東京はなぜ敗れたのか――総評・2016年オリンピック招致+ひとつの提案(2009年12月)

  • 「失政隠し」のイメージが最後までぬぐえず

 2009年10月2日、コペンハーゲンデンマーク)でのIOC総会にて行なわれた2016年夏季オリンピック最終選考において、東京はシカゴ(米国)に続いて落選、リオデジャネイロ(ブラジル)がマドリード(スペイン)との最終決選で勝利して開催地の座を獲得した。
 東京の落選直後には広島・長崎の両市が2020年五輪の共同開催を発表、さらには東京都の石原慎太郎知事も再度の立候補への意欲を語った(2009年11月9日)。
 2020年夏季オリンピック招致をめぐって早くも駆け引きが始まっているわけだが、いったい東京はなぜ負けたのか、その敗因分析もまだちゃんとなされていない段階でこのような動きが出てくるのはあまりにも気が早すぎやしないか。
 メディアでは敗因分析もいくつか見られる。だが、私が思うに、今回の東京の最大の敗因は東京都民から支持を得られなかったことであり、不支持だった人の多くは、都知事である石原慎太郎が提案したものだということに最後まで引っかかりを感じていたために支持できなかったのではなかろうか。
 ただ、オリンピック招致を誰が言い出したかなんて、あとになってみれば、誰も気にもとめないかもしれない。実際、1964年の東京オリンピックが歴代知事の誰によって提唱され、誰のもとで開催されたかなんてことを覚えている人は少ないはずだ(ちなみに東京オリンピック開催時の都知事東龍太郎は、スポーツ学者ということでシンボリックに知事に担ぎ上げられた人物であり、実質的な政務は副知事の鈴木俊一〈のち都知事〉があたったといわれている)。
 にもかかわらず、今回のオリンピック招致はあまりにも石原都知事と重ね合わせられすぎた。また時期も悪かった。
 すでに、石原の手で鳴り物入りで設立された新東京銀行が深刻な経営危機にあったほか、自称画家の四男を都の経費で外遊させ、その作品を数百万円で買い上げさせたという“公私混同”も発覚していた。2007年に辛くも知事三選を果たしたものの、2016年五輪への立候補表明を“失政隠し”と受け取る人も少なくなかったのではないか。そこからしてボタンのかけ違いだったような気がする。
 結果的に、2016年五輪開催を逃したことも石原の失政につけ加えられることになってしまった。今後、石原がいくら五輪への再挑戦を語っても、都民から多くの支持を集めることはますます望み薄だろう。もっとも、べつの誰かが同じことを言い出しても、よっぽどうまく提唱しないことにはかなり難しいこととは思うけれども……。いったい、オリンピック招致の機運を高めるにはどうしたらよいのだろうか。

  • 「成熟社会でのオリンピック招致」という矛盾

 今回のオリンピック招致はもともと、2016年を目標とした東京全体の都市計画を進めるなかで出てきたものだった。ようするに、スポーツ振興が先にありきというわけではなかったことになる。
 都市開発の起爆剤として企画されたビッグイベントといえば、開発中の臨海副都心での開催が予定されていた「世界都市博覧会」が思い浮かぶが、あれは開催中止を訴えて都知事選に勝利した青島幸男の登場で中止に追いこまれた。果たして、あのときの教訓が今回のオリンピック招致にどのくらい生かされたのかどうか。
 東京オリンピック招致では、成熟した都市や社会のなかでオリンピックを位置づけることが懸案となった。しかし、発展途上の未成熟な社会では、オリンピックや博覧会のようなイベントが国民の一大目標となることはありえるだろうが、成熟した社会では、それこそ価値観が多様化しており、自治体や国の呼びかけで人々が一致団結ということはまずないはずだ。そこに、今回のオリンピック招致の根本的な矛盾があったような気がしてならない。
 もはやこのようなトップダウン型のオリンピック招致というのはありえないのではないか(なお、トップダウン型という点では、東京と、広島・長崎の五輪招致とのあいだに違いはない)。ここは市民が自発的にオリンピック開催を望むのを待つしかないのではないか。いや、ただ待つのではなく、そう思わせる環境づくりというものが必要だろう。となると東京都も含めた自治体や国には、人々がスポーツに日常的に親しむような環境整備が、求められてくる。
 やや話ははずれるが、さる11月に行なわれた、鳩山内閣行政刷新会議の「事業仕分け」では、日本オリンピック委員会JOC)の選手強化事業費を含む文部科学省のスポーツ予算要求が縮減と判断された。これに対してオリンピックのメダリストたちなどからは反対の声があがったことは記憶に新しい。
 たしかに、オリンピック選手の強化にはかなりのお金が必要だということはわかる。だが、もっと長いスパンでとらえるなら、むしろ、一部の選手に予算を投下するよりは、地域スポーツの振興のために税金を投入したほうが、スポーツ人口の裾野を広げ、将来的に優秀な選手を多く輩出する可能性もより高くなるのではないか。
 もちろん、オリンピックでの選手の活躍が、若い世代にスポーツを始めようという動機づけとなることはあるだろう、だからこそ予算を削っては困るという意見もわからなくはない。だが、スポーツをしようと思い立っても、それをやる場がなければなにも始まらないではないか。
 そう考えていくと、東京都主催の東京マラソンは、スポーツ環境づくりのまさに第一歩といえるだろう。石原慎太郎の政策でほぼ唯一、無条件で評価に値するのは、この大会を実現したことではないか。今後、東京がふたたびオリンピック招致に挑戦するとして、まず、東京マラソンを一過性のブームに終わらせず、都民のあいだに定着していくことは欠かせまい。

 個人的に、スポーツ振興の策として一つだけ提案しておきたいことがある。それは、「秩父宮記念スポーツ博物館」のリニューアルだ。
 国立霞ヶ丘競技場内にあるこの博物館は、昭和天皇の弟で、登山などスポーツを趣味とした秩父宮雍仁を記念して設立された、日本で唯一のスポーツ専門の博物館である。
 だが、オリンピック関連の資料など、日本のスポーツの歴史において重要な品々の宝庫にもかかわらず、経営はなかなか厳しいようだ。
 それが証拠に、私が2000年のシドニー・オリンピック開催中の頃に出かけたら、1996年のアトランタ・オリンピックについて、「この大会で日本選手が10個以上の金メダルを獲得すれば、日本五輪史上総計で100個目に到達する」という説明板を見つけた。この時点ですでに終わっている大会についての説明なのに、なぜ未来形なのか(しかもアトランタでは10個も金メダルがとれなかっただけによけいに恥ずかしい)。こんな小さな説明板を変えられないほど、経営が逼迫しているのかと驚いたものである。
 さらに、それから何年かのちに、同博物館の図書館(博物館本体とは同じ競技場内ながらやや離れた場所にある)を利用したときには、職員の方から直接「予算がないので……」という言葉を聞いた。ちなみに、この博物館を運営しているのは、日本スポーツ振興センターという独立行政法人である。同センターは「スポーツ振興くじtoto)」の運営でも知られる。
 ともあれ、そんな経営状態にある博物館でも、展示のしかたしだいではもっと多くの集客を望めるのではないだろうか。
 というわけで、ここでは、どうすれば博物館に人を呼び込めるか、私が考えたアイデアをいくつか箇条書きしておく。

【1】スポーツ殿堂(すでに殿堂のある野球やサッカーは除く)を創設し、各種競技から貢献者を毎年選出して表彰する。
【2】野球場でいうネット裏のような観覧席を博物館内に設け、サッカーなどの試合開催時には臨場感あふれる観戦ができるようにする。
【3】展示内容も大幅に変更する。たとえば、1964年の東京オリンピックの記念館を博物館内に設置してみたらどうだろう。
 そこでは競技に関する展示は当然として、オリンピック開催によって東京の街は、日本の社会はいかに変わったかを説明する展示も行なう。たとえば、ジオラマや映像を使って、競技施設の建設や交通機関など周辺整備が進められる過程を表現してみたら面白いのではないか。
 さらに、これは【2】と連動した企画だが、1964年の東京オリンピックでの競技の模様を、最新鋭の映像技術を使って現在のスタジアムに再現することはできないか。たとえば、2016年のオリンピック開催地選考にあたり東京のオリンピックスタジアムの建設予定地を視察したIOC委員らは、東京都の用意したゴーグル型の映像装置を装着して、実施の風景にCGによるスタジアムを重ね合わせた映像を見ながら説明を受けたという。このゴーグル型の映像装置を、展示に導入してみてはどうだろう。
【4】博物館は単なる展示場にとどまらず、研究の拠点でもあることを考えれば、外部の各種データベースとも連動して、図書館機能の拡充をはかることも必要だろう。現在でも、スポーツ博物館の図書館はコンピュータ端末による検索システムも導入されないままでいる。この状態をどうにか打破できないものか。

 私からの提案は以上である。
 もちろん、どれもいますぐ実行に移せるというたぐいの企画ではないだろう。だが、たとえば博物館の企画として、国立競技場のスタジアムで来場者にくだんのゴーグル型の映像装置を試しに使ってもらいながら、東京オリンピックなどについてレクチャーを行なうといったことは、さほど予算がなくてもできるような気もする。
 スポーツに親しみを持ってもらうという意味では、この拙案はやや異色かもしれない。けれども、私のような文化系の人間にとっては、博物館や図書館といった施設を通してスポーツに歩み寄るのがいちばんの近道ということでこのような提案をさせていただいた。参考にしていただければ幸いである。
  (初出:『Re:Re:Re: 近藤正高雑文集』Vol.5、2009年12月)