古橋広之進のオリンピック観

 この8月に元競泳選手でJOC会長、国際水泳連盟の副会長など数々の要職も歴任した古橋広之進が、国際水連の総会と世界水泳選手権の行なわれていたローマで死去した。
 古橋の訃報に接して、ふと嘉納治五郎のことを思い出した。1938年5月に亡くなった嘉納も古橋と同じく客死しているからだ。それもカイロでのIOC総会で、1940年の第12回オリンピックの東京開催の確約を得た直後、帰国の船上での死だった。いっぽう、古橋もまた2016年の五輪開催地の招致にあたり名誉都民としてひと役買うことが期待されていた。
 ただ、古橋自身は昨年の2月、東京の五輪招致についてこんなことを語っている。

「もちろんオリンピックをやったほうがいいと思っていますけど、果たして機が熟しているかどうかというのは問題がある。盛り上がりがもうひとつのような気がする」
 最近、知り合いから面と向かって言われた。自分は二〇一六年東京五輪に反対です、と。
「大胆な発言ですよね。でも無理なものを押し付けてもダメなものはダメだし……。“みんなでやるぞ”という空気にさせる施策が必要なんじゃないかな」
  松瀬学『五輪ボイコット』(新潮社、2008年)

 はたして《“みんなでやるぞ”という空気にさせる》ことはできたのか。つい先月のIOCの候補都市に対する評価でも、「世論の支持率が比較的低いことは懸念される」とあったわけだが……。その結論はいよいよ2時間もしないうちに出る。(2009.10.3 0:18記)
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 2時間どころか10分もしないうちに結論が出てしまった(笑)。東京、2回目の投票で落選。(0:31)
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 気を取り直してエントリの続き。
 思えば、古橋広之進は、一介の競泳選手という枠を超えて敗戦後の日本人に希望をもたらしたヒーローとなったものの、オリンピックとの相性には恵まれなかった。第二次大戦後初の大会となった1948年のロンドン五輪には日本はドイツとともに招待されず、その次の1952年のヘルシンキ五輪では、2年前の南米遠征時にかかった赤痢の影響もありよい成績をあげられなかった。
 戦後日本のアマチュアスポーツ界において、競技の歴史にも人々の記憶にもその名を刻むアスリートでありながら五輪には恵まれなかったのは、古橋のほかにはせいぜいマラソン瀬古利彦ぐらいだろう*1。五輪でメダルを獲得しながらも、そのまま消えてゆく選手のほうがよっぽど多いことを考えれば、このことはむしろ古橋や瀬古の偉大さを示しているといえるかもしれない。
 ともあれ、彼は五輪での苦い経験から、オリンピックに対して独特の感情を抱くようになったことが以下の話からはうかがえる。

 (前略)一九四八年ロンドン五輪は参加できず、一九五二年ヘルシンキ五輪は病気の後遺症に泣いた。だから五輪についていい思い出はほとんどない。「そういう意味では不愉快というか、気持ちのいいものじゃない」と(引用者注――古橋は)自嘲気味に笑うのだった。
「僕はオリンピック運というのは全然、ダメでね。まあ、別にオリンピックにいっても……。いまは、みんなオリンピック、オリンピックと言い過ぎているけどね。僕はあまり関係ないんです。世界選手権もあるでしょ。自分じゃ、オリンピックにはこだわらないね」
  松瀬、前掲書

 この古橋のことばを読んだとき、ふと、千葉すずのことを思い出した。
 1996年のアトランタ五輪でメダルを期待されながらもいい成績を残せなかった千葉は、試合直後のテレビ番組でのインタビューで《「オリンピックは楽しむつもりで出た」「そんなにメダルというなら自分でやればいいじゃないか」「日本の人はメダルキチガイだ」という趣旨の発言をし》た(Wikipedia「千葉すず」の項)。これに対し、当時日本水泳連盟の会長だった古橋は、「オリンピックを楽しみたい」という千葉の態度に激怒したともいわれる。だが、千葉の発言の真意が、あまりにもオリンピックを過大視するメディアに対する批判にあったことを思えば、それは先の古橋の「みんなオリンピック、オリンピックと言い過ぎている」ということばと重なりはしないだろうか。
 その後、2000年のシドニー五輪を前に、その日本代表選考会を兼ねた日本選手権で優勝を果たしながらも、千葉は代表に選ばれなかったことにより、あらためて水連トップの古橋との確執が取りざたされた。これを機に千葉は古橋と同様、オリンピックには運がないまま現役生活にピリオドを打ったのは、皮肉というべきか。
 はたして五輪落選を不服として裁判まで起こした千葉に対し、古橋はどう思っていたのだろう。その本音をついに公言することなく彼は逝ってしまった。ひょっとすると、彼は心のどこかで、どうしてそこまでオリンピックにこだわるのかという思いを抱いていたのかもしれない。もちろんこれは手前勝手な邪推にすぎないけれども、オリンピックをほかの大会に対し相対的にとらえていた古橋ならばありうると思うのだが……。
 それにしても、古橋の亡くなったあと、千葉すずにコメントをとったメディアはあったのだろうか?(2009.10.4 15:20) 

*1:もっとも、瀬古にとって初めての五輪となるはずだったモスクワ大会(1980年)の不参加を決定したJOC臨時総会において、古橋は委員の一人として「不参加派」にまわっている。そう考えると、瀬古を自分と同じ「五輪運には恵まれなかった偉大なアスリート」にしてしまった責任の一端は古橋にあったともいえるわけだが。ただ、豊富な国際経験にもとづき、熟慮の末、当時の日本の置かれた立場からすればもっとも現実的な路線として不参加の道を選んだ古橋を、一方的に責めるのは酷だろう。