プロ野球における食品会社の位置づけ――ヤクルト、ロッテ、日本ハムのばあい

 野球界における企業の棲み分けについて書いたおとといのエントリには、思いのほかブックマークをつけていただき、いささか驚いております。
 あのエントリをUPしてから、製造業のなかでも例外的にプロ野球に参入した食品会社……ヤクルト、ロッテ、日本ハムについて、なぜ球団を持とうとしたのか、その理由をあれこれ考えてみた。
 ヤクルトに関していえば、単に食品製造業というだけでなく、「婦人販売店システム」*1と呼ばれる独自の販売システムを確立していることからもあきらかなように、流通業という側面も持っている。とすれば、販促として球団を持つという発想が出てきてもおかしくはないだろう。
 ロッテにとっての球団というのは、少々失礼な言い方をすれば、お菓子とオマケの関係を踏襲しているように思われる。ようするに、お菓子の主要な顧客である子供たちを、プロ野球を餌に釣ろうという考え方だ。
 ロッテが初めてプロ野球に参入したのは、1969年、大映が親会社だったオリオンズに、スポンサーとしてチーム名に社名を提供したのがきっかけだが(いまでいうネーミングライツの走りだったわけである。なおロッテが正式に球団を買収するのはその2年後のこと)、この時代、野球はまだ子供たちのあいだでもっとも人気のあるスポーツだったわけで、実際に、ライバル会社である明治製菓などは、後楽園球場に看板を出したり、同球場での巨人の主催試合のスポンサーになったりしている。
 やや話はそれるが、ロッテは球団を持つ以前には巨人の初代マスコットである「ミスタージャイアンツ」のガムを販売していた(こちらのサイトを参照)。それどころか、球団所有後の1974年には、当時のロッテ監督の金田正一と、現役末期の巨人の長嶋茂雄をCMに共演させ、あろうことか長嶋に「野球は巨人、ガムはロッテ」などというセリフまで言わせている。まあ、リーグが違うからいいだろうという判断だったのかもしれないが、そこまで卑屈になることもなかったと思うのだが……。裏返して考えれば、これは当時の巨人がいかに子供たちに訴求力を持っていたかということの証しなのかもしれない。
 さて、1973年、不動産会社の日拓ホーム*2から球団を買収し、そのチーム名もフライヤーズからファイターズにあらためた日本ハムのばあいはどうなのか。これがいまいちよくわからなかったのだが、調べてみると直接のきっかけはどうやら、自社の宣伝のためスポーツ界への参入を考えていた日ハム社長の大社義規が、旧制高松中学の先輩だった名将・三原脩に勧められてのことだったという(参照)。時代背景からいえば、それまで日本人にはなじみの薄かった肉食、なかでもハムやソーセージといった加工食品が、高度成長期を経て一般家庭にも定着し、市場が拡大しつつあったことも球団買収への追い風となったのではないか。
 なお、大社は没後3年を迎える今年、野球殿堂入りを果たした。常勝チームではけっしてなく、それもセ・リーグに対して劣位にあったパ・リーグの球団を買収し、30年以上にわたって育み続けたことが評価されてのことだろう。
 思えば、大社も、ロッテ球団のオーナーを長らく務めている重光武雄も、ヤクルトの球団買収時の社長だった松園尚巳も、いずれも創業社長であり、強烈な個性の持ち主だった。それほどの人物でなければやはり、球団経営という「わりに合わない事業」になど手を出せなかったということだろうか。

*1:「ヤクルトおばさん」は、「ニッセイのおばちゃん」「学研のおばちゃん」と並び、戦後の日本企業が生んだ独特の販売システムといえるのではなかろうか。なお、ヤクルトの球団史をひもとくと、1979年、前年の初優勝から一転して最下位に終わったシーズンオフに、選手たちがオーナー命令で、ヤクルトおばさんらについて親会社の製品を売り歩いたという逸話も残っている(参照)。

*2:ただし日拓ホームが球団の親会社だったのは1973年のシーズンのみ。「レインボーカラー」と称して7種類ものユニフォームを採用したことだけがいまだに伝説として語り継がれている。