イラストレーターでグラフィックデザイナーや映画監督としても活躍した和田誠が亡くなってから、きょう10月7日で5年が経ちました。これに合わせて、亡くなった翌月にウェブサイト「cakes」の拙連載「一故人」で彼をとりあげた回をここに再掲載します。
異例ずくめだった『週刊文春』の表紙絵
『週刊文春』の表紙絵が、担当していたイラストレーターの和田誠(2019年10月7日没、83歳)の亡くなる2年前から、描き下ろしではなく過去の作品の再掲となっていたのを知る人はどれだけいただろうか。ひょっとしたら、かなりコアな読者ぐらいしか気づいていなかったかもしれない。私も、人から言われるまで知らなかった。和田が描き下ろしをやめ、事実上降板したのは2017年、表紙絵が2000回に達したのを区切りとしてだった。このときすでに仕事で絵を描くことが難しくなっていたと、没後あきらかにされた(『週刊文春』2019年11月14日号)。
和田が『週刊文春』で表紙絵を手がけるようになったのは、1977年5月12日号からである。同誌の表紙はそれまで女優の写真が飾ってきた。それを新たに編集長となった田中健五(のちの文藝春秋社長・会長)が、雑誌の雰囲気をガラリと変えようと思い立ち、和田にイラストレーションを依頼したのだ(ちなみに彼は「イラスト」と略すのを好まなかったので、この記事でも正しく「イラストレーション」と表記する)。
和田は仕事場に訪れた田中から依頼を受け、二つ返事で飛びつきたいところを口ごもった。その5年前、『週刊サンケイ』(現『SPA!』)の表紙を、4年ほど担当しながら自分の都合で降りてしまった苦い体験があったからだ。同誌では毎週、時の人の似顔絵を描いていたが、一般向けの週刊誌だけに、もっぱら大衆的な人物の絵が求められた。ときどき和田からちょっと渋めでも絵として面白くなりそうな人物を描きたいと希望しても、なかなか受け入れられない。そのうちに欲求不満が嵩じて、結局、降板してしまったのである。
『週刊文春』の表紙でも、ひょっとしたら似顔を求められるのではないか。かといって、似顔以外に何を描けばいいのかとっさには思い浮かばない。口ごもってしまったのはそのためだが、田中は「数日後に連絡するから考えてください」と猶予を与えた。後日、田中は2人の編集部員をともなって再訪する。和田によれば、このとき次のようなやりとりがあったという。
《ぼくはお引き受けすることを明言し、「似顔絵を望まれていますか」ときいた。「それは他誌の記憶があるので望んではいない」ということだった。「ではどういう絵を描いたらいいでしょう」「ご自由に」「自由は嬉しいけど何かヒントをください」……ややあって編集部のお一人が「強いて言えば都会のメルヘンかなあ」と発言された。「都会のメルヘンですか」「いやいや、ちょっと浮かんだから言ってみたまでです。あくまでご自由に」/そんな具合で明確な注文がないまま締切の日を迎え、鳥がエアメールの封筒を咥えている絵を描いたのだった》(和田誠『表紙はうたう』)
グラフィックデザイナーでもある和田は、表紙絵を引き受けると同時に、表紙のデザインも自分でやり、誌名のロゴも変えさせてもらった。ロゴは目立とうとして斬新なデザインにするのではなく、オーソドックスだけど新しいものになるよう心がけた(『本の話』2008年11月号)。
表紙絵のスタイルも、それまで自分が発表していないまったく新しいものにしようと決める。「ご自由に」と言われたので、逆に自分で制約をつくり、グワッシュ(不透明水彩絵の具)でケント紙に原寸で描くという手法に絞り、タッチもリアルにして、できるだけ細部まで描き込むことにした。
1回目の原画を編集者に渡すと、題名を訊かれて戸惑ったという。しばし考えて、エアメールを描いたので、「エアメール・スペシャル」とつけた。スイング時代のジャズの曲名である。以来、画題は音楽のタイトルから借りるようになる。タイトルは絵を描いてから探すことのほうが多いが、ときには歌のイメージ、あるいは曲名に出てくる事柄をそのまま描くこともあった。
絵のモチーフについては、表紙を始めた当初こそ、打ち合わせ時の編集者の言葉どおりメルヘンぽくしたり、ひとひねりしたりして描いていたが、そのうちにモチーフそのものの魅力を引き出す方向へ変わっていったという(『表紙はうたう』)。モチーフ選びには毎号苦労しつつも、描かれたものは季節物や風景、動植物、食べ物などじつに多岐におよぶ。始めた当初にはまた、表紙にその号の特集記事の見出しが1行か2行入り、和田がその形・色・場所を指定していた。だが、そのうちに、「あれがないとすっきりするんですけど」と申し出て、ときどき見出しの入らない号をつくってもらうようになる。1988年9月からは一切入れないと、当時の編集長が決めた。駅の売店など立ち読みのできない場所にも置かれる週刊誌にとって、表紙の見出しは内容を知らせる唯一の手立てだけに、それをなくしたのは英断といえる。
時の人物が登場しないうえ見出しが入らない表紙は、週刊誌では異例だろう(同じくイラストレーションを用いた『週刊新潮』の表紙には、ときどきではあるが見出しが入る)。時事的な要素をまったく入れなかったわけではない。親交のあった作家の吉行淳之介やジャズピアニストの八木正生が亡くなったときには、それぞれ故人の好きだったカクテルやウイスキーを描き、追悼の意を込めた。2001年のアメリカ同時多発テロのあとには、倒壊したワールドトレードセンターを含むニューヨーク・マンハッタンの風景を裏表紙も使って描いている。2007年の長崎の原爆忌にあわせて当地の平和祈念像を描いたのは、そのころ「原爆はしょうがなかった」という政治家の発言に怒りを覚えたからでもあった。だが、いずれも作者の意図を抜きにしても十分に作品として成立し、時間が経ってもけっして古びない絵になっている。だからこそ、再掲してもまったく違和感がない。
そもそも『週刊文春』の表紙にかぎらず、和田のイラストレーションには、時の流れからちょっと外れた雰囲気があった。年齢を重ねてもタッチが枯れることがなかった。和田と同年代で、やはり週刊誌で長らくイラストレーションの連載を続けている山藤章二は、1983年に彼と対談した際、《和田さんの絵は時間とあんまり関係ない絵だからね。ごく一般的な目で見ると、とても四十七歳の男が描いた絵だとは思われない。古めかしさとか、ある種の格調とか重厚さ、年寄りの知識がどこかに臭うという感じがしないでしょう。(中略)年齢不詳だよ、このイラストレーターは》と評した。これに対し当人は《逆に言うと、若い時から、作風があんまり若くなかったのかもしれないね》と返している(和田誠『和田誠インタビューまたは対談』)。ここで和田の経歴を振り返ってみよう。
教師の似顔絵に熱中した中高時代
和田誠は1936年4月、大阪に生まれた。両親は東京の人で、父・精は築地小劇場の旗揚げに参加後、現在のNHK大阪放送局に入ってラジオ番組の演出を担当していた。だが、戦争末期に解雇され、東京に戻る。小学生だった和田は空襲を避けて千葉の親戚宅に疎開し(このころ通った小学校の1年先輩に長嶋茂雄がいたという)、終戦後に東京で再び親兄弟と暮らすようになった。
終戦の翌年、小学4年生のとき、担任の先生がその日の授業を始める前に新聞に載っていた政治漫画の話をしてくれた。それは当時の人気漫画家・清水崑が描いたものだった。和田は帰宅してその漫画を見たのをきっかけに似顔絵に興味を持ち、清水の絵を模写するようになる。もともと絵を描くのは幼いころから好きだった。中学に入ると、清水が中学時代に各教科の先生の似顔だけでつくった時間割をエッセイ集に載せているのを見て、自分もやってみようと思い立つ。それから毎日、授業中は先生の顔のスケッチに励んだ。ようやく時間割が完成したのは高校2年のときで、同級生に見せると好評を博す。
ちょうどそのころ、国立近代美術館で「世界のポスター展」を見て感銘を受け、「ポスターを描く人になりたい」と思った。そこで高校を卒業すると多摩美術大学の図案科に進む。まだデザインではなく図案と呼ばれていた時代だった。3~4年のとき、グラフィックデザイナーの山名文夫が教授につき、授業ががぜん面白くなる。出される課題が、架空の広告雑誌の表紙を描いたり、電化製品を一つ選んで新聞広告をつくったりと具体的だったからだ。大学3年のときには、日本宣伝美術会(日宣美)の公募展で、『夜のマルグリット』という映画のポスターが初出品ながら最高賞の日宣美賞を受賞する。当時、新人の登竜門と目された賞だけに、和田はにわかに注目され、東芝のテレビコマーシャルのアニメーション制作や、雑誌に似顔絵を描く仕事が舞い込んだ。
会社員時代に広がった交友関係
大学を卒業した1959年、広告制作会社のライトパブリシティに入社する。アートディレクターの信田富夫が創業した同社には当時、企画部長に向秀男(コピーライター)、美術部長に村越襄(アートディレクター)、写真部チーフに早崎治(写真家)、メンバーにグラフィックデザイナーの田中一光や細谷巌、デザイナー兼イラストレーターの伊坂芳太良らがいた。和田のあとにはデザイナー兼イラストレーターの山下勇三、カメラマンの篠山紀信、コピーライターの土屋耕一や秋山晶、のちにアートディレクターとして活躍する浅葉克己などが入ってきた。いずれも広告界をはじめ各分野で大きな足跡を残すクリエイターたちである。
入社1年目、専売公社(現JT)にいた大学の先輩の勧めで、新たに発売されるタバコのパッケージのコンペに参加する。先輩は和田個人に依頼したつもりだったようだが、彼は社長に断って会社の仕事として引き受けた。6種類の案を提出し、そのうち青地にアルファベットで記された銘柄と光を抽象化したデザインをあしらったものが選ばれた。こうして和田がパッケージをデザインしたタバコ「ハイライト」は、翌60年6月に発売される。
1960年には亀倉雄策や原弘・山城隆一などベテランのグラフィックデザイナーを中心にデザインプロダクション・日本デザインセンターが設立された。同社にはライトパブリシティから田中一光が移籍し、和田は彼が担当していた東洋レーヨン(現・東レ)のテトロン(ポリエステル)系商品の広告の仕事を引き継ぐ。その後も専売公社のタバコ「ピース」の雑誌広告やキヤノンの新聞広告などを担当し、和田はグラフィックデザイナー、イラストレーターとして腕を磨いた。
初めて著書を出したのも1960年だった。東レの仕事のため月2~3度、土屋耕一らとともに先方の本社へ会議に出向いたが、お偉方が話すときは、退屈なのでスケッチブックに落書きをしていた。それはなぜかゾウを題材にしたひとコマ漫画ばかりだった。ゾウの漫画は会議のたびに増えていき、ついにはスケッチブックいっぱいになる。それを同僚たちが見て面白がっていたところ、社長の信田の目に留まり、「本にしてあげようか」と言ってくれたのだ。こうしてスケッチブックから21点の絵を選び、『21頭の象』と題して、自費出版のような形ではあるが和田の絵本第1作が出版された。このとき、社長からは「本が出るとそれを見て君に仕事をしてくれという人がきっと出てくると思う。そのときはちゃんと会社を通してすること」と釘を刺されたという。
すでにこの時点で、和田は会社以外の仕事もいくつかやっていた。後年の著書では、《社長はそれを知っていたのに頭ごなしに叱らず、婉曲に言ってくれたのだと思う。ぼくのほうは会社以外の仕事といっても広告はやらなかったし儲かる仕事もやっていない。というより、ほとんどタダの仕事ばかりだった。それなりにスジを通していたつもりなのだ》と、社長の計らいに感謝しつつ、“内職”するにしても自分なりに会社に義理立てていたことを強調している(和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』)。
会社外の仕事では、たとえば、新宿の映画館・日活名画座や、赤坂の草月会館でのジャズコンサート「草月ミュージック・イン」のポスター、NHKテレビの『みんなのうた』の第1回作品となった「誰も知らない」(谷川俊太郎・作詞)のアニメーションなどを手がけたほか、雑誌に依頼されて何ページか誌面のレイアウトや編集を請け負うこともしばしばだった。初めて書籍を装丁したのもライトパブリシティ在籍中で、学生時代から知り合いだった詩人の寺山修司に頼まれ、彼と湯川れい子の編著『ジャズをたのしむ本』(1961年)の装丁を手がけた。他方で、『21頭の象』をきっかけに知り合った児童文学者の今江祥智の紹介で、童話の挿絵などの仕事を受ける一方、今江や詩人の高橋睦郎、SF作家の星新一などにお話を書いてもらい、和田が絵をつけた絵本を自腹であいついで出版した。
このころにはまた、日本デザインセンターにいた宇野亜喜良と横尾忠則とも、職場が同じ銀座ということもあり、よく一緒に昼食をとった。いずれも和田と同じくデザイナーとして仕事をしながら、イラストレーターでもあり、まだ日本では市民権を得ていなかったイラストレーターという職業の存在を世の中に知らせたいと夢を語り合っていた。
雑誌の歴史に画期をつくった『話の特集』
こうしてライトパブリシティに勤めながら広がった交友関係が、もっとも効果的に発揮されたのが、1965年暮れに創刊した月刊誌『話の特集』の仕事だった。同誌編集長の矢崎泰久からは、その前年にも、ホテル協会より持ちこまれた客室用の豪華雑誌の仕事で協力を求められたことがあった。このとき、和田がアートディレクターとしてビジュアル面を一手に担い、篠山紀信や横尾忠則らにも参加してもらってテスト版をつくったものの、結局、ホテル協会の賛同を得られず、創刊にまではいたらなかった。