Culture Vulture

ライター・近藤正高のブログ

(4)そして、迎賓館へ

 赤坂離宮が迎賓館として改修することが正式に決まったのは、1967年の佐藤(栄作)内閣の閣議においてだった。それ以前より、国際関係の緊密化にともない、外国から賓客が訪日する機会も増えていたことから、それに対応するべく迎賓館建設が検討されていた*1
 改修にあたっては、当時の建築界の大御所・村野藤吾が設計に協力している。村野はこの仕事を引き受けるにあたり(建設省からの依頼だったという)もっとも重視したのは、居住施設がほとんど欠如したこの「宮殿」を住むためのものにする、ということだった。そして、そこにこそ改修工事の困難さがあるとして次のように記している。

 たとえばフランスではベルサイユ宮殿は政務に、トリアノン宮殿は主として住的性質に区別されています。またストックホルムの王宮は真ん中を仕切って、一方が宮殿として天井も高く、装飾も立派で政治向きにできており、他方は天井も低く、装飾も控えめで、住むための空間――住宅風になっています。宮殿と住宅の明確な空間部分ができております。しかし迎賓館は宮殿、すなわち、公的性質の用途は兼ねるとともに、国賓の居住にも供しうるものでなくてはなりません。ゆっくり、くつろいで、来日の目的成り、招請された目的を達しうる施設でなければなりません。そのために、この迎賓館は、多少“ホームライク”なものになると思っております。国賓が宿泊される際、自分たちの王宮や公邸の住居におられるような空間になると思います。しかし一方において、この建物は文化財的なものに準ずる名建築であり、宮殿建築としての内部空間の変更は各種の構造的制約のために、最小限度にとどめなければならず、そのために住居専用部分の住居空間の構成を工夫することは、必ずしも容易ではないと思います。
  村野藤吾「迎賓館の改修に思う」(『公共建築』1972年12月号初出、『村野藤吾著作集』鹿島出版会、2008年)

 赤坂離宮を迎賓館へと改修するためには各種配線、配管、ダクトといった近代設備を張りめぐらす必要がある。しかしその工事は文字どおり厚い壁に阻まれ難航した。というのも、赤坂離宮の壁は耐震のため厚くつくられ(もっとも厚いところで1.8メートル、もっとも薄いところでも56センチあった)、その内部も鉄骨やレンガで補強されており、とても頑丈にできていたからである。
 1968年末に始まった改修工事は5年3ヶ月の時間、総額104億円におよぶ経費をかけて1974年4月に竣工した。同年11月、史上初めて現職のアメリカ大統領として来日したフォードが迎賓館で迎えられた国賓第1号となる。
 赤坂離宮は、本来の目的であった皇太子の住居という役割はほとんど果たさなかったが、迎賓館という外交の舞台として現在まで35年にわたって立派にその務めを担ってきた。昨年末には迎賓館となって以来初めてとなる全面的な改修工事を終えている。そして今年、旧東宮御所として竣工してから100年を迎え、そのタイミングでの国宝指定となった。それは建築作品としての価値もさることながら、日本の近現代史の反映であり、いまなお国家を象徴する存在であるとあらためて認められたということなのだろう。

*1:赤坂離宮の改修が完成する以前は、旧朝香宮邸=現在の東京都庭園美術館が迎賓館として使われてきた。そもそも天皇国賓を迎える皇居宮殿からして、戦災で焼失したため1968年に新宮殿が再建されるまでは宮内庁の庁舎が仮宮殿として用いられていた。