話を迎賓館に戻せば……迎賓館には4年前の夏の一般参観に応募して参加する機会に恵まれた。上の写真もそのときに撮ったものだ。建物内部は撮影禁止だったのが惜しかったけれども。
この参観のレポートを個人誌に書くにあたり、迎賓館についてちょっと調べたことがある(レポートは「迎賓館参観記」と題して、『Re:Re:Re: 近藤正高雑文集』Vol.4、2006年11月刊に掲載)。
この建物はもともと東宮御所、つまり皇太子の住まいとしてつくられたものだが、けっきょく、ときの皇太子である大正天皇はここに住むことはなかった。産経の記事にあるように、明治天皇が「ぜいたくだ」と漏らしたことがその原因だという。藤森照信によれば、明治天皇のこの発言は、設計者である片山東熊の命をも縮めたというからすさまじい。
山県有朋に命じられて赤坂離宮を設計した片山東熊は、できたあと病気になっちゃって、死んじゃうんだよ。これは片山家に伝えられてる秘話なんだけど、片山東熊が離宮の写真を持って拝謁に行く。当然褒められると思ってたのが、明治天皇は顔を曇らせてひと言「贅沢だ」。それで片山東熊は病に臥せって死んでしまう。自分のご先祖の生涯が無駄だったという話を捏造するはずないんだから、それは本当だと思う。
結局、大正天皇は住むことができない。昭和天皇が若いときに、ちょっと使用しますけどね。造ったにもかかわらず、天皇は来ないし住む人も来ないという……。
井上章一との対談「聖空間プランナーたちの系譜 「妄想力」を帝都の街造りにみなぎらせよ!」(別冊宝島・シリーズ歴史の新発見『帝都東京』宝島社、1995年)
この藤森の発言では、片山が天皇の一言にショックを受けてから間もなくして死んでしまったのかのように語られているが、それはちょっとオーバーかもしれない。というのも、片山が亡くなったのは1917年と、赤坂離宮完成後も8年ほど生き延びているからだ。藤森自身、べつの本(『日本の近代建築(上)幕末・明治篇』岩波新書、1993年)ではこう詳述している。
宮殿が完成した時、片山は明治宮殿に参上し、写真帖を使って明治天皇に報告をした。すると天皇は、「ぜいたくだ」と一言だけ洩らされ、口をつぐんだ。この一言は、片山はじめ関係者の心を一瞬に凍らせ、工事中は毎週現場を訪れていた皇太子も移り住むことはできなかった。ショックは大きく、片山は長らく床に伏し、回復の後も仕事は下僚にまかせるようになり、自宅の庭の温室にこもって蘭の栽培に日々を送り、大正四年、辞官し、二年して没した(T6)※。
※T6は大正六年の意。
とにかく、片山の手がけた東宮御所に大正天皇が住むことはなく、1912年に明治天皇が逝去すると青山離宮をしばらく住まいとしたのち、翌年には宮城(皇居)に移った。これにともない、東宮御所は赤坂離宮と呼ばれることになる。
大正天皇はその後、1921年に病気の悪化により政務を皇太子(のちの昭和天皇)に譲る。摂政となった昭和天皇は、1923年8月に結婚してから践祚後の1928年9月まで赤坂離宮を住まいとするとともに政務を行なった。
このときの思い出について昭和天皇は、1976年8月、在位50年を前に那須御用邸で行なわれた記者会見で少し語っている。
記者 迎賓館でお住まいになりましたね。あまり大きすぎて、快適じゃないような気がしますが。
天皇 そのね、それは確かにそうだ。ことに、あの西日がね、非常に当たるんで、現在のように冷房とか暖房とかもできないしね。明治の時にできた西洋館であるため、文化庁の方ではぜひ保護してくれという話で。工事は大変だったようです。
高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます』(文春文庫、1988年)
天皇は冷暖房がなかったと語っているが、暖房はいちおうあったようだ。ただ、これがひどいしろものだったらしい。やはり藤森照信の『建築探偵 東奔西走』(朝日文庫、1996年)から引けば……
赤坂離宮の暖房は、日本初の空調システムによるものとして名高いが、これに温度自動調節装置というのが付いていたのがいけなかった。部屋の温度を機械的に感じ取って自動的に室温調整をしようというわけだが、まるでダメな機械で、突然、昼日中に熱風を噴き出したかと思うと、寒い夜中にパッタリ止んだりで、部屋の温度は意味もなく上がったり下がったりする。
ようするに、皇太子の住まいとして建てられながら、実際に人が住むにはすこぶる居心地の悪い屋敷だったようなのだ。そのためかどうか、昭和天皇が宮城に移ってからというもの、赤坂離宮はほとんど使われた気配がない。終戦直後の一時期、疎開先から帰京した少年時代の皇太子(今上天皇)と義宮(現・常陸宮)が住まったのを最後に、赤坂離宮の建物と敷地は1948年には皇室財産から政府へと移管されている。