Culture Vulture

ライター・近藤正高のブログ

「一故人」全記事リスト

ウェブサイト「cakes(ケイクス)」が2012年に開設されて以来、2022年にクローズするまで10年にわたって私が連載した「一故人」の全記事のタイトルと公開日をここにリストアップしておきます。そのときどきで亡くなった著名人の生涯を振り返った同連載は、2017年4月にスモール出版より単行本化されました。リスト中、単行本に収録した記事は「収」、未収録の記事は「未」で示しています。

2012年

タイトル 公開日 単行本収録
浜田幸一――不器用な暴れん坊のメディア遊泳術 9月11日
ニール・アームストロング――月着陸30年を経て明かされた真実 10月1日
樋口廣太郎――「聞くこと」から始めたアサヒビール再建 10月26日
春日野八千代――宝塚男役という「虚構」を生きた80年 11月2日
ノロドム・シアヌーク――「気まぐれ殿下」がカンボジアにもたらしたもの 11月30日
宮史郎――女の悲哀を歌っても醸し出す「道化の味」 12月11日
中村勘三郎(十八代目)――歌舞伎のタブーぎりぎりを疾走する 12月14日
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2025年

2024年2026年

『「もしも」で読む長嶋茂雄(仮題)』試し読み

 きょう11月23日開催の文学フリマ東京41で発売するつもりで準備を進めながら、出店自体を見送ったため果たせなかった新刊のひとつ『「もしも」で読む長嶋茂雄(仮題)』から序文を、お詫びと予告かたがたこちらで公開します。

 本書はタイトルにあるとおり、さまざまな「もしも」がつきまとう長嶋茂雄について、その野球人生であり得たかもしれない展開を、多くの資料をもとに私なりにシミュレーションしながらたどっていくという内容です。そこには、最近テレビCMでもとりあげられた長嶋のメジャーリーグ行きについて、どれぐらい実現の可能性があったのかというテーマも含まれます(全編の内容は下記の「仮目次」を参照)。

 原稿はすでに400字詰め原稿用紙に換算して100枚をとうに超え、もうひと息で脱稿というところまで来ました。今回は残念ながら文学フリマの参加を見送ってしまい刊行にはいたりませんでしたが、12月31日のコミックマーケットへの出展が決まったので今後はそちらに照準を定め、予定していたほかの新刊とあわせ、鋭意準備を進めることにします。ご期待いただければ幸いです。

近藤正高『「もしも」で読む長嶋茂雄(仮題)』仮目次

  • 序章 「長島なんて、いなかった」?
  • 第1章 もしも長嶋が南海に入っていたら
  • 第2章 もしも長嶋が天覧試合に出場していなかったら
  • 第3章 もしも長嶋がメジャーリーガーになっていたら
  • 第4章 もしも長嶋が引退してすぐ監督にならなかったら
  • 第5章 もしも長嶋が巨人以外の球団で監督になっていたら
  • 終章 もしも長嶋が巨人軍終身名誉監督にならなかったら

近藤正高『「もしも」で読む長嶋茂雄(仮題)』序章:「長島なんて、いなかった」?

 2025年6月3日、日本のプロ野球の歴史に選手として、また監督としても大きな足跡を残した長嶋茂雄が89歳で亡くなった。

 その数日後、スポーツライター玉木正之が自身のブログにこんなことを記していた。2014年に長嶋の母校である立教大学で1年生の授業を担当した玉木は、ある日の授業で長嶋の話をしたところ、教室にいた学生が誰も彼のことを知らなくて愕然としたというのだ。

 玉木はそのとき、「ミスタープロ野球だよ! 君たちの大先輩だよ! ホントに知らないの?」と訊くと、学生の一人から「最近の国民栄誉賞で松井(秀喜)選手の横にいた人のことですか?」と逆に訊き返されたといい、長嶋の死後に改めて振り返って《この時は強烈なショックのまま長嶋茂雄がどんな人だったかを話して授業を終えたが…立教の学生がその程度なら…若い人にとっての長嶋茂雄は既に忘れられたのか…?と思うほかなかった》と当該ブログを結んでいる(ウェブサイト「玉木正之ネットワーク Camerata di Tamaki」内のブログ「ナンヤラカンヤラ」2025年6月6日付)。

 私はこのブログを読んでふと、ほかならぬ玉木の編著『完本・長嶋茂雄玉木正之編著、ネスコ、1989年/文春文庫、1993年)のためにコピーライターの糸井重里が書いたコピーを思い出した。それはずばり「長島なんて、いなかった。」というものだったからだ*1

 同書に収められた糸井の制作メモには、いくつかの候補から彼自ら選んだくだんのコピーの下に、《いまの野球を見てると、長島なんてプロ野球の突然変異だったみたいに思えてくるものな。/読み手によって、いろんな思いが泡のようにわいてくるんじゃないか。/あの時代そのものが、うれしい楽しい、おもしろい、危うい、「夢」だったような気もしてくるぞ》との覚え書きが見える。

 長島なんてそもそもいなかった、あれは夢だったんだ、という糸井の見立ては、現役時代の彼を知る世代には実感として共有しやすいものだったはずだ。同書の出た平成初めの1989年当時、長嶋はすでに現役引退から15年、引退とともに就いた巨人軍監督を事実上の解任に追い込まれてからも9年と、野球界を離れて久しかった。この間、他球団から監督就任を要望されながらも固辞し続けていた。他方でCM出演やオリンピック取材などでメディアにはあいかわらず登場し続けていたとはいえ、どこか中途半端な位置づけにあったことは否めない。

*1:糸井重里のコピーでは「長島」表記が採用されているが、本書では以下の理由から、原則として「長嶋」で統一したい。長嶋が2021年に文化勲章を受章したときの内閣府の受章者リストの彼の項にはまず「長島茂雄」とあり、その下にカッコでくくって「長嶋茂雄」と記されていた。同リストでは、同年に受章した歌舞伎の尾上菊五郎(七代目)とバレエの牧阿佐美についてそれぞれ本名(戸籍名)である寺嶋秀幸、福田阿佐美が先に記され、芸名はやはりカッコ内に書かれている。ここから長嶋茂雄の戸籍上の姓は「長島」だったとわかる。/では、いつごろから「長嶋」表記が使われるようになったのか? 私はてっきり現役時代は「長島」だったのがある時期から「長嶋」に改められたものと思い込んでいたが、調べてみると必ずしもそうではない。現役時代でも新聞での表記は各紙ごとに違い、1959年の天覧試合の記事では『読売』『朝日』は「長島」だが、『毎日』は「長嶋」を採用していた。書籍のタイトルにも『若き王者長嶋茂雄』(1958年)や『栄光の背番号3 燃える男―長嶋茂雄物語―』(1972年)のように「長嶋」としたものが散見される。ただ、『毎日』も1974年の現役引退のころには「長島」を採用している。長嶋自身も引退時に『読売』に寄せた手記には「長島」と自署しており、管見の限りでは、1980年に彼が巨人軍監督を辞めて以降もしばらくはメディアでは「長島」と表記されるのが一般的だったと思われる。ここには新聞や放送などでは使える漢字が制限され、原則として常用漢字人名用漢字以外は使えないため、「嶋」ではなく常用漢字である「島」を用いざるをえなかったという事情もあるのかもしれない(ちなみに「嶋」が人名用漢字に採用されたのは意外に最近で、2004年である)。しかし、1993年の巨人監督再任を機に本人の意向もあって「長嶋」に統一されていく。ちなみに長嶋の長男でプロ野球選手からタレントに転じた一茂は「長嶋」、次女でキャスターの三奈は「長島」の表記でそれぞれ活動している。

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文学フリマ東京41出店見送りのお知らせ

今週日曜、11月23日に迫った文学フリマ東京に「Culture Vulture」として出店予定でしたが、突然ではありますが今回は出店を見送ることにしました。今月に入って仕事が立て込んでおり、一日時間をとるのがどうも難しそうだと判断したためです。

すでにWebカタログで告知したとおり*1、今回はいくつか新刊を予定し、準備もかなり進めていただけに、見送らざるを得なくなってしまい私としても大変残念です。何より、カタログを見て「気になる」とチェックしていただいたり、楽しみにしてくださっていた方々にこの場を通じてお詫び申し上げます。

このままでは申し訳ないので、開催前日にも、販売予定だった新刊から、予告も兼ねて「まえがき」などをPDFか何らかの形でこちらかブログに期間限定でアップするつもりでおります。また、来月末のコミックマーケットにも出展を申し込んでおり、もし参加できれば、新刊はそちらで販売したいと考えています。

今回は残念なお知らせとなり、大変心苦しくはありますが、何卒ご了承くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

近藤正高

*1:「ライター・近藤正高のサークルです。新刊として、昨年好評だった"調べ方"本の続刊『国立国会図書館デジタルコレクション活用術』ほか『坂本龍一大阪万博』『「もしも」で読む長嶋茂雄』(いずれも仮題)などを予定」

2024年

2023年2025年

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モハメド・アリ――アリが蟻に自分を重ね合わせたとき(初出:「cakes」2016年6月24日)

 1974年10月30日、アフリカ中西部のザイール(現・コンゴ民主共和国)の首都キンシャサで行われたボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチで、当時の王者ジョージ・フォアマンモハメド・アリが挑戦して勝利を収め、その7年前にベトナム戦争に反対して徴兵を拒否したために剥奪された王座を奪還しました。「キンシャサの奇跡」と呼ばれるこの歴史的な試合からきょうでちょうど50年ということで、アリが2016年に6月に亡くなったあとにウェブサイト「cakes」の拙連載「一故人」で彼の人生を顧みた回を再公開します。

対戦相手への挑発はプロレスが手本だった

《俺、俺たち(me,we)》

 これは、プロボクシングの元世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリ(2016年6月3日没、74歳)が即興でつくった詩だ。アメリカのジャーナリスト、ジョージ・プリンプトンが“英語で一番短い詩”と評するこの詩は、アリがハーバード大学の卒業式でスピーチを行なった際に、学生から求められてつくったものだという(映画『モハメド・アリ かけがえのない日々 [DVD]』)。年代ははっきりしないが、おそらく彼がすでに引退した1981年以降、パーキンソン症候群の治療を続けていたころと思われる。

 即興詩はアリの得意とするところだった。そのもっとも有名な一節は、「蝶のように舞い、蜂のように刺す(Float like a butterfly,Sting like a bee)」だろう(なおFloatは厳密には「舞う」というよりも「漂う」というニュアンスに近いようだ)。これは1964年、アリが世界ヘビー級チャンピオンだったソニー・リストンに挑戦する直前、自分のボクシングを讃えてつくったものだ。まだ本名のカシアス・クレイを名乗っていた彼は、まさに蝶が漂うように、敵のパンチを巧妙に避けながらスピーディーにリング上を動き回り、そして相手に隙を見つけるやいなや蜂が刺すように攻撃した。リストンにもこうして勝利し、初めて王座を手にしたのである。

 アリは試合前、口をきわめて対戦相手を罵り、挑発することでも知られた。前出のリストンとの試合前には、記者たちを前にこんな詩を口にしている。

《(前略)さあ、クレイはノックアウトパンチをくり出すぜ(中略)パンチが決まって、熊公は リングからぶっ飛び上がるぜ リストンはなおもぐんぐん上昇し レフェリーはカウントできずに しかめっ面だぜ ソニーはなかなか落ちてこないぜ もうリストンの姿は見えねえ 観客は肝をつぶして大騒ぎだが レーダー基地がやつの姿をとらえるぜ 大西洋の上空のどこかにいるんだ(後略)》(トマス・ハウザー『モハメド・アリ: その生と時代 (シリーズ・ザ・スポーツノンフィクション 14)』)

 大言壮語ともいえるこうした物言いは、じつは彼なりの演出であり、元はといえばプロレスを手本としていた。当時のトレーナーによれば、アリはプロになって2年目の1961年、試合になかなか客が集まらないので、プロモーターから「君の名前を売らなければだめだ」と言われ、プロレスラーのゴージャス・ジョージの試合を見て参考にするよう勧められたという。ゴージャスはリング上では派手に立ち回っていたのに、試合後の更衣室では一転、明敏で知的な人柄を見せてアリたちを驚かせた。そのときのゴージャスの教えは、「この商売には大げさな身振りはしかたがない。観客には俺が大嫌いだという者もいる。それでいいんだ。とにかくみんな俺の名前を覚えてくれるから」というものだったという(アンジェロ・ダンディー『勝つことを知った男: モハメド・アリを育てた名トレーナー』)。

 アリがスーパースターにのしあがったのは、圧倒的な強さばかりでなく、天性の詩の才能、さらにプロレスから学んだショーアップ術によるところも大きい。それらは、テレビが普及し、試合会場の観客ばかりか衛星中継を通じて世界中の人が観戦するようになった時代にあって、スターになるのに欠かせない要素であったともいえる。

数々の伝説に彩られた人生

 モハメド・アリ、旧名カシアス・クレイは1942年1月、アメリカ・ケンタッキー州ルイビルに生まれた。ボクシングとの出会いは12歳のとき。自転車を盗まれて、訴えに行った警官がたまたまボクシングを教えていたことから、ジム通いを始めたと伝えられる。

 その後のアリの歩みは、多くの伝説で彩られている。1960年、18歳で出場したローマオリンピックのライトヘビー級で金メダルを獲得、アリはそのメダルをしばらく肌身離さず持ち歩いていたが、ある日、レストランに入ったところ店主から「黒人に食わせるものはない」と注文を拒否されたことに激怒して、メダルは川へ投げ捨てたという。プロに転向したのはその前後のことだ。1964年に先述のとおりソニー・リストンを倒してチャンピオンになった直後には、キリスト教からイスラム教に改宗し、カシアス・X・クレイ、さらにモハメド・アリと改名した。

 1965年、アリは徴兵テストに合格する。ちょうどアメリカの介入したベトナム戦争が激化していたころで、戦線に送られる米兵には黒人の割合が極端に多かった。彼は翌年4月、「俺はベトコンと戦う気はない。やつらに黒ん坊呼ばわりされたことなど一度もないからだ」と徴兵を拒否する(ベトコンとは、当時アメリカが戦っていた南ベトナム解放民族戦線の俗称)。この行動に対し非難や脅迫があいつぎ、あげく67年4月にはニューヨーク州のボクシング・コミッションによってライセンスが停止され、それを受けて世界ボクシング協会WBA)もタイトルの剥奪を決める。同年には兵役忌避により懲役5年の実刑判決が下され、これを不服とするアリは裁判闘争を続けた。米最高裁実刑判決を破棄したのは71年6月のことだ。

 この間、アリのリング復帰のためプロモーターらが全米を奔走する。ほとんどの都市で試合開催を拒否されたが、やっと1970年10月、ジョージア州アトランタで復帰戦が行なわれる。相手は世界ヘビー級3位の白人ボクサー、ジェリー・クォーリーで、3ラウンドにテクニカルノックアウトにより勝利を収めた。アトランタには保守的なコミッションがなく、市民の理解に加え地元選出の黒人上院議員の支援もあって、試合を開催することができたのだ。

 1971年3月には、アリは自分の追放中にヘビー級世界王者となっていたジョー・フレイジャーに挑戦するも、プロ入り後初めて敗北を喫する。フレイジャーはその後、73年にジョージ・フォアマンにタイトルを奪われた。こうしてアリは、チャンピオンに返り咲くため今度はフォアマンに挑むことになる。

「打たれない」から「打たれてもかまわない」ボクシングへ

 フォアマンとの決戦の舞台となったのは、ザイール(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサである。当時のザイール大統領、モブツは自ら変更した国の名を世界中に宣伝するため、1000万ドル(約3億円)というプロスポーツ史上空前のファイトマネーを支払うこともいとわなかった。もともとアリはファイトマネーとして500万ドルを要求していたし、またアメリカの黒人の故郷であるアフリカでの開催は、黒人の自立を訴える彼の主張にも合致した。

 キンシャサの戦いは、ジェームズ・ブラウンB.B.キングなどアメリカの黒人ミュージシャンによるコンサートがあわせて開催されるなど華々しいものとなった。試合は現地到着後、フォアマンが練習中にけがをしたためいったん延期されたのち、1974年10月30日に行なわれた。開始が早朝となったのは、全米のテレビのゴールデンタイムに合わせたためだ。

 事前の下馬評では、フォアマン有利と見る向きが圧倒的に多かった。何しろアリはボクシング界から3年半も追放されており、復帰後の対フレイジャー戦で往年のフットワークが見られなかったうえ、続く72年の対ノートン戦ではあごを砕かれて入院までしていたからだ。これに対し、当時25歳のフォアマンは破壊的なパンチ力でそれまで40戦全勝、うちKO勝ちはフレイジャーから王座を奪った試合を含め37回と最盛期にあった。アリのあごを打ち砕いたノートンも、たった2ラウンドで破っている。

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「風刺漫画なんかいらない?」転載にあたって――あらかじめ書かれた追悼文よ

 先月最後の月曜、9月30日にイラストレーターの山藤章二が亡くなった。その訃報に接し、ほぼ1年前、私が文学フリマで頒布した個人誌に書き下ろした風刺画に関する文章のなかで山藤氏についてかなりの文字数を費やして言及していたことを思い出した。

週刊朝日』連載の「山藤章二のブラック=アングル」に代表される彼の仕事を日本の風刺画の系譜のなかに位置づけてみたその拙文を改めて読み返すと、最後のまとめ方といい、亡くなる前年にして山藤先生を追悼してしまった……という感がある。せっかくなので今回、転載することにした。

 本文中で言及した「風の会」の風刺画が引き金となり起こってしまった事件については、山藤が亡くなった翌日深夜に、爆笑問題太田光が自身のラジオ番組で具体的なことは伏せながらも言及していた。そのとき太田が言っていたように、あのような事件があったのちも風刺画をやめなかった山藤の姿勢は改めて評価されるべきだと思う(たとえ事件の発端となった作品自体には問題があったにせよ)。

 それにしても、『朝日新聞』の訃報(9月30日17時46分配信)にコメントを寄せたやくみつるが、SNSなどが普及する昨今、風刺画に対する風当たりが強くなっているとして《山藤さんにはまだまだ先頭に立って、今日の混迷した状況を鋭く批評して欲しかった》と述べていたのにはあきれた。何を甘えたことを言っているのだろうか。そもそも、山藤は「ブラック=アングル」が2021年に終了した時点で、第一線からほぼ退いた状態だったというのに。コメントをとるなら、山藤が同業の和田誠と似顔絵が一番上手いのはあの人だと意見が一致した針すなお――朝日の政治面で一コマ漫画も描いている――か、同い年でいまなお週刊誌連載を続けている東海林さだおにしてほしかった(両氏ともすでにどこかでコメントを出していたりするのだろうか)。

 それにしても、山藤がライバルと見なし、互いに意識し合う存在であった和田誠が亡くなって5年後の命日のちょうど1週間前に亡くなったというのが、また因縁めいたものを感じてしまう。

 余談ながら、先日、伊藤若冲円山応挙がそれぞれ左隻と右隻を描いた屏風絵が発見されたというニュースがあったが、もし、冥界で山藤章二が二人で分担して屏風絵を描くとして、相手は誰がふさわしいのだろうか……てなことをちょっと考えた。

 やはり和田誠がもっとも適役なのだろうが、案外、山藤と同じく今年亡くなった高橋春男が善戦しそうな気もする。ある時期、「ブラック=アングル」のライバルは、和田の『週刊文春』の表紙よりも『サンデー毎日』での高橋の連載「大日本中流小市民」だったことは、知っている人には同意してもらえるはずだ。1988年の春先に坂本龍一アカデミー賞岡本綾子が米国女子ツアー(だったかな?)の大会で優勝したときには、両者ともそれを題材にしながら、高橋はメインにその二人(に加えて東京ドームコンサートで復活した美空ひばり)ではなく、阪神の監督に復帰してシーズン初勝利を果たした村山実を持ってくるというひねり技を見せた。ダリが死んだときには、山藤はこれをどう料理するのか高橋が予想してイラストレーションを描いたこともあったっけ。

 山藤章二といえば、転載した拙文でもその名前をあげた劇作家の飯沢匡は、山藤が若き日にその才能を見出してもらった恩人である。山藤が名乗った「戯れ絵師」も、もともとは飯沢から一勇斎(歌川)国芳を教えられて衝撃を受け、「戯れ絵」という呼び名だけこっそり拝借したのだという(『山藤章二 戯画街道』美術出版社、1980年)。飯沢は黒柳徹子NHK放送劇団で俳優を始めたころの恩師でもあるが、よくよく若い才能を世に送り出す名伯楽だったのだと思う。いまではほとんど顧みられることがないけれど、国会図書館デジタルコレクションではその著書がいくつか閲覧できる。『飯沢匡のもの言いモノロオグ』というエッセイ集など、半世紀近く前のものにもかかわらず、現在に通じる内容の文章もあったりしてなかなか面白い。

 かように山藤先生について書き出すと、あれこれ話が広がってしまって止まらない。今回はひとまずこのへんでやめて、転載は次のエントリーで!

風刺漫画なんかいらない?(初出:『近藤正高 書き下ろしエッセイ集 ぐちは云うまい こぼすまい』其の二、2023年11月)

 2021年の東京オリンピック直前、『毎日新聞』経済面のよこたしぎの一コマ漫画「経世済民術」(2021年6月5日付朝刊掲載分)が、ちょっとした“炎上”になった。

 折しもコロナ禍の最中であり、日本国内では、国際オリンピック委員会IOC)は巨額の放映権料などを得るため五輪を強行しようとしているなどといった批判も強かった。IOCのバッハ会長が「ぼったくり男爵」などと呼ばれたのもこの頃である。よこたは漫画のなかでIOCの首脳らを、同時期に亡くなった絵本作家エリック・カールの代表作『はらぺこあおむし』になぞらえ、利権をむさぼる青虫の姿で描いてみせたのだった。

よこたしぎ「経世済民術」(『毎日新聞』2021年6月5日付朝刊掲載分。原画はカラー)

 しかし、これに『はらぺこあおむし』の版元である偕成社の社長・今村正樹が同社ホームページ上で批判した(「風刺漫画のあり方について」、2021年6月7日配信)。

 そこで今村は、《風刺の意図は明らかで、その意見については表現の自由の点から異議を申し立てる筋合いではありませんが》と断りながらも、例の漫画には強い違和感を覚えざるをえなかったとして、《『はらぺこあおむし』の楽しさは、あおむしのどこまでも健康的な食欲と、それに共感する子どもたち自身の「食べたい、成長したい」という欲求にあると思っています。金銭的な利権への欲望を風刺するにはまったく不適当と言わざるを得ません》《風刺は引用する作品全体の意味を理解したうえでこそ力をもつのだと思います。今回の風刺漫画は作者と紙面に載せた編集者双方の不勉強、センスの無さを露呈したものでした》と厳しく指摘した。

 おそらく、版元の社長が声を上げなければ、くだんの漫画はとくに注目されることもないまま忘れ去られていったはずである。しかし、批判が掲載されるやSNSなどで反響を呼ぶ。『毎日新聞』にもさまざまな意見が寄せられたといい、2週間後の同紙面では一連の批判に対する回答が掲載された。そこでは《今回の作品は肥大化するIOCを皮肉る風刺画で、絵本や作者をおとしめる意図はありませんでしたが、絵本作りに携わった方々や絵本の読者の皆さんを不快にさせたとすれば本意ではありません。皆さんからいただいたさまざまなご意見を真摯に受け止め、今後も洗練された風刺画をお届けできるよう紙面作りに努めてまいります》と釈明されていた(『毎日新聞』2021年6月19日付朝刊)。風刺漫画の趣旨を文章で説明しているのが何とも野暮だが、まあ意図を伝えるためには致し方ないし、新聞社としては妥当な対処であったとは思う。ただ、作者のよこた自身のコメントがなかったのが気になるが。

 今村正樹が引用された作品の版元として批判の声を上げたことは、風刺画のあり方について改めて議論を促すうえで大いに意義があったと思う。ただ、「風刺は引用する作品全体の意味を理解したうえでこそ力をもつもの」という考えには、それは一面では事実なのかもしれないが、どうも私としては全面的には受け入れがたい。たとえ作品の意味を完全に理解せずとも、結果的に見事な風刺になっている漫画は往々にしてあるような気がするし、反対に、本質をつかんだうえで絵にしても、どうも説明的になって風刺としては失敗ということもあるだろうからだ。

 仮に私が、くだんの『はらぺこあおむし』の漫画を元の絵本の内容を踏まえたうえで直すとするなら、腹いっぱい食べたあおむしがさなぎになって羽化してみれば、絵本ではきれいな蝶になるはずが、欲にまみれのバッハ会長の顔をした蝶が現れる……というようなものになるだろうか。やはりどうも説明的で、出来の悪いパロディにしかならない。

 私が冒頭にあげた、よこたしぎの漫画をめぐる反応で気になったのは、版元社長の批判以上に、その尻馬に乗ったかのようなSNSなどでのコメントだった。なかには「偲んで描く内容ではけっしてない」というのもあったらしいが、きっと、こういう人は日頃風刺画というものにほとんど接してこなかったのだろう。

 それにしても、よこたしぎの漫画をめぐる騒ぎを見ると、『週刊朝日』で45年にわたり連載された山藤章二の一コマ漫画「山藤章二のブラック=アングル」はうまくやっていたとつくづく思う。たとえば、連載が始まった1976年、小説家の武者小路実篤が亡くなったときには、この年発覚したロッキード疑獄にからめて、疑惑の焦点となっていた田中角栄小佐野賢治児玉誉士夫の顔を、生前の実篤が色紙に好んで描いた野菜になぞらえて描き、そこに「仲良き事は美しき哉」の文句を添えた。小佐野が国会での証人喚問で田中角栄との関係を問われ「刎頸の友」と答えたことに対する風刺である。

 山藤が周到なのは、そこに自らの分身であるブラック氏(サングラスをかけた髭面の男)を「贋作先生」と称し、「真理先生」たる実篤に怒られている姿を描き込んだことである。「真理先生」とはもちろん、実篤の代表作の題名からとられている。あらかじめこれは「贋作」だと断り、さらに作者に怒られる作者の分身を描くことで批判をかわしたともいえる。面白いのは、それでありながら、この漫画は実篤の楽天的な人生観のうさんくささをからかっているようにも解釈できることだ。山藤はまさに実篤の作品の本質を突いたのである。

山藤章二のブラック=アングル」(『週刊朝日』1976年4月30日号掲載分、『山藤章二のブラック=アングル』朝日新聞社、1978年所収。原画はカラー)

 同じことは編集者・コラムニストの天野祐吉も指摘しており、山藤との対談で直接褒めている。だが、本人に言わせると、《ぼくとしては、そこまで考えていたわけじゃないんですが(笑)、そういうことはままありますね。深読みしてくれる人がいる。あいつの描くものだから、何か隠し味があるに違いない、なんて思ってくれる人がいるんです》ということらしい(天野祐吉『広告の本』筑摩書房、1983年)。山藤の発言を額面どおりに受け取るなら、まさに先に私が書いた「たとえ作品の意味を完全に理解せずとも、結果的に風刺になっている」好例といえる。

 もっとも、山藤が意図せずして対象の本質を突くことができたのは、その画力に拠るところが大きい。武者小路実篤の色紙のパロディも、実物の描写そっくりだからこそ説得力を持ち、読者に思わず深読みさせてしまったのだろう。よこたしぎも、エリック・カールの原色のけばけばしいタッチを忠実に模写して同じ漫画を描いていたのなら、あれほど批判されることもなかったかもしれない。

 ここで思い出したのだが、山藤章二は自分の作品が発端となって、ネット炎上どころではない、もっと大きな事件を経験していたのだった。それは1992年に発表された「ブラック=アングル」の一作で、ちょうどそのころ参院選比例区に10名の候補を立てた政治団体風の会」を題材としたものである。そこでは、選挙事務所の看板の注文を受けたブラック氏が、党名を誤って「虱(しらみ)の会」と書いてしまい、党関係者らしきヤクザ風の男たちに「コラッ なめとんのか! わしら、アレか!!」などと責められる様子が描かれていた。画面の端には、「これはフィクションで、実在の党名とはカンケイありません」と一応断りが入れられていたとはいえ、選挙期間の最中ということもあり、『週刊朝日』7月24日号に掲載されるや、党代表で新右翼の運動家である野村秋介が掲載誌の版元である朝日新聞社に抗議を行った。

 山藤の作品としてはけっして出来がいいとは言いがたい。苦しまぎれという気さえする。「風の会」が参院選で擁立した候補者には漫才師の横山やすしもいたのだから、先に参院議員となっていた相方の西川きよしとそろって当選した場合の漫才予想など、得意とする調理法を選んだほうがよっぽど面白いものができたのではないか。

 だいたい、野村秋介のこれまでの活動をそれなりに知っていさえすれば、ヤクザ風の男たちが因縁をつけてくるなんて絵にはならなかったはずである。野村はそうした暴力団まがいの旧来の右翼に一貫して批判的な立場をとり、自らの活動とは一線を画してきたからだ。少なくともこの作品に限っていえば、先に引用した今村正樹の「風刺は引用する作品全体(この場合は人物)の意味を理解したうえでこそ力をもつもの」との指摘がそっくり当てはまる。

 野村は朝日に抗議を行った直後、山藤にも手紙を送ると、すぐに詫びる内容の返事が届き、「私個人としては、貴殿の心情、諒としました」(野村から山藤宛ての返信)と受け入れたという。朝日側も《このブラック・アングルは選挙期間中の公的な政党団体に対する表現としてはパロディーの範囲を超えている。公選法から見ても問題があると認識し、誠意をもって対応することに》し(『週刊朝日』1993年11月5日号)、野村の求めた面談にも朝日新聞出版局長ら幹部が応じ、翌1993年に入っても、歴史観や国家観など同社の報道姿勢全般について議論が重ねられた(そのやりとりは野村の遺著『さらば群青――回想は逆光の中にあり』〈二十一世紀書院、1993年〉で活字化されている)。

 同年10月20日には、「風の会」のメンバーや言論人らによるシンポジウムの席上で出版局長の橘弘道が陳謝をし、野村はその開会前に朝日新聞東京本社で社長の中江利忠との面談にのぞんだ。朝日本社での話し合いはなごやかな雰囲気で進んだという。だが、朝日側が一区切りつけようとしたところで、野村は持参した拳銃を取り出したかと思うと、自ら命を絶つにいたる。山藤のショックはそうとうなものだったのだろう、事件の翌週発売の『週刊朝日』の「ブラック=アングル」は休載となった。

 ひょっとすると、野村秋介の事件を、2015年に起きた、フランスの風刺週刊新聞『シャルリー・エブド』の本社がイスラム過激派に襲撃され、同紙の編集長で風刺漫画家のシャルボニエら一二名が殺害された事件と重ね合わせる向きもあるかもしれない。たしかに風刺画への抗議ということでは同じだが、そこでとられた方法はもちろん、また矛先を向けられた側の姿勢など、細かく見ていくと両事件はまるで性質の異なる出来事といったほうがいい。

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