「国のかたち」を問うた2012年物故者たち

 北方領土竹島尖閣諸島と、日本と近隣諸国のあいだで領土問題があらためて再燃するなど、日本の戦後史上、2012年ほど「国のかたち」が問い直された年はないかもしれない。このうち尖閣諸島をめぐっては中国国内で反日デモが激化した。その混乱のさなか、中国大使の丹羽宇一郎の後任として、外務省生え抜きの西宮伸一に辞令が下るも直後に急死している(9/16。以下、カッコ内の日付は故人の命日を示す)。

 領土問題のみならず、年末の総選挙では、景気回復、雇用、社会保障、TPPに代表される貿易自由化の問題、エネルギー問題、地方分権、はたまた憲法改定と、「国のかたち」の再規定をうながす案件が争点となった。選挙の結果、民主党から自民党へ政権が戻り、同時に前年の震災からの復興、原発事故の処理という課題も引き継がれた。

 原発事故の損害賠償をめぐっては、1970年代の公害裁判を参考にするべきだとの意見も見られる。とはいえ、高度成長期に生じた公害問題は完全に解決したわけではない。水俣病については、その症状がありながら、国の基準では患者と認められない人たちもまだかなり存在する。そんな人々を救うべく「水俣病被害救済特別措置法」が2009年に施行されたものの、同法にもとづく救済策の申請は2012年7月末をもって締め切られた。50年以上にわたり水俣病と向き合い続けた医師の原田正純(6/11)は自らも白血病と闘いながら、死の直前まで少しでも多くの未認定患者らが救済を受けられるよう奔走した。

 それにしても、国家とはそもそも何だろうか。評論家の吉本隆明(3/16)は『共同幻想論』(1968年)においてこの難題に取り組んだ。同書は、1960年代後半に隆盛をきわめた学生運動のなか多くの若者たちが手に取ったとされるが、内容の難解さゆえ読破できた者は案外少ないかもしれない。だがもともと詩人である吉本が用いた「共同幻想」という言葉のインパクトは強かった。それが実際に意味するところを理解する人は少なくとも、大きな影響をもたらすにいたった。

 吉本は『共同幻想論』のなかで、『古事記』や『日本書紀』に見られる国生み神話を参照している。こうした神話は日本のみならず南太平洋の島々にも見られるものらしい。映画『モスラ』(1961年)で伊藤エミ(6/15)・ユミによる双子の姉妹デュオ「ザ・ピーナッツ」が演じた「小美人」と怪獣モスラの関係は、こうした神話を踏まえつつ創作されたものだった。

 巨大な蛾の姿をしたモスラは、カイコがモデルになっている。カイコの繭から糸を引いて絹をつくる方法は、日本を含むアジアの広い地域に見られる文化的特色の一つだ。この地域が常緑広葉樹の広がる森林帯であることに目をつけ、そこでの文化の共通性を探ったのが、哲学者の上山春平(8/3)ら京都大学人文科学研究所の学者たちによる『照葉樹林文化』(1969年)である。上山はこのほかにも世界史との比較による日本国家の特質を探究している。

 現実の国家は、まずもって国際的な承認を前提とする。パティ・ロイ・ベーツ(10/9)は1967年、第二次大戦中にイギリス軍がつくった人工島の海上要塞を占拠し、「シーランド公国」として独立を宣言した。しかし、シーランド公国を承認する国はついに現れなかった。

 これに対し、カンボジアの前国王ノロドム・シアヌーク(10/15)が、1982年に共産主義ポル・ポト派と共和主義のソン・サン派とともに発足させた「民主カンボジア連合政府」は、行政機関を持たない典型的な“ペーパー・ガバメント”であったものの、カンボジアの正統政府として多くの国から承認され、1989年までは国連での代表権も与えられていた。1978年のベトナムの侵攻以降、カンボジアは事実上、親ベトナム政権の支配下にあったが、シアヌーク派をはじめ各勢力はこれに対抗するべく、本来敵対する関係にありながら反ベトナムという名目だけで手を結んだのだ。もっとも、連合政府の大統領であったシアヌークは当時、海外亡命中の身にあった。

 シアヌークは1955年に政権掌握のため一旦王座から退き、1993年に新生「カンボジア王国」の国王に復帰するまでは「殿下」と呼ばれることが多かった。日本でも三笠宮家の第一王子、?仁親王(6/6)は「ヒゲの殿下」として国民から親しまれた。福祉活動に専念するべく一時、皇籍離脱を宣言して話題を呼んだ親王は、マスコミを通じて将来の皇室のあるべき形などを率直に語った異色の皇族であった。

『裏声で歌へ君が代』……といっても、これは大阪市の公立高校の教職員の合言葉ではない。作家の丸谷才一(10/13)が1982年に発表した長編小説のタイトルだ。小説の形をとった国家論ともいうべき同作には、台湾の独立問題が重要なモチーフとして登場する。「金儲けの神様」と呼ばれた経営コンサルタントで作家の邱永漢も戦後まもなく、東大を卒業すると生まれ故郷である台湾に戻り独立運動に参加している。その直木賞受賞作『香港』(1956年)など初期作品も、日本と中国のあいだで不条理にも揺れ動く台湾人のアイデンティティを問うものであった。

 韓国の文鮮明(9/3)が創始した世界基督教統一神霊協会統一教会)における、神を中心に人類一家族の世界をつくろうという理念は、やはり朝鮮半島の分断という時代背景抜きには語れない。統一教会の布教活動は「原理運動」と呼ばれ、信者と家族間でトラブルが生じるなど日本でも社会問題化した。

 ギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロス(1/24)は、バルカン半島の複雑な歴史を背景に『ユリシーズの瞳』(1996年)などの作品を残した。アンゲロプロスと同じ1936年生まれの若松孝二(10/17)もまた、ピンク映画、一般映画にかかわらずその多くの作品において国家と個人の関係について鋭くえぐりだした。近年も『キャタピラー』『11・25自決の日 三島由紀夫の若者たち』、そして遺作となった『千年の愉楽』(2013年春公開予定)とほぼ毎年のように意欲作を発表していた。両監督とも奇しくも交通事故による突然の死であった。

 若松の作品でもとりあげられた三島由紀夫は、日本映画において一種タブーともいえるテーマだった。1985年にアメリカ人監督によって撮られた伝記映画『Mishima』はいまだに日本では正式に公開されていない。同作で美術を手がけたのが、アートディレクターでデザイナーの石岡瑛子(1/21)である。石岡はこれを機に国際的に活躍するようになる。広告の世界から出発した彼女のデザインの対象は、出版物、展覧会、CDジャケット、舞台美術、サーカス、映画衣裳(2012年公開の『白雪姫と鏡の女王』がその遺作となった)など多岐にわたった。

 石岡は、1970年代に手がけたファッションビル「パルコ」の一連の広告によって脚光を浴びた。かつてセゾングループの経営戦略において尖兵的役割を担ったパルコだが、同グループの解体後は森トラストに買収され、2012年にはさらにJ.フロント リテイリングに譲渡された。森トラストの社長である森章と、森ビルの前社長・森稔(3/8)は実の兄弟ではあるが、現在両社のあいだに資本関係はない。

 弟の章が堅実な経営方針をとったのに対し、兄の稔は父から受け継いだ貸しビル業に飽き足らず、東京都心の土地を集約し、高層ビルを中心とした職住接近の新たな都市開発に人生を捧げることになる。2003年にオープンした「六本木ヒルズ」はその代表作である。

 森は文化事業にも力を入れ、六本木ヒルズの森タワーの最上部には森美術館を設けている。森美術館では2011年から翌年にかけて「メタボリズムの未来都市展」が開催された。メタボリズムとは1960年代に新進気鋭の建築家やデザイナーたちによって提唱された運動だが、その中心的メンバーの一人だった建築家の菊竹清訓(2011年12/26)はくだんの回顧展の会期中に逝去している。菊竹らメタボリズムグループは、高度成長期に膨張を続けた大都市で生じていた様々な問題を解決するため、大胆なプロジェクトを続々と発表した。そのほとんどは実現しなかったものの、菊竹らメンバーはその後も国内外の都市計画や国土開発で重要な役割を担うことになる。

 ブラジルの建築家オスカー・ニーマイヤー(12/5)は、同国の新首都ブラジリアの建設にかかわったことで知られるが、自分はあくまで政府機関など個々の建物を設計したにすぎず、ブラジリアの業績はその都市計画を統括したルシオ・コスタのものだと語っている。20世紀には、ニーマイヤーが多大な影響を受けたフランスの建築家ル・コルビュジエとともに、ドイツのデザイン学校「バウハウス」によって機能的なモダンデザインが世界に広まった。日系2世としてアメリカに生まれた写真家・石元泰博(2/6)は、第二次大戦後のシカゴでバウハウス直系のデザイン教育を受けている。

 石元は写真を通じて社会とのかかわりを積極的に持とうとした。その原点は、デザイン学校在学中に、東京裁判での東條英機を撮った写真を雑誌で見たことにあった。このとき彼は、「東條に同情するカメラマンはいい顔を撮るし、彼を否定する者は逆の撮り方をする。写真家は政治家にならなくとも、一枚の写真で世論をリードできると思った」という。

 元首相・東條英機の次男、東條輝雄(11/9)は戦前には零戦の開発、さらに戦後初の国産輸送機YS-11の開発にかかわったエンジニアだった。YS-11開発にあたり各メーカーからエンジニアを集めた寄り合い所帯「日本航空機製造」にあって設計部長を務めた東條は、部下たちに自分の考えを押しつけることなく、十分議論させたうえで最終的な判断を下したという。のちに彼は三菱自動車の社長も務めた。富士通の社長を務め「中興の祖」と呼ばれる山本卓真(1/17)も技術畑出身であり、国産コンピュータ開発を手がけた経験を持つ。

 戦後しばらく航空機の製造が禁じられ、航空宇宙産業で出遅れた日本に対し、アメリカはこの分野で世界をリードした。1961年には当時のケネディ大統領の「1960年代の終わりまでに人間を月に送りこむ」との演説を受け、NASAアメリカ航空宇宙局)によるアポロ計画が開始された。歌手アンディ・ウィリアムス(9/25)の「ムーン・リバー」が大ヒットした1962年、ニール・アームストロング(8/25)は宇宙飛行士に選抜され、その7年後の1969年7月20日アポロ11号の船長として月面に人類初の第一歩を記すことになる。

 月面着陸の成功ののち人類はさらに遠い天体をめざすことになると思われたが、1972年にアポロ計画が終了して以来、いまのところ人は月より先には行っていない。それでも無人探査機による天体の探査は続けられ、2012年8月には火星にNASAの探査車が着陸、その着陸地点は「ブラッドベリ」と命名された。その名は、アメリカの作家で『火星年代記』(1950年)を書いたレイ・ブラッドベリ(6/5)からとられている。

 ブラッドベリのいまひとつの代表作『華氏451度』(1953年)は、執筆当時、全米に吹き荒れていたレッドパージ共産主義者追放)の嵐に抗して生まれたものとされる。しかしそうした政治的な弾圧以前にブラッドベリが危惧したのは、高度に発達した技術やメディアを手にした人々が思考停止に陥ることだったのではないか。彼は同作のある版のあとがきで、自宅近所で犬を散歩していた女性が、小型ラジオで音楽を聴くのに夢中になり危なっかしく歩くさまを見てショックを受けたと書いている。この話のラジオを携帯電話などに置き換えれば、現在にそっくり当てはめることができるだろう。晩年、彼が自作の電子書籍化のオファーを拒否したことも、こうしたエピソードを読むと腑に落ちる。

 音楽評論家の吉田秀和(5/22)は、「薄気味の悪い話」(1974年)というエッセイのなかで、ある国際機関から自著や論文を登録したと逐一通知されることに対し、自分の仕事を自分があずかり知らないところで見張られ、番号をつけられ、資料として扱われるようになるというのは、薄気味悪いことだと書いている。何でもかんでも情報化して整理保存するという、現代文明の一つの特徴に対し、吉田は疑念を訴えたのだ。

 吉田は新聞での連載エッセイやラジオ番組、あるいはコンサートなどを通じて一般向けにクラシック音楽や現代音楽を紹介することにも熱心だった。また1948年には桐朋学園付属の「子供のための音楽教室」の創設にも参加している。ここで室長を務めたのが作曲家の別宮貞雄(1/12)だ。作曲家としての別宮は、戦後隆盛をきわめた前衛音楽を真っ向から批判している。これに対し、同じく戦後を代表する作曲家の一人、林光(1/5)は積極的に前衛的手法を作品に採り入れた。林はまたラジオやテレビの劇伴のほか、映画音楽も多数手がけている。とりわけ新藤兼人(5/29)の監督作品は本数からいって断トツである。

 新藤の作品には林が音楽を担当した『第五福竜丸』(1959年)や『さくら隊散る』(1988年)など、原水爆による悲劇をテーマにしたものが少なくない。マンガ『はだしのゲン』(1973年)の作者・中沢啓治(12/19)のように被爆経験こそないものの、広島出身の新藤は作品を通じて反核反戦を一貫して主張し続けた。

 新藤は生涯に2度結婚しているが、女優の乙羽信子は2番目の妻となる。乙羽は宝塚歌劇の娘役時代に、男役スターの春日野八千代(8/29)と共演することが多く、終戦直後、「ゴールデンコンビ」として人気を集めた。1950年代には乙羽や淡島千景(2/16)ら大勢のタカラジェンヌたちが映画界に引き抜かれたが、そのなかにあって春日野は亡くなるまで宝塚に在籍した。彼女が宝塚に入ったのは少女歌劇がブームになっていた昭和初期のこと。宝塚と松竹歌劇団が人気を競ったこの時代は“少女の時代”であったのかもしれない。ちょうど同時期には、1932年に12歳でデビューし国際的に活躍したバイオリン奏者の諏訪根自子(3/6)が「天才少女」として注目された。

 女優の森光子(11/10)も宝塚歌劇に憧れた少女の一人であった。その出発点は映画だが、むしろ舞台、そしてラジオやテレビの世界で活躍することになる。終戦後は長く病気のため休業したのち、再起をかけて放送局に自分を売りこんでまわった。関西出身の森は、地元企業である松下電器(現・パナソニック)とのかかわりも深く、フィルムではなくスライドによる同社の洗濯機のCMに出たのが最初だという。出演したテレビドラマの多くも松下提供の番組であった。母親役のイメージが定着していた森と、家電メーカーである松下の企業イメージがマッチしたということだろうか。

 最終的に2017回を数えるロングランとなった森主演の舞台『放浪記』の上演が始まった1961年、松下電器では創業者・松下幸之助の後継社長としてその娘婿の松下正治(7/16)が就任する。同社を総合エレクトロニクス企業へと育てあげた正治のあと、1977年には山下俊彦(2/28)が新社長となる。取締役26人中25番目の末席にあった山下の異例の抜擢は「山下跳び」と呼ばれ話題を呼んだ。社長就任後の彼は、経営体質改善など抜本的な改革に取り組むことになる。

 山下はかつて松下の系列会社であるウエスト電気(現・パナソニック フォト・ライティング)に出向、経営を建て直した実績があった。住友銀行(現・三井住友銀行)の副頭取だった樋口廣太郎(9/16)も、1986年に当時経営不振に陥っていたアサヒビールに社長として乗りこみ、アサヒスーパードライのヒットもあって見事再建を果たした。

 あるいはJR東日本の副社長だった細谷英二(11/4)は2003年、経営危機に陥ったりそなホールディングスの会長に転じ、公的資金を使って不良債権の処理にあたるとともに、サービス強化など経営改革に取り組んだ。そのなかでりそなは、中小企業や個人を主な取引相手とするリテールバンクへの転換をはかり、必然的に大手企業を切り捨てることになった。細谷が敷いたこうした路線は、事業拡大に積極的だった樋口とは対照的といえる。もっとも樋口の社長時代には、バブル景気という追い風もあった。

 1980年代後半、急激な円高などに対応するべくとられた低金利政策により、市中には潤沢な資金が流入し、株や土地への投機ブームが起こった。これがバブルの原因だが、地価の高騰などが社会問題化した。1989年末に日本銀行総裁に就任した三重野康(4/15)は翌90年8月まで3回にわたり公定歩合の引き上げを行なったことから、「バブルつぶし」「平成の鬼平」と国民からもてはやされることになる。もっとも当の三重野は、公定歩合引き上げについて、地価抑制の効果はあるのだろうが、それ自体を目的に行なったわけではないという意味の発言をしているのだが。

 池波正太郎の時代小説の主人公に由来する「平成の鬼平」というネーミングは、国民の三重野への期待を反映したものだったのだろう。同時期には、政界にもユニークなニックネームを持った政治家が存在した。たとえば社会民主連合社民連)の楢崎弥之助(2/28)は、独自に入手した資料にもとづく安全保障・防衛問題、汚職への追及で知られ「国会の爆弾男」と称された。リクルート事件が持ちあがった1988年には、自身がリクルートの子会社の社員から、国会での追及に手心を加えてくれるよう贈賄を持ちかけられた様子をビデオで隠し撮りして公開している。

 一方、「政界の暴れん坊」と呼ばれた自民党浜田幸一(8/5)はやはり1988年、衆院予算委員長の立場から、ときの共産党議長を殺人者呼ばわりして委員長を辞任に追いこまれる。この発言はテレビ中継を多分に意識したものだったようだ。1993年の政界引退後はテレビ出演も多く、『TVタックル』での政治評論家の三宅久之(11/15)との丁々発止のやりとりでも記憶される。

 浜田は晩年、ツイッターを始めてあらためて注目されることになった。同様に将棋棋士(永世棋聖)の米長邦雄(12/18)もツイッターで人気を集めた。2003年に現役を引退した米長だが、2012年1月にはコンピュータの将棋ソフト「ボンクラーズ」との対局に挑むも敗れたことは記憶に新しい。

 米長はコンピュータとの対局以前に、アマチュアとの対局をネットで中継したことがあった。そこには、新しいツールを通じて広く将棋の面白さを知ってもらいたいという思いがあったはずだ。全日本男子バレーボール監督だった松平康隆(2011年12/31)もまた、1972年のミュンヘン五輪に向けて、公開練習やテレビアニメ『ミュンヘンへの道』の放映などによりファン層を拡大、金メダル獲得へのムードづくりを演出した。さらに日本バレーボール協会会長時代の1995年には、W杯を主催するフジテレビからジャニーズ事務所とのコラボレーションにより観客動員をはかりたいと提案され、「そういう提案を待っていた」と快諾したという。

 ジャニーズとの関係といえば、やはり前出の森光子が思い出される。ワイドショー『3時のあなた』の司会を務めたことでも記憶される森は、ドラマではない番組に出ることについて、放送評論家の志賀信夫(10/29)によるインタビューのなかで「山田五十鈴さんが、いま大根一本いくらって知らなくても、それは似合うと思うんです。私の場合そういうのは似合わないし、知りたいという欲望と願望もありますしね」と語っている(『テレビを創った人びと』)。浮世離れした山田五十鈴(7/9)と庶民派の森は同じ女優でもそのキャラクターは対照的だった。だが、映画出身でのちに舞台へ進出したこと、後年文化勲章を受章したこと、ついでにいえば本名が「美津」であることなど意外と共通点は多い。

 2012年はこのほかにも名優たちの逝去があいついだ。なかには互いに共演経験のある者も少なくない。たとえば二谷英明(1/7)は刑事ドラマ『特捜最前線』(1977年)で大滝秀治(10/2)と共演、二谷の葬儀には大滝も参列している。あるいは小沢昭一(12/10)はその映画デビュー作『広場の孤独』(1953年)で、当時全盛期にあった津島恵子(8/1)と共演している。津島はNHK連続テレビ小説『さくら』(2002年)で内藤武敏(8/21)と共演、ちなみに同作でナレーションを務めたのは大滝秀治であった。このほか、映画『男はつらいよ』シリーズ全48作を通じておばちゃんこと車つね役を演じた三崎千恵子(2/13)、日本の女優として初めてヌードになった馬渕晴子(10/3)、海外では映画『エマニエル夫人』(1974年)に主演したオランダの女優シルビア・クリステル(10/17)も亡くなっている。

 日本映画界で長年、録音技師を務めた橋本文雄(11/2)が携わったあまたの作品のひとつに『幕末太陽傳』(1957年)がある。川島雄三が監督した同作には、川島作品常連の小沢昭一のほか、デビューまもない二谷英明も出演していた。のちの作家・藤本義一(10/30)はこの映画に感動して、川島に弟子入りしている。

 藤本は、直木賞を受賞した『鬼の詩』(1974年)が明治時代の落語家を主人公にしたものだったことからもうかがえるように、演芸にも造詣が深く、新人コンクールなどで審査員を務めたほか若手漫才師の勉強会「笑の会」を主宰し、同会からは太平サブロー・シロー(2/9。コンビ解消後「大平シロー」となる)などが輩出された。なお藤本が司会を務めたテレビのナイトショー『11PM』には、1973年末、「女のみち」を大ヒットさせた歌謡グループ「宮史郎とぴんからトリオ」の元メンバーが出演している。このときグループはすでにリーダーの並木ひろしと、宮史郎(11/19)とその兄の宮五郎による「ぴんから兄弟」とに分裂しており、番組内では握手して和解を演出したものの、ついにトリオに戻ることはなかった。

 マンガ家・土田世紀(4/24)の『編集王』(1994年)に登場するマンガ誌の副編集長「宮史郎太」は宮史郎をモデルにしたキャラクターだった。マンガ業界を舞台にしたマンガはおそらく梶原一騎原作による『男の条件』(1968年)あたりが嚆矢と思われる。梶原の実弟真樹日佐夫(1/2)も兄と同様にマンガ原作を手がけ、その代表作には影丸穣也(4/5)と組んだ『ワル』(1970年)がある。同作の映画版には俳優の安岡力也(4/8)も出演した。

 土田と同じく宮沢賢治を愛したマンガ家・畑中純(6/13)は『まんだら屋の良太』(1979年)で、架空の「九鬼谷温泉」を舞台に男女の愛欲を情感たっぷりに描いた。マンガの文化史的価値に早い段階で気づいた内記稔夫(6/1)は、1978年に現代マンガ図書館を設立、2009年にはその所蔵資料を明治大学に寄贈している。メビウスペンネームでも知られるフランスのマンガ家ジャン・ジロー(3/10)は、大友克洋宮崎駿など多くの日本人作家に影響を与え、日本マンガの国際化を語るうえでも欠かせない存在だ。晩年の手塚治虫も彼に対抗意識を抱いていたという。

 映画評論家の石上三登志(11/6)の『手塚治虫の奇妙な世界』(1977年)は、単なる作品論ではなく、キャラクターや様々な要素から手塚の作品世界を考察したサブカルチャー評論の先駆ともいえる。石上とは同世代にあたる三宅菊子(8/8)も1960年代よりライターとして活動を始め、1970年には女性誌『an-an』の創刊に参加、同誌の文体をつくったのは彼女ともいわれる。同じくライターで編集者の川勝正幸(1/31)は1982年に入社した広告代理店でのPR誌編集から、やがてコラム執筆やテレビ出演と活動範囲を広げ、音楽におけるリミックスにも通じる手法で映画パンフレットなどあらゆるものを編集してみせた。同日に亡くなったアメリカの美術家のマイク・ケリー(1/31)もまた、過去の有名なパフォーマンスの再現やミュージシャンとのコラボレーションなど、川勝との共通点が見出せる。

 前出の小沢昭一は1970年代、『an-an』を片手に若い女性たちが日本の観光地を旅してまわるのを横目に、各地で消えつつあった放浪芸を記録してまわり、それをレコードや著書を通じて紹介した。そのなかで芸能者としての自分自身の立ち位置をも見つめなおした。

 歌舞伎役者の中村勘三郎(18代目。12/5)は、「コクーン歌舞伎」や「平成中村座」、あるいは同世代の劇作家と組んだ新作歌舞伎など次々と新しいことに挑戦しつつも、常に伝統の重みを意識していた。定番の歌舞伎の演目についても、元の台本にあたることで現在の上演でのセリフや設定との違いを発見し、平成中村座の公演などではあえて原作通りに戻すという試みも行なっている。

 しかし小沢や勘三郎といい、俳優の地井武男(6/29)といい、病気療養のため休業してまもなくして急逝する芸能人の目立った一年だった。ミュージシャンの桑名正博(10/26)も、脳幹出血で倒れ意識不明のまま帰らぬ人となった。桑名のヒット曲「セクシャルバイオレットNo.1」(1979年)と同じく筒美京平作曲による「また逢う日まで」で1971年の日本レコード大賞に輝いた歌手の尾崎紀世彦(5/31)も、一時失踪が噂されつつ実際には1年前から入院していた。

 ちなみに「また逢う日まで」には、尾崎が歌う以前に、同じメロディながら歌詞もタイトルも歌い手も違う2つのバージョンが存在した。いわば3度目の正直で大ヒットとなったわけだ。歌も人も国も、何度でも再チャレンジできる世の中であれ。年も押し迫り、元首相が何年かぶりに返り咲いたのを見たばかりだけによけいそう思う……などと書いているうちに、そろそろスペースが尽きようとしている。二人でドアを閉めて、ではなく、一人で原稿を締めたところで、また逢う日まで。最後に、ここにあげたすべての人たちにあらためて哀悼の意を捧げます。
  (初出 「ビジスタニュース」2012年12月27日)