ビートたけしと中上健次と羽田空港と

 もはや旧聞になってしまうけれども、今月1日、『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」のコーナーに24年ぶりにビートたけしがゲスト出演した。タモリとの久々のツーショットもさることながら、たけしが自分にも『いいとも』の司会の打診があったことを明かしたりと、両者のファンやお笑い好きにはたまらない“秘話”が続々と出てきて、ネットでも結構話題になった*1
 トーク中にはたけしの青年時代のバイトについても話題にのぼった。タクシーの運転手や羽田空港東京国際空港)でバイトをしたというのはファンにはわりとよく知られた話かもしれない。ただ、羽田でのバイトに関して『いいとも』でたけしは、のちに作家となる中上健次と一緒に働いていたというような発言をしていたが、いくつか資料をあたるかぎりこれは事実とちょっと異なるように思う。
 まあ芸人が話を面白くするために、多かれ少なかれ誇張するなんて当たり前のことなのだから、本気で指摘するのも野暮ではある。しかし、ウィキペディアのビートたけしの項にも東京国際空港の荷役業では、ジャズ喫茶の常連客だった中上健次と共に働いた》などという記述がある以上(この記述は今回の『いいとも』出演前からあったものと記憶するが)、やはりこれは正しておいたほうがいいような気もする。
 というわけで以下、あくまで参考までに、いくつかの資料から引用しつつ事実を検証しておきたい。
 まずは、放映時のたけしとタモリのやりとりを確認してみよう。トークは、たけしが学生時代にステーキ屋の洗い場でバイトしていたという話題から、次のように続く。

タモリ ほかどんなバイトやったの。
たけし バイト……タクシーの運転手とか羽田の荷役とか、いろんなのやったよ。
タモリ えっ!? それ知られてないでしょ、みんな。
たけし 中上健次がいたんだから。
タモリ どこで?
たけし 羽田に。
タモリ バイト仲間で?
たけし うん。羽田にね、中上健次さんはもう偉くてね、重量計算する人でね。おいらはその荷物を持ってね……羽田は夜中中やってたから、あの頃。で、1番から27番スポットって飛行機が着くところあるの、そこまでみんなで行くの。それで荷物おろしたりなんかするわけ。で、大学の運動部が1、2年生が部費がないとそこへ来てやるわけ。だから力仕事のいちばん強烈なやつなの。だから柔道部とか空手部とかボクシング部とかね、ガラの悪い運動のやつばっかりなの。そんなかに入って俺やってた、こうやって。
タモリ 大学、運動部なんだったの?
たけし 俺、やってない。
タモリ やってない!?
たけし 俺はただお金がなかっただけ。
タモリ ああ、そう。運動じゃなくて行っただけだ。
たけし だけど運動部の人がみんな間違えてんの。
タモリ 運動部っぽいよね、見えるから。
たけし そうしたらね、中上さんとやってて、あの当時、ワシントン条約がなくて、ガルーダ・インターナショナル(近藤注――ガルーダ・インドネシア航空のことか)ってインドネシアのほうの飛行機が積んでくるわけ。なか、動物全部入ってる。鳥からガゼールから何から、バンビみたいなの。で、出したらバンビが逃げちゃった、ピョンピョンピョンピョン。ピョンピョンピョンピョン、羽田を夜中跳んでる、みんなタマ(タモ?)を持って追っかけてるの。変なね……。それで、ピョンピョンピョンつったらね、羽田沖にペチャッて沈んじゃった。顔だけ出して動けなくなっちゃって。
タモリ あ、海。
たけし みんなで引っ張りあげてんだよ。すごかった。
タモリ 檻から逃げたの?
たけし 檻から逃げた。あと、鳥はもうバンバン飛び出しちゃうし。
タモリ へぇー。ちゃんとしてないの、それ?
たけし してない。
タモリ 鳥かごとかに入れてないの?
たけし 鳥かごあるんだけど、まあ変な、怖いんだけど、鳥がね半分以上死んでんだよ。上空だから。
タモリ あー、ひどいね。酸素不足で低温のまま置かれてるんだ。
たけし あとね、大橋巨泉のね、かみさんとね、新婚旅行、世界旅行行ってた、帰って来たのをおいらがバッグとって、ファーストクラスか何か。「K.OHASHI」って書いてあったら、みんなで足蹴りして。

 大橋巨泉の話は多分にネタくさいが(笑)、一応補足しておくと、大橋が現夫人の浅野順子と結婚したのは1969年のことらしい。とすれば、たけし(1947年1月生まれ)が22歳ぐらいの頃の話ということになるだろうか。
 まあそれはともかく、わたしが上記のたけしの話を聞いて、おかしいなと思ったのは、いまから四半世紀ほど前のたけしと中上本人との対談で、以下のようなやりとりがあったことを記憶していたからだ。

中上 たけしさんの小説に羽田空港の地上サービスやってるAGSが出てくるけどさ、やけにくわしいんだよね。「ナイト」とか「スモールナイト」とか。ひょっとしたら働いていたことあるんかな。
たけし 働いていましたよ。おれ、有名だったんですよ、ベルトコンベヤーのボタン押しで。
中上 そうか。ぼくは、IAU、全日空系のね。AGSのほうが日航系でペイが高かったんだよ。オアシスって食堂あったろう、夜になるとラーメンライスがでる……。
たけし おれ、食券ばかりごまかしてましたよ(笑)。仕事はきつかったですね。ガルーダって貨物は猿と鳥を一手にやってる航空会社で、ドアあけると中で鳥が飛びまわってて、羽がぶわーってふきだすんですよ。
中上 ぼくはチーフみたいになってさ、貨物用のベリーのドアをあけるだろう、そして真っ暗闇に入っていくとさ、だれかが腕をバーッとつかむんだよ。よく見るとゴリラ(笑)。当時はヴェトナム戦争だったから、フライングタイガーなんかで「メリークリスマス! ジョン」なんてお菓子のプレゼントくるだろう。それに手を突っ込んで、半分ぐらい頂いちゃったり……ひどいことやったよ。
 ――中上健次×ビートたけし「知識人よ 覚悟しろ!」(『On the Border オン・ザ・ボーダー』トレヴィル、1986年所収。初出は『朝日ジャーナル』1985年10月11日号。発言での太字強調は引用者)

 貨物機のなかを鳥が飛びまわっているという話は、タモリとのトークでも出てきた。だが、中上が対談で「ひょっとしたら働いていたことあるんかな」と発言している以上、当時2人には面識はなかったと考えるべきだろう。そもそも働いていた会社も、たけしが日航系、中上が全日空系と違っていたのだから。
 なお対談中、中上が「たけしさんの小説」といっているのは、たけしが書いた短編「新宿ブラインドコンサート」を指す。小説集『あのひと』(飛鳥新社、1985年/新潮文庫、1994年)に収録された同作は、たけしが自身の学生時代の実体験をもとに書いた自伝的小説だ。主人公の「たけし」は、大学に入ったもののろくに通わず新宿のジャズ喫茶に入り浸っていた。作品の終盤、彼は学校をやめたと母親に電話で伝えたのち、ジャズ喫茶で知り合った友人から紹介されて羽田で泊まりこみのバイトを始める。実家を離れて独り暮らしを始めるのに、まずアパートを借りる金を稼ぐためだった。そのときの様子は、次のように描かれている。

 ジュラルミン製のコンテナを運び、貨物の出し入れをする。重労働である。連結されたコンテナが機の傍(そば)に横付けされ、搬入口から伸びたトロッコの斜面を押してあがり、引っ張っておりる。当時はエレベーターなど完備されておらず、こうした人力の仕事が多かった。コンテナ一個の重さは、中身の重量をあわせて半トンほどである。これを五人ほどの男たちが押したり引いたりするのだ。(中略)
 夜一一時から翌朝七時まで、支給される岩塩を舐めながら、黙々とコンテナを運ぶのだ。コンテナの中身は東南アジアからの動物などが多く、やたら臭い荷だった。

 読んでのとおり描写にはかなりのリアリティがあり、中上が「やけにくわしい」と感心するのもうなづける。
 ちなみに中上は1946年8月生まれだから、たけしとはほぼ同い年だ。1965年に高校卒業とともに和歌山より上京した中上は、実家からかなりの額の仕送りを受けながら(親にはそのときどきで、予備校に通っている、大学に入ったとウソをついていた)、ヒッピー的な生活を送り、たけしと同じく新宿のジャズ喫茶に入り浸っていた。前出の対談で、中上の《羽田から新宿とか、みんな同じように流れていたんだね、ドドッと》という発言に対し、たけしが《おれが羽田で働いたのは、新宿にいた慶応のやつが見つけてきたんだけど、中上さんとは、新宿でも絶対会っていると思うんですよ。(近藤注――ジャズ喫茶の)ボーイをやっているころに》と返しているのはそのためである。
 ただし先に書いたとおり、当時の中上とたけしには面識はなかったようだし、羽田空港で働いてきた時期にはちょっとズレがあるように思う。「新宿ブラインドコンサート」では、たけしは、学生運動にひょんなことから参加し機動隊に追いかけまわされた*2のをきっかけに大学をやめたというふうに描かれている。
 もちろん、これはあくまでフィクションなのだから、その記述を鵜呑みにするのは禁物だろう。たとえば同作の舞台は《その年の五月、パリでは「五月革命」が起き》といった記述から察するに1968年なのだが、実際にたけしの通っていた明治大学バリケード封鎖が行なわれ、学生たちが無期限ストに突入したのは1969年6月だというから(機動隊導入による封鎖解除は同年10月)、1年ほどズレがある*3。もっとも作中で描かれているのは、6月から同じ年の秋ぐらいまでと、実際の明大のストと期間は重なるのだが。とりあえず、たけしが大学を中退し、羽田でバイトをしていたのは、先の大橋巨泉の話とも合わせて考えると1969年ぐらいと考えるのが妥当ではないだろうか。
 いっぽうの中上は、くだんの対談にも出てきたIAU(国際空港事業)という全日空の子会社に、バイトではなく正社員として入社している。高山文彦エレクトラ 中上健次の生涯』(文春文庫、2010年)によるとその時期は1970年8月、結婚を機にであった。それは仕送りに頼った生活との決別でもあった。中上は羽田空港でまず、飛行機の機体の水洗いをする仕事を手がけ、その1年後には《フライングタイガーというアメリカ資本の貨物専用航空会社の下請けにまわされ、外国から運ばれてくる貨物の積み下ろし作業にたずさわるようになった》という(高山、前掲書)。
 以上にあげたことからも、ウィキペディアにあるような《東京国際空港の荷役業では、ジャズ喫茶の常連客だった中上健次と共に働いた》という事実はなかったことが証明されよう。
 とはいえ、両者とも、親に頼らず自立するために羽田空港で働き始めたという点は共通する。このことはその後の2人の歩んだ道を考えると、きわめて重要なことに思われる。たけしが『いいとも』で中上の名前をあげたのは*4、それだけ対談での話が印象に残っており、また羽田での体験が強烈だったからではないだろうか。

オン・ザ・ボーダー―最新エッセイ+対談 1982~1985

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あのひと (新潮文庫)

あのひと (新潮文庫)

エレクトラ―中上健次の生涯 (文春文庫)

エレクトラ―中上健次の生涯 (文春文庫)

*1:この週はほかの日もなかなかスリリングなできごとがあいついだ。くわしくはてれびのスキマさんによる「日刊サイゾーの記事を参照。

*2:もっともそれは、「バリケードで封鎖された構内では夜ごと乱交パーティーみたいな状態になっている」という話を聞きつけ、スケベ心で参加したという程度の話だったようだが。

*3:明大全共闘・学館闘争・文連」というサイトの、1969年の年表を参照。

*4:そういえば中上健次は生前、『いいとも増刊号』に何かの宣伝で1回ほど出演していたはずである。