俳優の樹木希林が2018年に亡くなってから、きょう9月15日で丸6年が経ち、7回忌を迎えました。これに合わせて、亡くなったちょうど1ヵ月後に彼女の人生を「cakes」の拙連載「一故人」でたどった回を再掲載します。
舌禍事件で名ディレクターと絶交
女優の樹木希林(2018年9月15日没、75歳)は、自分の発言が原因で、同志ともいうべき人物と約20年にわたり絶交状態になったことがある。その相手とは演出家の久世光彦(てるひこ)だ。久世は樹木の特異な才能を高く買い、1970年代にTBSのディレクター、プロデューサーとして手がけたホームドラマでは必ず彼女を出演させてきた。
だが、二人の関係は突如として断たれた。それは1979年、『ムー一族』の打ち上げパーティーでのこと。このとき、スピーチに立った樹木は、ドラマに出演していた若手女優が久世の子供を妊娠していると暴露した。会場には取材陣も詰めかけ、あらかじめ「私がこれから言うことは記事にしないでください」と釘を刺したが、それはさすがに無理筋というもの、すぐにスポーツ紙や週刊誌で報じられ、一大スキャンダルへと発展する。結局、久世は責任をとってTBSに辞職願いを出し、フリーとなる。
樹木が見たところ、久世は妻と離婚していないのに別の女性とそのような関係になったがために、『ムー一族』が最終回に近づくにつれボルテージが下がり、仕事がおざなりになっていたという(田山力哉『脇役の美学』。以下、参考文献について詳細は記事終わりのリストを参照)。それが彼女には許せず、くだんの発言につながった。後年のインタビューでは、《出演者がみんな、女性のことで久世さんを軽蔑しだした。だから、これまでのことはチャラにして、パーッとやりましょうよ、というつもりだった。それが裏目に出た》とも振り返っている(『朝日新聞』2007年1月13日付)。
もう少し歳を重ねてからの樹木なら、もっと穏便に事を収めることもできたかもしれない。しかし当時の彼女としてみれば、これまでお互い真剣になってドラマをつくってきた同志が、私的な事情で仕事をおろそかにすることにどうしても耐えられなかったのだろう。
このエピソード一つをとっても、樹木の高いプロ意識がうかがえる。やはり久世の演出によるドラマ『時間ですよ』(1970年)では、樹木(当時の芸名は 悠木千帆(ゆうきちほ)だが、この記事での呼称は樹木希林で統一する)が堺正章らとギャグを演じる場面が人気を集めたが、脚本の向田邦子はこの場面には何も書かず、彼女たちにすべて任せていた。これに対し樹木は、自分たちは徹夜でギャグをつくっているのに、なぜ脚本のクレジットには向田の名前しかないのかと抗議したこともあったらしい(小林竜雄『久世光彦vs.向田邦子』)。
演技に力を注ぐ一方で彼女は、いつ女優をやめてもいいと言ってはばからなかった。実際、本業のかたわら、不動産を購入して収入源としていた。《私も言いたいことを言いますから、ケンカして仕事がなくなっても生きていけるように》というのがその理由である(『週刊朝日』2016年5月27日号)。
仕事ではけっして手を抜かないが、俳優という職業にこだわっていたわけではない。矛盾しているようでいて、それを納得させてしまうものが彼女にはあった。その人柄はいかにして育まれたのか、探ってみることにしよう。
無口な少女がテレビの人気者になるまで
樹木希林は1943年1月、東京に生まれた。結婚前の本名は中谷啓子。父はもともと警察官だったが、のちに薩摩琵琶奏者となった。彼女は俳優として絶妙な「間」で笑いを誘ったが、それは父親ゆずりのものらしい(『朝日新聞』2007年1月6日付)。一方、母は戦後、池袋で飲食店を始め(のちに店は横浜に移る)、一家を支えてきた。
幼少期の彼女はめったに口をきかなかった。4~5歳のころ家の中2階から1階に転落した事故が原因で、おねしょをするようになり、それに強い引け目を感じていたからだという。だが、それも鍼灸師にかかるなどして、しだいに治っていった。中学に進むころには《普通に口を利くようになって、いつのまにかケンカっ早くて生意気な人間になっていた》(『朝日新聞』2018年5月10日付)。
俳優の道に進んだのは成り行きだった。高校卒業を前に、父から「おまえは結婚しても夫とうまくいくかわからないから、食いっぱぐれないよう手に職を持て」と薬科大学に行って薬剤師になるよう勧められた。しかし、もともと数学が苦手だったうえ、旅行先の北海道でスキー中に骨折し、受験を断念。けがのため卒業式にも出られず、途方に暮れていたところ、新聞で「新劇の3劇団が研究生を募集」という記事を見つける。新劇3劇団とは文学座・俳優座・劇団民藝を指し、樹木はこのうち文学座を受験、合格した。決め手は、試験のとき相手のセリフをよく聞いていたからだと、のちに劇団の大先輩の長岡輝子から教えられた。少女時代、口をきけなかった分、周囲をよく見て、よく聞いていたのが活きたらしい(『朝日新聞』2018年5月11日付)。
こうして彼女は1961年、文学座付属演劇研究所の1期生となる。同期には橋爪功、小川真由美、寺田農、北村総一朗、最初の結婚相手となる岸田森(しん)らがいた。デビューにあたり、悠木千帆という芸名を父につけてもらう。
研究所での身体訓練などは後年、役立つことになるが、当時の樹木は芝居をずっと続ける気はなかった。そんな彼女が最初に注目されたのは、舞台ではなくテレビだった。1964年、TBSで放送されたホームドラマ『七人の孫』でお手伝いさんの役に起用され、森繁久彌演じる一家の長との掛け合いがウケて、たちまち人気者となったのだ。
同番組でアシスタントディレクターを務めていた久世光彦によれば、この役は交代で書いていた脚本家の一人が唐突に登場させたもので、樹木は文学座より急遽呼ばれた若手のなかから適当に選ばれたにすぎなかった。セリフも「ご隠居さん、もう遅いから帰りましょ」という一言のみ。それを彼女は、「ちょっと頭の回転が遅そうな感じで、しかも、どことも知れぬ地方訛りで」やったところ(森繁久彌・久世光彦『大遺言書』)、面白いということになった。もっとも、当人に言わせると、出番までさんざん待たされたのに怒って、セリフをひどくつっけんどんに言ったのが、たまたまウケたのだという(『週刊平凡』1966年6月9日)。
それからというもの、台本に書かれていなくても、ご隠居のそばにはいつもお手伝いさんがいることになり、出番はどんどん増えた。普段から人間を観察し、芝居に活かすということなど、森繁との共演を通して学んだことも少なくない。ただ、出番は増えてもギャラは変わらないし、撮影が夜中までかかるのでくたびれてしまった。このため、好評につき続編が決まり、森繁も「あの子が出るなら」と続投に応じたにもかかわらず、彼女はオファーをいったん断っている。そこへTBSの局長が飛んできたので、ギャラを100%アップすると約束させて、やっと承諾したのだとか(『朝日新聞』2018年5月15日付)。
この間、1965年に同期の岸田森と結婚、翌年1月にはそろって文学座を退団する。新婚時代、夫妻の自宅には編集者の津野海太郎や詩人の長田弘、俳優から演出家へ転身を考えていた蜷川幸雄など多彩な人たちが出入りし、自前で劇団を立ち上げる計画を練った。こうして66年6月、劇団「六月劇場」が旗揚げし、岸田と樹木の新居に劇場を設けた(なお、蜷川は結局この劇団には参加しなかった)。ちょうど既存の演劇にアンチテーゼを掲げる小劇場運動が盛んになりつつあった時期である。
仲間内でも稼ぎ頭だった樹木は、しょっちゅう劇団に制作費を貸していたという。そもそも文学座時代から、ドラマ以外にCMにも出演し、同期の誰よりも稼いでいたので、みんなで飲むとなるとカネを払うのはいつも彼女だった。
その後、1969年に六月劇場が劇団「自由劇場」と合同で「演劇センター68/69」を組織したのを境に、樹木は劇団からフェードアウトする(岸田と別れたのもほぼ同時期だった)。演劇センターは、やがて黒いテントを張った仮設劇場での公演から「黒テント」と呼ばれ、小劇場運動の一翼を担うことになる。なお、樹木は六月劇場の結成前からの仲間で、黒テントの座付作家だった山元清多(きよかず)を、『時間ですよ』の台本作家としてテレビの世界に引き入れている。以来、山元は久世と組んで、のちにはホームドラマの枠を突き破るような異色作『ムー』や『ムー一族』などを手がけた。
樹木がデビューしたころ、新劇の役者のあいだでは、テレビは三流の役者が出るところで、CMにいたっては「出ると芸が荒れる」とまで言われていた。しかし、彼女は気にせず、テレビにもCMにも請われるがままに出演した。おかげで、自分は役者というより、むしろ芸能人でいるという意識のほうが強くなったという。
《役者はみんな役作りをするんだけど、私の場合そこにもう一つ、『世の中はもうこういうものに飽きているな』とか『観たくなくなっているな』とか『こういうものを欲しがっているな』とか、そういうことを何となく感じるタイプなのよ》(『SWITCH』2016年6月号)
彼女を精神的死から救った内田裕也
世の中の流れや視聴者の欲求を意識することは、久世光彦との仕事でより深められたに違いない。1974年、31歳のときには、久世の演出するホームドラマ『寺内貫太郎一家』に、一家の長である貫太郎の母・きんばあさんの役で出演する。このとき、髪を脱色し、シワのない手を隠すため、指先を切った手袋をはめるなどして、おばあさんになりきった。このドラマをもっておばあさん役は彼女のハマり役となる。