きょう11月23日開催の文学フリマ東京41で発売するつもりで準備を進めながら、出店自体を見送ったため果たせなかった新刊のひとつ『「もしも」で読む長嶋茂雄(仮題)』から序文を、お詫びと予告かたがたこちらで公開します。
本書はタイトルにあるとおり、さまざまな「もしも」がつきまとう長嶋茂雄について、その野球人生であり得たかもしれない展開を、多くの資料をもとに私なりにシミュレーションしながらたどっていくという内容です。そこには、最近テレビCMでもとりあげられた長嶋のメジャーリーグ行きについて、どれぐらい実現の可能性があったのかというテーマも含まれます(全編の内容は下記の「仮目次」を参照)。
原稿はすでに400字詰め原稿用紙に換算して100枚をとうに超え、もうひと息で脱稿というところまで来ました。今回は残念ながら文学フリマの参加を見送ってしまい刊行にはいたりませんでしたが、12月31日のコミックマーケットへの出展が決まったので今後はそちらに照準を定め、予定していたほかの新刊とあわせ、鋭意準備を進めることにします。ご期待いただければ幸いです。
近藤正高『「もしも」で読む長嶋茂雄(仮題)』仮目次
- 序章 「長島なんて、いなかった」?
- 第1章 もしも長嶋が南海に入っていたら
- 第2章 もしも長嶋が天覧試合に出場していなかったら
- 第3章 もしも長嶋がメジャーリーガーになっていたら
- 第4章 もしも長嶋が引退してすぐ監督にならなかったら
- 第5章 もしも長嶋が巨人以外の球団で監督になっていたら
- 終章 もしも長嶋が巨人軍終身名誉監督にならなかったら
近藤正高『「もしも」で読む長嶋茂雄(仮題)』序章:「長島なんて、いなかった」?
2025年6月3日、日本のプロ野球の歴史に選手として、また監督としても大きな足跡を残した長嶋茂雄が89歳で亡くなった。
その数日後、スポーツライターの玉木正之が自身のブログにこんなことを記していた。2014年に長嶋の母校である立教大学で1年生の授業を担当した玉木は、ある日の授業で長嶋の話をしたところ、教室にいた学生が誰も彼のことを知らなくて愕然としたというのだ。
玉木はそのとき、「ミスタープロ野球だよ! 君たちの大先輩だよ! ホントに知らないの?」と訊くと、学生の一人から「最近の国民栄誉賞で松井(秀喜)選手の横にいた人のことですか?」と逆に訊き返されたといい、長嶋の死後に改めて振り返って《この時は強烈なショックのまま長嶋茂雄がどんな人だったかを話して授業を終えたが…立教の学生がその程度なら…若い人にとっての長嶋茂雄は既に忘れられたのか…?と思うほかなかった》と当該ブログを結んでいる(ウェブサイト「玉木正之ネットワーク Camerata di Tamaki」内のブログ「ナンヤラカンヤラ」2025年6月6日付)。
私はこのブログを読んでふと、ほかならぬ玉木の編著『完本・長嶋茂雄(玉木正之編著、ネスコ、1989年/文春文庫、1993年)のためにコピーライターの糸井重里が書いたコピーを思い出した。それはずばり「長島なんて、いなかった。」というものだったからだ*1。
同書に収められた糸井の制作メモには、いくつかの候補から彼自ら選んだくだんのコピーの下に、《いまの野球を見てると、長島なんてプロ野球の突然変異だったみたいに思えてくるものな。/読み手によって、いろんな思いが泡のようにわいてくるんじゃないか。/あの時代そのものが、うれしい楽しい、おもしろい、危うい、「夢」だったような気もしてくるぞ》との覚え書きが見える。
長島なんてそもそもいなかった、あれは夢だったんだ、という糸井の見立ては、現役時代の彼を知る世代には実感として共有しやすいものだったはずだ。同書の出た平成初めの1989年当時、長嶋はすでに現役引退から15年、引退とともに就いた巨人軍監督を事実上の解任に追い込まれてからも9年と、野球界を離れて久しかった。この間、他球団から監督就任を要望されながらも固辞し続けていた。他方でCM出演やオリンピック取材などでメディアにはあいかわらず登場し続けていたとはいえ、どこか中途半端な位置づけにあったことは否めない。
一方で、私のような現役当時を知らない世代(2025年現在、50歳前後の世代)には、当時の長嶋はむしろ「まだ幼かった長男の一茂を球場に忘れてきた」といった類いのエピソードをたくさん持つ“天然の人”というイメージが強かった。それもおそらくはビートたけしなど長嶋の現役時代を知るファンがネタにしたことで世に広まったところが大である*2。「現役時代のことは知らないけれど、ビートたけしが尊敬するほどだからすごい人なのだろう」というのが、1990年前後における当時10代~20代前半ぐらいの大方の若者の認識だったのではなかろうか(余談ながら、いまとなってはビートたけしその人が、若い世代からするとそのような位置づけになってしまっている気がする)。
その後、長嶋は1992年のシーズンオフに巨人の監督に再任し、球界に復帰する。第2期となる監督時代は、第1期には果たせなかった日本シリーズ制覇を1994年と2000年の2度果たすなど、常に注目の的であった。2001年に監督を勇退すると、巨人軍の終身名誉監督となる。さらに2004年のアテネオリンピックの野球での金メダル獲得を目指し、初めて全選手をプロから選出した日本代表チームを率い、アジア予選を3戦全勝で通過して五輪切符を手にする。だが、その矢先、脳梗塞で倒れる。闘病生活を余儀なくされた彼はまたしても社会的に“不在”の時期に入ったのである。
もちろん、球界ではあいかわらず存在感を示し、懸命にリハビリを続けながら再び表舞台に現れると、同じ境遇にある人たちを大いに励ますことになった。だが、冒頭に挙げた玉木正之の立教大学でのエピソードが示すとおり、世代が下がるごとに長嶋の業績どころかその存在自体を知る人が少なくなっていったのもまた事実だ。
長嶋茂雄を表す言葉として「記憶に残る選手」という常套句がある。もともとは彼のチームメイトであった王貞治の「記録に残る選手」とセットで、熱烈な長嶋ファンであるアナウンサーの徳光和夫が言い出して広まったものだという。長嶋には王の通算868本塁打のような図抜けた記録こそないけれども、ダイナミックなプレイやここ一番の勝負強さなど現役時代の活躍により人々の記憶に強烈に残っているという意味合いだ。しかし、そうだとすれば、長嶋を記憶する世代がいなくなれば、その記憶があとの世代へ継承されないかぎり彼は忘れ去られる運命にあるということになる。
いや、長嶋の存在が次代にきちんと継承されていないのはそもそも、彼をリアルタイムで見てきた世代がこれまで特権的に語ってきたせいではあるまいか。そのことはたとえば、岩川隆の著書『キミは長島を見たか』というタイトルに端的に表れているし、例の「記憶に残る選手」というフレーズにも、長嶋を記憶している世代の自負みたいなものが透けて見える。もちろん、スポーツや芸能は本質的に一回性のナマモノなので、リアルタイムで見た者が特権的に語るのは当然だし、次代へ伝えるためにも大切なことである。しかし、これまでの長嶋をめぐる言説は、こうした特権的な立場からの物言いにあまりにも縛られすぎてきたような気がしてならない。こうした言説では得てして、長嶋と同時代に日本で生きた人間ならばその存在を知らない人などいないかのごとく語られがちである。
そこで思い出すのは、長嶋の亡くなった翌日(2025年6月4日)、タレントの大竹まことが自身のラジオ番組で語っていたことだ。大竹は、死去を受けてメディアで大々的に長嶋がとりあげられるのを見ていて「世の中全部が関心持ってるのかなって思ってね」と切り出すと、王・長嶋はたしかにすごかったと認めつつも「女の人が『長嶋さーん』って言うのはあんまり聞かないなと思って」「昭和がずっと進んできて(引用者注:長嶋を賛美するような昭和からの空気がその後もずっと続いてきたという意味か)、やっぱりまだ男社会の影響の強い時代だったのかな」と指摘したのである。
長嶋に対する男女の認識の違いは、『毎日新聞』夕刊連載の森下裕美による四コママンガ「ウチの場合は」でも題材にされている(2025年6月10日付)。そこでは、主役である大門一家の父親・バンが長嶋が亡くなって淋しがるのに対し、その妻のキョウコは長嶋を最初に認識したのは野球アニメ(コマに描かれた長嶋の似顔絵の画風から察するに『侍ジャイアンツ』)で、それもてっきりフィクションの人物だと思い込んでいたというふうに対照的に描かれていた。
女性でも俳優の富士真奈美のように巨人ファンで長嶋について熱く語る人は昔からいないでもない。しかし、それはあくまで例外的なケースだろう。前掲の『完本・長嶋茂雄』の寄稿者からして全員が男性だった(唯一、草野進(しん)は女性華道家とされていたが、当時から“彼女”の正体が文芸・映画評論家でフランス文学者の蓮實重彦であることは公然の秘密であった)。これ以前に出た本でも、長嶋の現役末期から引退するまでの時期、さまざまな人から彼についての証言をとったスポーツ・ニッポン新聞社編『長島茂雄 百人の証言』(恒文社、1974年)でも、女性の証言者は母親のちよ(同書での表記は「千代」)、ルーキー時代の下宿先の大家、プロボウラーの中山りつ子の三人だけである。このことからも示されるとおり、長嶋語りが男性を中心になされてきたことはやはり否めまい。
このようにある特定の世代やジェンダーの枠内で語られてきた長嶋だが、それを何とかしてその外へと連れ出して語ることはできないか。そこで私が用いてみたいのは、長嶋の野球人生でたびたび訪れた転機について「もしも」という仮定のもと、ありえたかもしれない彼の別の選択、そしてそれによってもたらされたかもしれない人生、さらには球界や社会への影響を検討するという方法である。
思えば、長嶋ほどその人生にさまざまな「もしも」がつきまとい、人々の想像を掻き立ててきた野球人もいない。それは彼が立教大学を卒業後、南海ホークス入りが有力視されながら結局巨人を選んだところから始まっている。時代は下って、1980年に巨人の監督をやめてから再びその座に復帰するまで10年あまりのあいだには、果たして彼は巨人に戻るのか、それとも別の球団の監督になるのか、さまざまな臆測が飛び交った。最晩年にいたっても、2025年春に放送された警備保障会社のセコムのテレビCMでは、現役メジャーリーガーの大谷翔平がピッチャーマウンドで待ち構えていると、CGで再現された現役時代の長嶋が登場し、バッターボックスに立つさまが描かれた。そこで大谷の声で「60年前、一人の日本人がアメリカからじつは声がかかっていた。いま、僕はその場所で挑み続けています」とのナレーションがかぶさっていたとおり、このCMは、かつて長嶋がメジャーリーグから誘われていたという事実を踏まえたものだ。果たして本当に長嶋がアメリカに渡っていたとしたらどうなっていたのだろうか?
――という具合に、この方法を使えば、長嶋茂雄という人物が何を成し、あるいは何を成さなかったかが明確になり、彼が持ち合わせていた可能性とともに限界もまた見えてくるはずである。そしてそれは彼の存在を次代へと語り継ぐためにも欠かせない作業だと思う。これから私が書こうとしているのは、そのささやかな試みである。
*1:糸井重里のコピーでは「長島」表記が採用されているが、本書では以下の理由から、原則として「長嶋」で統一したい。長嶋が2021年に文化勲章を受章したときの内閣府の受章者リストの彼の項にはまず「長島茂雄」とあり、その下にカッコでくくって「長嶋茂雄」と記されていた。同リストでは、同年に受章した歌舞伎の尾上菊五郎(七代目)とバレエの牧阿佐美についてそれぞれ本名(戸籍名)である寺嶋秀幸、福田阿佐美が先に記され、芸名はやはりカッコ内に書かれている。ここから長嶋茂雄の戸籍上の姓は「長島」だったとわかる。/では、いつごろから「長嶋」表記が使われるようになったのか? 私はてっきり現役時代は「長島」だったのがある時期から「長嶋」に改められたものと思い込んでいたが、調べてみると必ずしもそうではない。現役時代でも新聞での表記は各紙ごとに違い、1959年の天覧試合の記事では『読売』『朝日』は「長島」だが、『毎日』は「長嶋」を採用していた。書籍のタイトルにも『若き王者長嶋茂雄』(1958年)や『栄光の背番号3 燃える男―長嶋茂雄物語―』(1972年)のように「長嶋」としたものが散見される。ただ、『毎日』も1974年の現役引退のころには「長島」を採用している。長嶋自身も引退時に『読売』に寄せた手記には「長島」と自署しており、管見の限りでは、1980年に彼が巨人軍監督を辞めて以降もしばらくはメディアでは「長島」と表記されるのが一般的だったと思われる。ここには新聞や放送などでは使える漢字が制限され、原則として常用漢字や人名用漢字以外は使えないため、「嶋」ではなく常用漢字である「島」を用いざるをえなかったという事情もあるのかもしれない(ちなみに「嶋」が人名用漢字に採用されたのは意外に最近で、2004年である)。しかし、1993年の巨人監督再任を機に本人の意向もあって「長嶋」に統一されていく。ちなみに長嶋の長男でプロ野球選手からタレントに転じた一茂は「長嶋」、次女でキャスターの三奈は「長島」の表記でそれぞれ活動している。
*2:たけしがかつて著書で語っていた話に、ゴルフ場で地元の人から土産に3メートルほどもある長芋をもらった長嶋は、これを土から折らないまま掘り出すのがいかに大変だったかさんざん聞かされたにもかかわらず、御礼を言って受け取るなり長芋をボキボキと折って車のトランクに入れ、相手を唖然とさせた……というのがあったっけ。たけしいわく《そういう気配りなんか全くないところが天才的に凄いんだよ》(『だから私は嫌われる』新潮社、1991年)。もちろん長嶋に悪意はまったくなかったことは言うまでもない。