委員会出版局、1980年)もそのうちの一冊だが、引用したくだりを見つけたときは、れっきとした政府機関のレポートながら各雑誌の分析の的確さに驚かされた。ちなみに、このレポートが提出されたのは1980年7月14日のこと(大平はすでに亡くなっており、首相臨時代理の伊東正義へ提出された)。文中登場する『ブルータス』の創刊は同年5月のことだから、そのめざとさも注目に値するのではないか。
 なお、「多元化社会の生活関心研究グループ」には、統計学者の林知己夫を議長に、政治学者で後年中曽根政権でもブレーンも務めた佐藤誠三郎のほか、作詞家の阿木燿子や当時まだ東大助教授だった西部邁などといった人たちが研究員として参加している。別の本(長富祐一郎『近代を超えて――故大平総理の遺されたもの』上巻、大蔵財務協会、1983年)には、林ら同グループのメンバーが生前の大平にマンガ雑誌を見せている写真が掲載されていた。
 ところで、レビューのなかで僕は《大平の政策や理念がいかに継承されたか、あるいはされなかったかという問題は、政治・経済だけでなく、文化の方面からも再検証されるべきなのかもしれない》と書いたけれども、これまでその手の論考が皆無だったわけではない。
 たとえば、アメリカの日本史研究者であるハリー・D・ハルートゥニアンの「可視の言説/不可視のイデオロギー」(『現代思想』1987年12月臨時増刊『日本のポストモダン』所収)では、大平政権の政策研究会のうち「文化の時代の経済運営グループ」の報告書が、主に戦前の「近代の超克」座談会との対比によって(批判的に)論じられ、思想史における位置づけが行なわれている。
 また、レビューでも触れた「環太平洋連帯構想」については、田原総一朗電通』(朝日文庫1984年。その後、『田原総一朗自選集Ⅳ メディアと権力のカラクリ』アスコム、2005年に収録されている)で、70年代後半に電通プロデューサーの藤岡和賀夫を中心に展開された「南太平洋キャンペーン」とからめて少し言及されている。
 「南太平洋キャンペーン」は1977年の夏に藤岡が、阿久悠浅井慎平池田満寿夫酒井政利多田道太郎平岡正明横尾忠則、小谷正一などといった人たち*1に声をかけて、南太平洋の西サモア諸島を旅したことに端を発する。この旅は、藤岡いわく《文明社会の閉塞状況の中で、ふとノンビリとしたところへ行きたい、という衝動はだれにでもあるでしょう。それを実行しただけなのですよ》という発想から企画されたものだという。なお、この旅の費用の一切は資生堂とワコールが支払っている。
 その後、翌1978年には、「♪罪なやつさ AH PACIFIC 碧く燃える海」と歌われる矢沢永吉の「時間よ止まれ」が資生堂のCMのイメージソングとして発表され、爆発的にヒットする。この歌を発想したのは、藤岡たちとともに南太平洋を旅した資生堂の小野田隆則ディレクターだったという。
 さらに1979年には、池田満寿夫が自身の芥川賞受賞作『エーゲ海に捧ぐ』をみずから監督して映画化、そのキャンペーンソング、またワコールCMのイメージソングとして、酒井政利プロデュース、ジュディ・オング歌による「魅せられて」がリリースされ、同年のレコード大賞を受賞するにいたった。エーゲ海を謳ったこのメディアミックスも「南太平洋キャンペーン」の延長線上にあったというわけである。
 で、田原は前掲書において、こうした一連の流れを大平政権の政策と関連づけて、次のような推論を立てている。

 南太平洋なるコンセプトに基づいてつくられた矢沢永吉の「時間よ止まれ」や、ジュディ・オングの「魅せられて」が大ヒットしていたとき、もう一人、太平洋の宣伝に努めた人物がいた。ときの首相大平正芳である。大平正芳は七八年十一月の自民党総裁選で、下馬評を大きく裏切って大勝したのだが、その大平が総裁選に出馬するにあたって掲げたのが環太平洋構想だったのである。環太平洋構想とは、日本は、これまでのように一国の利益・繁栄だけを追い求めるのではなく、太平洋という地域に対して責任を持ち、太平洋地域諸国家全体の共存共栄をはかるべきだとする考え方で、それに対して、たちまち太平洋の安全保障のために日本がある役割を果たす、つまり軍備拡張につながる、いや、新大東亜共栄圏構想だと、強い反対論が巻き起こった。それに対して、政府は、理屈抜きで、とにかく国民の目を、何とかして太平洋という地域に向けさせようとした……。
 藤岡のコンセプト、そして矢沢永吉ジュディ・オングの歌は、こうして大平政権の政策と見事に重なる。国民の関心は、いやでも太平洋にそそがれる。時代の演出家、藤岡和賀夫のコンセプトは、ワコールや資生堂を超えて、実は日本国政府とドッキングしていたのではないか。(中略)
 だが、そのことを確かめたら、藤岡は、「誤解もいいところだ。私は政治になど全く関心がない。環太平洋構想なんて聞いたこともなかった」といかにも不快そうに答えた。そうかもしれない。あるいは“政治”の方が、藤岡の見事な時代の先取り、演出のおすそわけにあずかっているということかもしれない。

 引用文中で紹介されている、「環太平洋構想」への反対論は、その後この構想がAPECへ継承・発展されていくことを思えば(少なくともAPECは戦前の日本の「大東亜共栄圏」とは異なる方向に進んでいるはずだろう。第一、そこまであの会議において日本が舵取りを行なえているかどうか)、当時の識者たちの限界を感じさせる。
 一方、このような“フレーム・アップ”はいかにも田原らしいなとは思うが、その見方はまんざら的外れではないような気もする。大平の構想との関係うんぬんは抜きにしても、戦後外国といえば欧米一辺倒で来た日本人が、この時代になってようやくアジアや太平洋諸国に目を向け始めたことはたしかだろう。先述の『ブルータス』などの若者雑誌にしても、中国や太平洋の島々などを積極的にとりあげ、話題を呼ぶことになったわけだし。

*1:ただしこのうち平岡正明の名は、藤岡が2000年に刊行した回想『あっプロデューサー』(求龍堂)には出てこない。なぜ?