情報化の時代を生きた2011年物故者たち

 すいません、2011年が終わる前にもうひとつだけ、この1年に亡くなった著名人を振り返ってみたいんですがね――なんて言うと、テレビドラマ『刑事コロンボ』のピーター・フォーク(6/23。以下、日付は故人の命日を示す)のセリフみたいですが――、こうすることで、2011年がどんな年だったのかを知る糸口みたいなものがつかめると思うのです。

 2011年という年は、あの大震災と大津波、それから原発事故のあった3月11日を境にまっぷたつに分断され、それ以前のことはよく覚えていないという人も多いのではないでしょうか。たとえば、参議院議長在任中に死去した西岡武夫(11/5)は、自身の所属政党のトップである菅首相を批判していましたが、それは何も震災後に始まったことではありません。あと、ひょっとすると大相撲の春場所も震災の影響で中止になったと思いこんでいる人もいるかもしれませんが、あれは八百長問題の発覚によるものです。角界ではここ数年、外国人力士に日本人力士がすっかり押された観があったものの、9月場所の琴奨菊に続き、11月の九州場所では稀勢の里が、師匠の鳴門親方(元横綱隆の里。11/7)の急逝という事態に見舞われながらも大関昇進を決めました。

 他方、2010年末から2011年頭にかけてのチュニジアでの「ジャスミン革命」を発端に、北アフリカ・中東のアラブ諸国に広がった民主化要求運動は、いまも強い記憶に残っているという人も多いかと思います。このうちリビアでは反政府デモから内戦状態に陥り、1969年以来続いてきたカダフィによる独裁体制が崩壊。首都を追われたカダフィはその後、潜伏先で反カダフィ派に発見・拘束された際に死亡しました(10/18)。

 こうした一連の動きは「アラブの春」とも呼ばれます。しかし1989年の東欧諸国での民主化が、ヴァツラフ・ハヴェル(12/18)の主導した旧チェコスロバキアの「ビロード革命」をはじめ、ほとんどの国で血を流すことなく実現されたことを思えば(旧体制指導者が処刑されたルーマニアなど例外はあるものの)、「アラブの春」で払われた犠牲はあまりにも大きく、手放しでは喜べません。同様に北朝鮮についても、総書記・金正日の急死(12/17)をもって独裁体制から脱却して穏便に民主化、さらに朝鮮半島の南北統一にいたると考える人は少ないでしょう。

 アラブ諸国のうちエジプトでもまた、30年にわたり君臨したムバラク大統領が失脚しました。エジプトといえば、古代エジプトの女王を描いたアメリカの大作映画『クレオパトラ』(1963年)は、当のエジプトでは公開されなかったという逸話があります。その理由は、主演のエリザベス・テイラー(3/23)が撮影中にユダヤ教に改宗したため。これ以外にもわがままのかぎりを尽くしたテイラーのため製作費ははねあがり、製作会社の20世紀フォックスは倒産寸前にまで追いこまれます。エリカ様どころの話ではありませんね。なお、テイラーが子役として銀幕デビューしたのは1943年、同年には日本でやはり子役の沢村アキヲ、のちの長門裕之(5/21)が映画『無法松の一生』に出演しています。

 私生活もふくめ華やかな話題を振りまいたテイラーは、生きながらにして伝説的存在でした。アメリカの画家ウォーホルは、マリリン・モンロープレスリーなどとともにテイラーをポップアイコンとして作品にとりあげています。このほかにも多くの有名人のポートレートを手がけたウォーホルのこと、90年代以降も生きていたら、インドの霊的指導者、サイ・ババ(4/24)あたりも描いていたかもしれません。ウォーホルらによって60年代のアメリカで全盛を迎えたポップアートですが、元はといえばイギリスの画家、リチャード・ハミルトン(9/13)が1956年に発表した「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか?」と題するコラージュ作品に端を発します。

 美術界では1950年代から60年代にかけてじつに多様な潮流が生まれました。日本でも「世紀」の桂川寛(10/16)、「具体美術協会」の元永定正(10/3)、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の吉村益信(3/15)など、前衛芸術を志向する幾多のグループから作家が次々と輩出されています。同時期には美術評論においても瀬木慎一(3/15)や中原佑介(3/3)といった新人が現れ、前衛の作家たちの伴走者として活躍するようになります。瀬木はその後、日本の現代美術だけでなく浮世絵やピカソなど幅広く研究し、女優の高峰秀子(2010年12/28)と絵画をテーマにした対談集まで出しています。

 一方の中原佑介は1970年、現代美術の最先端を紹介する第10回日本美術国際展(東京ビエンナーレ)のコミッショナーを務めました。このビエンナーレは、2005年に東京都現代美術館で一部が再現されています(企画展「東京府美術館の時代 1926〜1970」)。このとき堀川紀夫という作家が再現した、自然石を美術館へ郵送するという“作品”では、石に針金でくくりつけられた札に宛名として当時の東京都現代美術館の館長だった氏家齊一郎(3/28)の名前が書かれていました。氏家は当時の日本テレビ会長でもあります。

 80年代に一旦は読売グループを離れた氏家ですが、90年代初めに盟友の渡邉恒雄読売新聞社長に就任したのを機に日本テレビに復帰しました。彼らの台頭で影が薄くなったのは、それまで巨人軍オーナーや読売新聞社主などを歴任しグループ内で実権を握ってきた正力亨(8/15)です(2011年は正力のほかにも阪神タイガース久万俊二郎[9/9]、ヤクルトスワローズの松園直已[12/9]と各球団の元オーナーが亡くなっています)。

 日本プロ野球史上前人未到の巨人の9年連続日本一は、正力がオーナーに就任した翌年、1965年から始まります。V9時代、じつに5回も日本シリーズで巨人と対戦した西本幸雄(11/25)監督率いる阪急ブレーブスは一度も日本一になれませんでした。西本はこの前後、大毎オリオンズ近鉄バファローズでも監督として日本シリーズに進出したものの、いずれも制覇はならず「悲運の闘将」と呼ばれることとなります。

 1974年に巨人の日本シリーズ進出を阻んだのは、与那嶺要(2/28)監督率いる中日ドラゴンズでした。ハワイ出身の日系2世である与那嶺は、巨人などでの現役時代、ダイナミックな走塁やスライディングなどアメリカ流の野球を日本に伝えました。アメリカ人を父に持つ伊良部秀輝(7/27遺体発見)も、日本人離れしたプレイと言動で毀誉褒貶のある選手でした。千葉ロッテマリーンズや米メジャーリーグのニューヨークヤンキースなどで活躍した伊良部は2005年の現役引退後、アメリカで永住権を得たものの亡くなる直前には日本へ帰りたいと漏らしていたともいいます。

 伊良部が活躍した1990年代、日本野球機構にあってプロ野球の国際化やフリーエージェント制の導入に尽力したのが第9代コミッショナー吉國一郎(9/2)です。法務庁出身の吉國は、1989年のコミッショナー就任以前には千葉県知事の沼田武(11/26)が千葉市幕張新都心開発の目玉として建設を進めた日本コンベンションセンター幕張メッセ)の初代社長も務めました。

 東京では21世紀初めにも開発ブームが起こりました。氏家齊一郎日本テレビ会長在任中の2003年には、汐留に新社屋(日本テレビタワー)が完成、翌年より営業を開始しました。汐留にはこれより一足先の2002年に電通本社ビルが竣工しています。当時の電通会長である成田豊(11/20)は、氏家とは新社屋だけでなくジブリ映画の製作者としても名前を連ねた人物です。

 電通の新社屋が完成したこの年、成田が実現に向け力を注いだ日韓共催FIFAワールドカップが開かれました。FIFA女子ワールドカップ・ドイツ大会での「なでしこジャパン」の優勝に日本が沸いた2011年は、サッカー界でも訃報があいつぎました。銅メダルに輝いた1968年のメキシコ五輪サッカーの日本チームでキャプテンだった八重樫茂生(5/2)、八重樫とともに同五輪に出場したのち、日本代表監督や浦和レッズの初代監督を務めた森孝慈(7/17)、それから90年代以降、五輪やW杯で活躍した松田直樹横浜・F・マリノスから松本山雅FCに移籍した今年、練習中に突然倒れ、34歳の若さで亡くなっています(8/4)。

 前出の氏家齊一郎が東大在学中、先輩の渡邉恒雄とともに学生運動に入れこんでいたことはよく知られています。1950年、東横映画が戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』の映画化を企画した際、その内容に氏家らの所属する東大全学連は思想的な理由から横槍を入れました。当時、東横映画の若きプロデューサーであった岡田茂(5/9)は、氏家を呼び出し説得にあたったといいます。東横映画は同作のヒットの翌年、合併により東映となります。岡田は60年代に任侠路線を発案して大成功を収め、1971年には社長に就任しました。岡田社長時代の東映は、映画産業が斜陽を迎えるなか『仁義なき戦い』(1973年)に始まる実録路線を当て、さらに角川映画との提携で山をつくります。なかでもミュージシャンのジョー山中(8/7)が出演、主題歌も歌った『人間の証明』(1977年)はメディアミックスの効果もあり爆発的にヒットしました。

 それにしても、岡田といい氏家や成田といい、また講談社の社長の野間佐和子(3/30)といい、2011年は巨大メディアの経営者たちの逝去が目立ち、時代の曲がり角を感じさせました。そのことをより印象づけたのはやはり、7月に実施された地上波テレビのデジタル放送への全面移行(ただし東北3県を除く)でしょう。地デジ化は視聴者、とくに若年層のテレビ離れにますます拍車をかけるのではないかとも懸念されています。しかしじつはこれより前、1980年前後にも若者のテレビ離れが進んでいたといいます。いま一度若者たちをテレビの前に引き戻すべく、フジテレビのプロデューサーだった横澤彪(1/8)が仕掛けたのが『THE MANZAI』(1980年。2011年には漫才グランプリとして復活しましたね)であり、それから『オレたちひょうきん族』(1981年)や『笑っていいとも!』(1982年)といったバラエティ番組でした。これら番組は、お笑いの世界に“フィクションからノンフィクションへ”ともいうべき革命をもたらします。

 上記のうち『ひょうきん族』は、『THE MANZAI』で人気を集めた漫才コンビをバラして起用した点でも画期的といわれます。もっとも、放送作家出身のタレント・前田武彦(8/5)が大橋巨泉と司会を務めたバラエティ番組『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』(1969年)ではすでに、当時人気絶頂にあったコント55号坂上二郎(3/10)と萩本欽一が2人別々でコントを演じていました。

 横澤彪は『いいとも』に、NHKを定年退職したばかりだったテレビディレクターの和田勉(1/14)をレギュラー出演者として引っ張り出してもいます。テレビ本放送の始まった1953年にNHKに入局した和田は、演劇とも映画とも異なるテレビドラマならではの表現を模索し続け、女性脚本家の草分けのひとりである大野靖子(1/6)と組み、『天城越え』(1978年)や『ザ・商社』(1980年)といった名作も生みました。また、2011年に没後30年を迎えた向田邦子とも『阿修羅のごとく』(1979年)などの作品を手がけています。向田作品といえば、その常連俳優として『だいこんの花』『七人の孫』に出演した竹脇無我(8/21)、『あ・うん』『父の詫び状』に出演した杉浦直樹(9/21)が思い出されます。

 向田の死後、その年のもっともすぐれたテレビドラマの脚本に与えられる賞として「向田邦子賞」が制定され、第1回には市川森一(12/10)の『淋しいのはお前だけじゃない』(1982年)が選ばれました。市川はNHK大河ドラマでも3度脚本を手がけており、その最初の作品『黄金の日日』(1978年)では徳川家康児玉清(5/16)が演じ、セリフは少ないものの存在感を示して評判になったそうです。

 いくら“終わったコンテンツ(オワコン)”といわれようとも、テレビの威力にはいまだに大きなものがあります。2001年9月11日に起きたアメリカでの同時多発テロは、テレビを通じて全世界の人たちにインパクトを与えるという効果を意識して実行されたものとも考えられます。この事件の首謀者とされるテロ組織「アルカイダ」の指導者オサマ・ビンラディンパキスタン国内に潜伏中、米軍により殺害されたと報じられました(5/2)。

 ビンラディン以外にもテロリスト、あるいは政治活動家の物故が目立った1年でもありました。たとえば、60年代末の東大紛争や成田空港建設反対運動(三里塚闘争)などにかかわり新左翼のイデオローグとして知られた荒岱介(5/3)、1970年の赤軍派によるよど号ハイジャック事件の最年少メンバー(当時16歳)だった柴田泰弘(6/23遺体発見)、アラブに渡った日本赤軍のメンバーで、1970年代にいくつかのハイジャック事件に関与した丸岡修(5/29)があげられます。ちなみに、よど号事件のさい赤軍派は「われわれは明日のジョーである」(原文ママ)と宣言しましたが、出崎統(4/17)監督によるテレビアニメ『あしたのジョー』の放映が始まったのは事件発生の翌日(70年4月1日)でした。出崎はその後1980年と81年には同作の劇場版を手がけ、このとき主人公・矢吹丈のライバル力石徹の声を俳優の細川俊之(1/14)があてています。

 赤軍派からは前記のよど号グループや日本赤軍のほかに、革命左派(京浜安保共闘)と統一をはかった連合赤軍が派生しています。連合赤軍は1971年から翌年にかけて群馬山中で軍事訓練を行ないましたが、警察の山狩りにより幹部である森恒夫永田洋子(2/5)が逮捕されました。長野県軽井沢の別荘地で起こったあさま山荘事件は、残されたメンバーたちが逃亡の末に引き起こしたものです。この事件のあと、連合赤軍内で「総括」と称するリンチ殺人が行なわれていたことが判明、社会に大きな衝撃を与えます。これをきっかけに若者たちによる政治運動は退潮の一途をたどることになりました。

 映画監督の長谷川和彦は長らく連合赤軍を題材にした映画を構想していて、そのなかで永田洋子樹木希林が、森恒夫原田芳雄(7/19)が演じることを考えていたそうです。映画でアウトロー的な役を数多く演じた原田だけに、実現していたらどんな演技を見せたのか気になるところです。

 さて、学生運動の熱は、カウンターカルチャーサブカルチャーといわれるものに移っていった観があります。たとえば60年代末に全国に広がった学園紛争の火元のひとつである日本大学では、森田芳光(12/20)が紛争中で学校に行けなかったから……との理由で映画を撮り始めます。森田は、従来の撮影所経由ではない自主制作映画から劇場映画に進出した監督の嚆矢でもありました。

 連合赤軍事件の起こった1972年には、佐藤嘉尚(11/19)が発行人を、当代の人気作家が交代で責任編集を務めるというユニークな雑誌『面白半分』が創刊しています。同誌は、野坂昭如が責任編集を務めた号で永井荷風作と伝えられる戯作「四畳半襖の下張」を掲載したところ、警視庁から猥褻文書として告発を受けました。佐藤と野坂を被告とする「四畳半襖の下張」裁判はこれより前、1960年代にサドの『悪徳の栄え』をめぐり訳者の澁澤龍彦と発行人(現代思潮社社長)の石井恭二(11/29)が被告となった「サド裁判」などとともに文芸作品をめぐる代表的な猥褻裁判として知られます。

 SMのうちS(サディズム)は、いうまでもなくサドの名に由来します。戦後まもなくに創刊されたSM雑誌『奇譚クラブ』からは、沼正三の「家畜人ヤプー」という稀代の奇作が生まれました。沼は覆面作家であり、その正体が長らく取沙汰されてきたのですが、1982年に東京高裁判事の倉田卓次(1/30)とする説が雑誌に掲載され物議をかもしています(ただし本人はこれを否定)。マゾヒストの核心を突いた本格的なM小説「ヤプー」について、「私の持つ嗜好趣味とは反対の被虐趣味の分野に入るものだが、その卓絶した文章力に驚かされた」と評したのは、同じ雑誌にS小説「花と蛇」を連載した団鬼六(5/6)です。

 60年代から70年代にかけてはサブカルチャーを語ろうという動きも活発に起きました。音楽評論家の中村とうよう(7/21)が1969年に、新しい音楽としてのロックを批評的に論じるべく『ニューミュージック・マガジン』(現『ミュージック・マガジン』)を創刊したのはその走りといえます。また、マンガ評論家の亜庭じゅん(1/21)らは『迷宮』というマンガ批評集団の活動を進めるなかで、同人誌即売会の開催を思い立ちます。こうして1975年に始まったのがコミックマーケットでした。コミケは、イデオロギーなど既成の価値観にとらわれず自分たちの言葉でマンガを語ろうという亜庭たちの情熱の産物だったともいえます。

 自分の言葉を持とうとしたという点では、同時期に一世を風靡した女性アイドル3人組のキャンディーズも同じでした。1977年の彼女たちの「普通の女の子に戻りたい」という突然の解散宣言には、事務所など周囲からのお仕着せではなく自分たちの意思で行動したいという願望がこめられていたように思います。翌年の後楽園球場でのキャンディーズ解散コンサートののち、メンバーのひとりだった田中好子(4/22)は一時活動休止を経て、女優として芸能界に復帰します。自分の言葉で語るという姿勢は、その葬儀で流された病床からの最期のメッセージにもしっかり表れていました。

 田中の女優としての代表作である映画『黒い雨』(1989年)では脚本を石堂淑郎(11/1)が手がけています。石堂は映画以外にテレビでの仕事も多く、北杜夫(10/24)の長編小説を原作としたドラマ『楡家の人びと』の脚色も手がけています。

 キャンディーズのレコードは、当時まだ新興のレコード会社だったCBSソニーレコード(現ソニー・ミュージックレコーズ)からリリースされました。1968年の同社設立に携わり、キャンディーズのほか南沙織山口百恵などといったアイドル路線を敷いたのが、東京芸大卒の元声楽家でのちにはソニー社長、会長を歴任した大賀典雄(4/23)です。

 大賀はオランダのフィリップス社と共同でのコンパクトディスクの開発にも深くかかわり、1982年に商品化します。CDは前後してソニーが送り出したウォークマンとともに世界的なヒット商品となります。が、ソニーはCDにより音楽のデジタル化に、ウォークマンでは携帯音楽プレイヤーという新分野にそれぞれ端緒を開いたにもかかわらず、両者の融合であるデジタルオーディオプレイヤーによって世界を席巻することはできませんでした。代わりにそれを達成したのは、米アップル社の前CEOスティーブ・ジョブズ(10/5)が2001年に送り出した「iPod」でした。ソニーがこの分野で失敗したのは、傘下にレコード会社を持つゆえ著作権保護を優先しなければいけない事情もあったと説明されます。

 ジョブズの亡くなる前日に発売された最新鋭のスマートフォンiPhone 4S」には音声認識人工知能が組みこまれていました。人工知能(AI)という言葉を発案し、その研究の第一人者となったのがジョン・マッカーシー(10/24)です。このほか、コンピューターの標準オペレーティングシステムである「UNIX」を開発したデニス・リッチー(10/12)や、著作権の切れた古典作品をネット上に掲載していく「プロジェクト・グーテンベルク」の提唱者で、“電子書籍の父”とも呼ばれるマイケル・S・ハート(9/7)も、コンピューターと電子文化の歴史に大きくその名を刻みました。

 テレビやコンピューターの登場する以前から、テクノロジーは人間の知覚や感性にさまざまな影響を与えてきました。旧東ドイツ出身のドイツ文学者・メディア理論家のフリードリヒ・キットラー(10/18)や、広範な批評で知られた多木浩二(4/13)は、家具・印刷物・写真・蓄音機・映画・タイプライターなどといったモノを通じて文化史を考察しています。モノと人間の関係といえば、日本の工業デザイナーの草分けである柳宗理(12/25)は、デザイナーはタッチしていないものの、その用途に即して自然とデザインされたモノ(たとえば野球のボールの縫い目など)に美を見出し、それを匿名のデザイン、「アノニマス・デザイン」と呼びました。こうした見方は、彼の父・柳宗悦が興した民藝運動の精神を継承したものでもありました。

 落語にもまた匿名の芸という側面があると思うのですが、噺を演じるなかでどうしても“私”を出さずにいられなかったのが落語立川流家元の立川談志(11/21)でした。「落語とは、人間の業の肯定である」と定義した談志は、業とはその良し悪しに関係なくやらずにはいられないものであり、それがあったからこそ「文明」も生まれたと説明しています。さらに、文明から取り残されたものに光を当てたものを「文化」と呼び、「文明は、文化を守る義務がある」と言っているのが面白い。

 談志の考えにならうなら人類は業にしたがって自然を征服し、快適な生活を手に入れたわけですが、その代償は小さくありませんでした。21世紀に入るとノーベル平和賞でも環境保全の分野が選考対象に加えられ、ケニアの環境活動家であるワンガリ・マータイ(9/25)がその最初の受賞者(2004年)となりました。

 60年代、工業化の次に来る社会を示した「脱工業(化)社会」という概念がアメリカの社会学者ダニエル・ベル(1/25)によって提唱されます(著作としてまとめられたのは1973年ですが)。来たるべき社会を特徴づけるものとして情報を重視したベルの言説に対応する形で、同時期の日本では「情報化」という語が、経済企画庁の官僚から大学教授に転じた林雄二郎(11/29)らによって発案されました。林は民族学者の梅棹忠夫を中心とするサロンにも参加し、そこに集まった作家の小松左京(7/26)たちとの議論はやがて日本未来学会の設立、そして1970年の大阪万博へと発展していくことになります。

 父親から継いだ町工場を経営していた昭和30年代に、関西の民放ラジオで夢路いとし・喜味こいし(1/23)の漫才番組の台本を書いていたこともある小松は、同時期よりSF小説を書き始め、1973年には9年がかりの長編『日本沈没』を刊行しました。その作中には「戦後の三十余年間、日本の、とくに大都会の人々は、巨大な災害に対して、瞬間的に身を処するマナー――戦前までに、大火や地震や水害などの数百年間を通じて形成されてきた『災害文化』ともいうべきものをきれいに失ってしまっていた」という一文が出てきます。岩手県出身の津波研究家・山下文男(12/13)は、津波のときは他人をかまわずてんでばらばらに逃げなさいと教える「津波てんでんこ」という三陸地方の言い伝えを広め、先の東北を襲った大津波でも少なからぬ人たちが救われました。「災害文化」とはまさにこういうものを指すのでしょう。

 小松自身も1995年の阪神・淡路大震災を体験しています。この震災について、彼は新聞連載で1年をかけてさまざまな角度からルポを行ない『小松左京の大震災'95』という本にまとめました。東日本大震災のあとには、将来の自然災害に備えるべく、様々な分野の専門家を組織して「総合防災学会」をつくれないかと提案をしたり、共著『3・11の未来』の序文で「私は、まだ人間の知性と日本人の情念を信じたい。この困難をどのように解決していくのか、もう少し生きていて見届けたい」と書いた小松でしたが、まもなくして亡くなりました。阪神・淡路大震災ののち神戸市では当時の市長・笹山幸俊(12/10)のもと復興計画が推し進められましたが、果たしてこのときの経験が今回の震災からの復興にどれだけ活かせるでしょうか。

 ……と、まあ、このほかにもまだまだとりあげたい人物はいるのですが、これ以上あちこちへ行ったり来たりすると、声優の滝口順平(8/29)よろしく「おやおや、また寄り道ですか〜」なんて言われそうなので、ひとまずこのへんにしておきましょう。それにしてもこうして振り返ると、ひとつの時代が終わったような思いをつくづく抱きます。ただ一方で、安易に「時代の終焉」を口走るのは、原発の事故処理のある段階の終了をもって「事故の収束」を宣言するのと同じくらい性急な判断ではなかろうか、と思ったりもします。とりあえずここは、ひとつのステップが終わったぐらいに考えて、彼ら、彼女たちの遺したもの(負の影響も含めて)を糸口に、2012年以降のビジョンを見出したいところです。

 最後にあらためて、本稿でとりあげた人たちに加えて、東日本大震災で亡くなった人びとにも哀悼の意を表しつつ本稿を締めたいと思います。

  (初出 「ビジスタニュース」2011年12月27日)