Culture Vulture

ライター・近藤正高のブログ

「一故人」全記事リスト

ウェブサイト「cakes(ケイクス)」が2012年に開設されて以来、2022年にクローズするまで10年にわたって私が連載した「一故人」の全記事のタイトルと公開日をここにリストアップしておきます。そのときどきで亡くなった著名人の生涯を振り返った同連載は、2017年4月にスモール出版より単行本化されました。リスト中、単行本に収録した記事は「収」、未収録の記事は「未」で示しています。

2012年

タイトル 公開日 単行本収録
浜田幸一――不器用な暴れん坊のメディア遊泳術 9月11日
ニール・アームストロング――月着陸30年を経て明かされた真実 10月1日
樋口廣太郎――「聞くこと」から始めたアサヒビール再建 10月26日
春日野八千代――宝塚男役という「虚構」を生きた80年 11月2日
ノロドム・シアヌーク――「気まぐれ殿下」がカンボジアにもたらしたもの 11月30日
宮史郎――女の悲哀を歌っても醸し出す「道化の味」 12月11日
中村勘三郎(十八代目)――歌舞伎のタブーぎりぎりを疾走する 12月14日
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千代の富士貢――昭和の大横綱はなぜウルフと呼ばれたのか?(初出:「cakes」2016年8月26日)

 きょう2026年7月31日で、昭和の大横綱の一人である千代の富士(亡くなった当時は九重親方)が61歳で死去してから10年が経ちました。これに合わせ、亡くなった翌月にその生涯を振り返った拙稿を再公開します。

 なお、本文にかかわる基本的な事柄なので付記しておくと、大相撲の番付は、横綱を頂点として、上から順に大関、関脇、小結の三役、前頭(ここまで幕内)、十両(ここまで関取)、幕下、三段目、序二段、序の口まであります。参考にしていただければ幸いです。

  • 昭和の終わりを飾った53連勝
  • 角界入りは「飛行機に乗せてやる」の言葉に誘われて
  • 自腹を切りタクシーで出稽古にまわる
  • 「短命横綱」と予想されながらの奮起
  • 一代年寄という名誉を辞退して部屋を継ぐ
  • 参考文献
  • 2026年追記

昭和の終わりを飾った53連勝

 昭和天皇は大の好角家として知られた。大相撲観戦の回数は、学習院初等科から数えるとじつに71回におよぶ。1988(昭和63)年9月18日にも両国国技館を訪れる予定だったが、折から高熱が続いており、大事をとって中止となった。天皇の容体が急変したのはその翌日の夜中のことだった。

 このあと昭和天皇の病状は一進一退を繰り返す。9月24日には最初の危篤状態に陥るも、何とか乗り切った。あくる日、意識の戻った天皇は「全勝か」と侍医らに訊ねたという。ちょうど大相撲秋場所の千秋楽で、第58代横綱・千代の富士みつぐ(2016年7月31日没、61歳)の成績を気にしての質問だった。

 千代の富士はこの年5月、夏場所の7日目に花乃うみに勝って以来、連勝を続けていた。7月の名古屋場所、そして秋場所と全勝優勝をはたす。これにより優勝回数は25を数え、北の湖(第55代横綱)の記録を上回り大鵬(第48代横綱)の32回に次ぐ歴代2位(当時)となった。それまで連勝など考えもしなかった千代の富士だが、この記録更新で一つ大きな仕事が達成できたと思い、楽な気持ちで相撲が取れるようになったという(『プレジデント』1989年12月号)。

 千代の富士の連勝は11月の九州場所にも続いた。7日目には目標に置いていた大鵬の45連勝を抜いて歴代2位(当時)となる。その夜、当の大鵬親方と街でばったり会い、「連勝記録は一番一番の積み重ね。これからも一日一日、大事に取ってもらいたい」と激励された。ファンやマスコミからも、史上最多記録である双葉山の69連勝の更新を期待する声が高まる。本人にはそんな大それたことができるわけがないとの思いもあったというが、大鵬の言葉を胸に着実に連勝を伸ばしていった。14日目には53連勝にまで伸ばして優勝を決める。しかし11月27日の千秋楽、横綱・大乃国(現・芝田山親方)に敗れて双葉山超えはならなかった。

 そのあいだ昭和天皇の病状は重くなる一方で、もはや九州場所をテレビ観戦する体力すら残っていなかった。結局、千代の富士が連勝を阻まれた取組が、昭和の大相撲の締めくくりとなる。翌89年1月、昭和天皇は崩御、元号は平成に改まった。千代の富士の目標は、元小結・大潮の持つ通算964勝という記録の更新、さらには前人未到の通算1000勝へと移っていく。

角界入りは「飛行機に乗せてやる」の言葉に誘われて

 千代の富士、本名・秋元貢は1955年6月1日、北海道松前郡福島町に生まれた。津軽海峡に面する福島町は、青函トンネルの北海道側の建設基地として栄えた町だ。この町からはまた、第41代横綱の千代の山雅信が輩出されている。スポーツ万能だった秋元少年に力士の素質を最初に見出したのも、千代の山とつきあいのある地元の人たちだった。

 地元の関係者から話を聞いて、1970年8月、中学3年生だった秋元少年の家に元千代の山の九重ここのえ親方がスカウトに訪れる。それまで角界入りをすすめられても「相撲は好きじゃない」と断っていた秋元少年は、親方直々の誘いにも当初気乗りしなかった。しかし「飛行機に乗せてやる」の殺し文句に気持ちが一変する。飛行機のプラモデルをつくるのが好きだった彼は、本物に乗れるというだけで、東京行きを決めたのだった。

 九重親方はこのとき地方巡業で福島町に来ていた。その弟子の北の富士勝昭は、ちょうど同年3月に第52代横綱になったばかりだった。北の富士は巡業中に親方から秋元少年と引き合わされ、「坊や、俺の名前を知ってるか」と訊いたところ、「知りません」と言われてガクッと来たという。それほど少年は相撲に興味がなかったのだ。しかし恥ずかしがったりおびえたりもせず、けっして視線をそらさない彼の態度は、北の富士に強い印象を残した(『文藝春秋』1989年12月号)。

 上京した秋元少年は、9月の秋場所の新弟子検査に合格して、本名の「秋元」で初土俵を踏む。続く11月の九州場所は「大秋元」、さらに翌71年1月の初場所に際して「千代の冨士」の四股名を親方より与えられた(千代の「富」士となったのは75年初場所)。だが、もともと陸上でオリンピック出場を夢見ていた彼は、いまひとつ相撲になじめなかった。転入した台東区立福井中学では、区立中学連合の陸上競技大会に出場し、あこがれの国立競技場にて砲丸投げで2位に入賞までしている。そもそも約束では中学卒業まで相撲をやって、いったん北海道に帰り、それから先は相談して決めることになっていた。千代の富士は71年の春場所が終わると、郷里の高校に入って陸上に打ちこむつもりで、荷物も実家へ送り帰してしまった。あわてた九重親方は、何とか東京に引きとめるべく、明治大学付属中野高校に入学させる。

 しかし高校では陸上部ではなく、相撲部に入れさせられた。しかも通学するうちに学業と相撲の両立の難しさに気づく。結局、高校は半年で退学し、相撲一本で行くことを決心した。これに親方は泣いて喜んでくれたという。

 1971年の九州場所では三段目に昇進しながら、場所前の稽古中の骨折により全休、翌年の初場所には序二段に逆戻りする。それでも千代の富士は、けがの回復とともに猛烈な闘志で稽古に励み出した。兄弟子の北の富士から「オオカミ」というあだ名をつけられたのはこのころだ。一説には目をランランと光らせながら稽古する姿からつけられたとも、あるいはチャンコをなたみたいなものを持ってつくっていたところからの命名とも伝えられる。いずれにせよ、つけられた本人はあまり気に入らなかったらしい。オオカミは昔話などで悪役のイメージが強いからだ。やがてオオカミでは言いにくいと、英語の「ウルフ」に変わり、これがのちの横綱昇進前後に一般にも広まっていった。

自腹を切りタクシーで出稽古にまわる

 幕下時代の千代の富士の写真を見ると、痩身で鋭い目つきをしており、たしかにオオカミにそっくりだ。しかし彼には大きな弱点があった。それは肩だ。幕下となっていた1973年夏場所で左肩を脱臼してからというもの、何度も肩を抜いては休場を余儀なくされた。もともと肩の関節のかみ合わせが浅く、根本的に治すには手術をするしかないと医者から言われていたという。しかし手術するカネも、回復まで待てる時間も、若い千代の富士にはなかった。

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永六輔と大橋巨泉(初出:「cakes」2016年8月12日・13日)

 きょう2026年7月7日は、放送タレントの永六輔が亡くなってからちょうど10年の命日です。5日後の7月12日には、永と同年代で同じく放送の世界で活躍した大橋巨泉も亡くなり、やはり間もなく没後10年を迎えようとしています。これに合わせ、2人が亡くなった直後に両者の共通点や接点を見出しながらそれぞれの足跡をたどった拙稿を再公開します。初出時には前編と後編に分けて公開したので、今回もそのままの形としました。

  • 永六輔と大橋巨泉(前編)――二人が「六輔」と「巨泉」になったわけ(初出:「cakes」2016年8月12日)
    • 真面目に遊んだ二人
    • 個人主義者だった父親の影響
    • 疎開先でのいじめ体験
    • 放送作家「永六輔」誕生
    • 「巨泉」は俳号だった
    • 永を追いかけるように大橋も放送の世界へ
  • 永六輔と大橋巨泉(後編)――なぜ二人は東京で消耗するのをやめたのか?(初出:「cakes」2016年8月13日)
    • 番組を降板した永六輔の穴を埋めたのは?
    • 『11PM』「はっぱふみふみ」……巨泉時代の到来
    • 東京に戻るのは週末だけの日々
    • 政界に入った大橋、入らなかった永
    • 病気になっても存在感を示す
  • 参考文献

永六輔と大橋巨泉(前編)――二人が「六輔」と「巨泉」になったわけ(初出:「cakes」2016年8月12日)

真面目に遊んだ二人

 1976年12月、映画『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』(山田洋次監督)が公開された。『男はつらいよ』シリーズの第18作目にあたるその劇中、渥美清演じる主人公の車寅次郎が神社の境内で鯨尺を売っているところへ、警官が通りかかる。鯨尺とは曲尺かねじゃくとともに、固有の単位系である尺貫法で物の長さを計る物差しだ。しかし1952年に施行された計量法により、尺貫法を用いることは事実上禁止され、曲尺や鯨尺も販売が認められなくなる。映画のなかで、警官が寅さんを何やら言い咎めようとするのはそのためだ。このとき警官に扮したのが、放送タレントの永六輔(2016年7月7日没、83歳)だった。永は当時「尺貫法復権運動」なるものを展開しており、友人だった渥美から直々に出演依頼を受けたのだという。

 そもそも永が尺貫法復権運動を始めたのは、曲尺を使っていたら警察に出頭を求められたという、知り合いの指物師(箱・机・箱火鉢などの家具をつくる職人)からの相談がきっかけだった。永がこのことをラジオ番組で話したところ、職人をはじめ多くの支持が集まる。これに乗じて彼は全国各地を旅しながら曲尺や鯨尺を仕入れ、コンサートなどで“密売”したり、警察に自首したりもした(しかし無視される)。

 こうした奮闘ぶりに、やがて政党も動き出し、国会に計量法の改正法案を提出するという話も進められた。そのなかで永に政界進出を期待する声さえあがる。ただし、当人としてはあくまで遊びにすぎず、政治的動きには同調しかねた。自分は政界に行くほど人生に飽きていないし、できることなら面白半分という野次馬精神で頑張りたいというのがその言い分であった(永六輔『クジラとカネ売ります――計量法現行犯は訴える!!』)。

 大橋巨泉(2016年7月12日没、82歳)もまた1970年代、放送界に身を置きながら懸命に遊んだタレントである。1965年から86年まで21年にわたりナイトショー『11PM』(日本テレビ。番組自体の終了は90年)の司会を務めた大橋は、競馬、麻雀、ゴルフ、釣りなど遊びの醍醐味を自ら楽しみながら伝えた。一方で、ベトナム戦争や沖縄問題など時事問題についても積極的に発言している。

 遊びとは本来、カネを使うことであり、後ろめたさをともなうからこそやめられないのだ。だが、大橋のように遊びが労働となり、それをしなければカネが入ってこないというのは、ちょっとした地獄ではないか――と喝破したのはルポライターの竹中労である。その一方で、時事問題を扱いながら政治的発言をするのは、大橋にとって《競馬よりも、はるかに昂奮度が高かろう》と竹中は推察し、ここから彼なら政治を《真剣に洒落のめし遊ぶことができるはずだ》と、参議院選挙に立候補することを勧めるのだった(竹中労『芸能人別帳』)。これが1972年のこと。実際に、この翌年には大橋に参院選出馬の話が持ち上がる。しかし結局、彼がこのとき立つことはなかった。

 永六輔は、尺貫法復権運動について、あくまで遊びだと語りながらも、真面目な人たちには受け入れられないと知るや、「洒落で真面目にやってみます」と言い換えた。真面目にやるのもあくまで洒落というわけだが、そう口にすることで、かえって彼の真面目さが際立ったようにも思える。同様に大橋巨泉も、どこまでも真面目に遊んでいたような気がしてならない。なぜなら、彼はついに遊びでしくじったり身を持ち崩したりすることはなかったからだ。

 生涯にわたり真面目に遊び抜いた二人は、戦後の放送史に大きな足跡を残した。共通するところ、直接的な接点も多い。ここでそれぞれの歩みをたどってみることにしよう。

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2025年

2024年2026年

『「もしも」で読む長嶋茂雄(仮題)』試し読み

 きょう11月23日開催の文学フリマ東京41で発売するつもりで準備を進めながら、出店自体を見送ったため果たせなかった新刊のひとつ『「もしも」で読む長嶋茂雄(仮題)』から序文を、お詫びと予告かたがたこちらで公開します。

 本書はタイトルにあるとおり、さまざまな「もしも」がつきまとう長嶋茂雄について、その野球人生であり得たかもしれない展開を、多くの資料をもとに私なりにシミュレーションしながらたどっていくという内容です。そこには、最近テレビCMでもとりあげられた長嶋のメジャーリーグ行きについて、どれぐらい実現の可能性があったのかというテーマも含まれます(全編の内容は下記の「仮目次」を参照)。

 原稿はすでに400字詰め原稿用紙に換算して100枚をとうに超え、もうひと息で脱稿というところまで来ました。今回は残念ながら文学フリマの参加を見送ってしまい刊行にはいたりませんでしたが、12月31日のコミックマーケットへの出展が決まったので今後はそちらに照準を定め、予定していたほかの新刊とあわせ、鋭意準備を進めることにします。ご期待いただければ幸いです。

近藤正高『「もしも」で読む長嶋茂雄(仮題)』仮目次

  • 序章 「長島なんて、いなかった」?
  • 第1章 もしも長嶋が南海に入っていたら
  • 第2章 もしも長嶋が天覧試合に出場していなかったら
  • 第3章 もしも長嶋がメジャーリーガーになっていたら
  • 第4章 もしも長嶋が引退してすぐ監督にならなかったら
  • 第5章 もしも長嶋が巨人以外の球団で監督になっていたら
  • 終章 もしも長嶋が巨人軍終身名誉監督にならなかったら

近藤正高『「もしも」で読む長嶋茂雄(仮題)』序章:「長島なんて、いなかった」?

 2025年6月3日、日本のプロ野球の歴史に選手として、また監督としても大きな足跡を残した長嶋茂雄が89歳で亡くなった。

 その数日後、スポーツライター玉木正之が自身のブログにこんなことを記していた。2014年に長嶋の母校である立教大学で1年生の授業を担当した玉木は、ある日の授業で長嶋の話をしたところ、教室にいた学生が誰も彼のことを知らなくて愕然としたというのだ。

 玉木はそのとき、「ミスタープロ野球だよ! 君たちの大先輩だよ! ホントに知らないの?」と訊くと、学生の一人から「最近の国民栄誉賞で松井(秀喜)選手の横にいた人のことですか?」と逆に訊き返されたといい、長嶋の死後に改めて振り返って《この時は強烈なショックのまま長嶋茂雄がどんな人だったかを話して授業を終えたが…立教の学生がその程度なら…若い人にとっての長嶋茂雄は既に忘れられたのか…?と思うほかなかった》と当該ブログを結んでいる(ウェブサイト「玉木正之ネットワーク Camerata di Tamaki」内のブログ「ナンヤラカンヤラ」2025年6月6日付)。

 私はこのブログを読んでふと、ほかならぬ玉木の編著『完本・長嶋茂雄玉木正之編著、ネスコ、1989年/文春文庫、1993年)のためにコピーライターの糸井重里が書いたコピーを思い出した。それはずばり「長島なんて、いなかった。」というものだったからだ*1

 同書に収められた糸井の制作メモには、いくつかの候補から彼自ら選んだくだんのコピーの下に、《いまの野球を見てると、長島なんてプロ野球の突然変異だったみたいに思えてくるものな。/読み手によって、いろんな思いが泡のようにわいてくるんじゃないか。/あの時代そのものが、うれしい楽しい、おもしろい、危うい、「夢」だったような気もしてくるぞ》との覚え書きが見える。

 長島なんてそもそもいなかった、あれは夢だったんだ、という糸井の見立ては、現役時代の彼を知る世代には実感として共有しやすいものだったはずだ。同書の出た平成初めの1989年当時、長嶋はすでに現役引退から15年、引退とともに就いた巨人軍監督を事実上の解任に追い込まれてからも9年と、野球界を離れて久しかった。この間、他球団から監督就任を要望されながらも固辞し続けていた。他方でCM出演やオリンピック取材などでメディアにはあいかわらず登場し続けていたとはいえ、どこか中途半端な位置づけにあったことは否めない。

*1:糸井重里のコピーでは「長島」表記が採用されているが、本書では以下の理由から、原則として「長嶋」で統一したい。長嶋が2021年に文化勲章を受章したときの内閣府の受章者リストの彼の項にはまず「長島茂雄」とあり、その下にカッコでくくって「長嶋茂雄」と記されていた。同リストでは、同年に受章した歌舞伎の尾上菊五郎(七代目)とバレエの牧阿佐美についてそれぞれ本名(戸籍名)である寺嶋秀幸、福田阿佐美が先に記され、芸名はやはりカッコ内に書かれている。ここから長嶋茂雄の戸籍上の姓は「長島」だったとわかる。/では、いつごろから「長嶋」表記が使われるようになったのか? 私はてっきり現役時代は「長島」だったのがある時期から「長嶋」に改められたものと思い込んでいたが、調べてみると必ずしもそうではない。現役時代でも新聞での表記は各紙ごとに違い、1959年の天覧試合の記事では『読売』『朝日』は「長島」だが、『毎日』は「長嶋」を採用していた。書籍のタイトルにも『若き王者長嶋茂雄』(1958年)や『栄光の背番号3 燃える男―長嶋茂雄物語―』(1972年)のように「長嶋」としたものが散見される。ただ、『毎日』も1974年の現役引退のころには「長島」を採用している。長嶋自身も引退時に『読売』に寄せた手記には「長島」と自署しており、管見の限りでは、1980年に彼が巨人軍監督を辞めて以降もしばらくはメディアでは「長島」と表記されるのが一般的だったと思われる。ここには新聞や放送などでは使える漢字が制限され、原則として常用漢字人名用漢字以外は使えないため、「嶋」ではなく常用漢字である「島」を用いざるをえなかったという事情もあるのかもしれない(ちなみに「嶋」が人名用漢字に採用されたのは意外に最近で、2004年である)。しかし、1993年の巨人監督再任を機に本人の意向もあって「長嶋」に統一されていく。ちなみに長嶋の長男でプロ野球選手からタレントに転じた一茂は「長嶋」、次女でキャスターの三奈は「長島」の表記でそれぞれ活動している。

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文学フリマ東京41出店見送りのお知らせ

今週日曜、11月23日に迫った文学フリマ東京に「Culture Vulture」として出店予定でしたが、突然ではありますが今回は出店を見送ることにしました。今月に入って仕事が立て込んでおり、一日時間をとるのがどうも難しそうだと判断したためです。

すでにWebカタログで告知したとおり*1、今回はいくつか新刊を予定し、準備もかなり進めていただけに、見送らざるを得なくなってしまい私としても大変残念です。何より、カタログを見て「気になる」とチェックしていただいたり、楽しみにしてくださっていた方々にこの場を通じてお詫び申し上げます。

このままでは申し訳ないので、開催前日にも、販売予定だった新刊から、予告も兼ねて「まえがき」などをPDFか何らかの形でこちらかブログに期間限定でアップするつもりでおります。また、来月末のコミックマーケットにも出展を申し込んでおり、もし参加できれば、新刊はそちらで販売したいと考えています。

今回は残念なお知らせとなり、大変心苦しくはありますが、何卒ご了承くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

近藤正高

*1:「ライター・近藤正高のサークルです。新刊として、昨年好評だった"調べ方"本の続刊『国立国会図書館デジタルコレクション活用術』ほか『坂本龍一大阪万博』『「もしも」で読む長嶋茂雄』(いずれも仮題)などを予定」

2024年

2023年2025年

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モハメド・アリ――アリが蟻に自分を重ね合わせたとき(初出:「cakes」2016年6月24日)

 1974年10月30日、アフリカ中西部のザイール(現・コンゴ民主共和国)の首都キンシャサで行われたボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチで、当時の王者ジョージ・フォアマンモハメド・アリが挑戦して勝利を収め、その7年前にベトナム戦争に反対して徴兵を拒否したために剥奪された王座を奪還しました。「キンシャサの奇跡」と呼ばれるこの歴史的な試合からきょうでちょうど50年ということで、アリが2016年に6月に亡くなったあとにウェブサイト「cakes」の拙連載「一故人」で彼の人生を顧みた回を再公開します。

対戦相手への挑発はプロレスが手本だった

《俺、俺たち(me,we)》

 これは、プロボクシングの元世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリ(2016年6月3日没、74歳)が即興でつくった詩だ。アメリカのジャーナリスト、ジョージ・プリンプトンが“英語で一番短い詩”と評するこの詩は、アリがハーバード大学の卒業式でスピーチを行なった際に、学生から求められてつくったものだという(映画『モハメド・アリ かけがえのない日々 [DVD]』)。年代ははっきりしないが、おそらく彼がすでに引退した1981年以降、パーキンソン症候群の治療を続けていたころと思われる。

 即興詩はアリの得意とするところだった。そのもっとも有名な一節は、「蝶のように舞い、蜂のように刺す(Float like a butterfly,Sting like a bee)」だろう(なおFloatは厳密には「舞う」というよりも「漂う」というニュアンスに近いようだ)。これは1964年、アリが世界ヘビー級チャンピオンだったソニー・リストンに挑戦する直前、自分のボクシングを讃えてつくったものだ。まだ本名のカシアス・クレイを名乗っていた彼は、まさに蝶が漂うように、敵のパンチを巧妙に避けながらスピーディーにリング上を動き回り、そして相手に隙を見つけるやいなや蜂が刺すように攻撃した。リストンにもこうして勝利し、初めて王座を手にしたのである。

 アリは試合前、口をきわめて対戦相手を罵り、挑発することでも知られた。前出のリストンとの試合前には、記者たちを前にこんな詩を口にしている。

《(前略)さあ、クレイはノックアウトパンチをくり出すぜ(中略)パンチが決まって、熊公は リングからぶっ飛び上がるぜ リストンはなおもぐんぐん上昇し レフェリーはカウントできずに しかめっ面だぜ ソニーはなかなか落ちてこないぜ もうリストンの姿は見えねえ 観客は肝をつぶして大騒ぎだが レーダー基地がやつの姿をとらえるぜ 大西洋の上空のどこかにいるんだ(後略)》(トマス・ハウザー『モハメド・アリ: その生と時代 (シリーズ・ザ・スポーツノンフィクション 14)』)

 大言壮語ともいえるこうした物言いは、じつは彼なりの演出であり、元はといえばプロレスを手本としていた。当時のトレーナーによれば、アリはプロになって2年目の1961年、試合になかなか客が集まらないので、プロモーターから「君の名前を売らなければだめだ」と言われ、プロレスラーのゴージャス・ジョージの試合を見て参考にするよう勧められたという。ゴージャスはリング上では派手に立ち回っていたのに、試合後の更衣室では一転、明敏で知的な人柄を見せてアリたちを驚かせた。そのときのゴージャスの教えは、「この商売には大げさな身振りはしかたがない。観客には俺が大嫌いだという者もいる。それでいいんだ。とにかくみんな俺の名前を覚えてくれるから」というものだったという(アンジェロ・ダンディー『勝つことを知った男: モハメド・アリを育てた名トレーナー』)。

 アリがスーパースターにのしあがったのは、圧倒的な強さばかりでなく、天性の詩の才能、さらにプロレスから学んだショーアップ術によるところも大きい。それらは、テレビが普及し、試合会場の観客ばかりか衛星中継を通じて世界中の人が観戦するようになった時代にあって、スターになるのに欠かせない要素であったともいえる。

数々の伝説に彩られた人生

 モハメド・アリ、旧名カシアス・クレイは1942年1月、アメリカ・ケンタッキー州ルイビルに生まれた。ボクシングとの出会いは12歳のとき。自転車を盗まれて、訴えに行った警官がたまたまボクシングを教えていたことから、ジム通いを始めたと伝えられる。

 その後のアリの歩みは、多くの伝説で彩られている。1960年、18歳で出場したローマオリンピックのライトヘビー級で金メダルを獲得、アリはそのメダルをしばらく肌身離さず持ち歩いていたが、ある日、レストランに入ったところ店主から「黒人に食わせるものはない」と注文を拒否されたことに激怒して、メダルは川へ投げ捨てたという。プロに転向したのはその前後のことだ。1964年に先述のとおりソニー・リストンを倒してチャンピオンになった直後には、キリスト教からイスラム教に改宗し、カシアス・X・クレイ、さらにモハメド・アリと改名した。

 1965年、アリは徴兵テストに合格する。ちょうどアメリカの介入したベトナム戦争が激化していたころで、戦線に送られる米兵には黒人の割合が極端に多かった。彼は翌年4月、「俺はベトコンと戦う気はない。やつらに黒ん坊呼ばわりされたことなど一度もないからだ」と徴兵を拒否する(ベトコンとは、当時アメリカが戦っていた南ベトナム解放民族戦線の俗称)。この行動に対し非難や脅迫があいつぎ、あげく67年4月にはニューヨーク州のボクシング・コミッションによってライセンスが停止され、それを受けて世界ボクシング協会WBA)もタイトルの剥奪を決める。同年には兵役忌避により懲役5年の実刑判決が下され、これを不服とするアリは裁判闘争を続けた。米最高裁実刑判決を破棄したのは71年6月のことだ。

 この間、アリのリング復帰のためプロモーターらが全米を奔走する。ほとんどの都市で試合開催を拒否されたが、やっと1970年10月、ジョージア州アトランタで復帰戦が行なわれる。相手は世界ヘビー級3位の白人ボクサー、ジェリー・クォーリーで、3ラウンドにテクニカルノックアウトにより勝利を収めた。アトランタには保守的なコミッションがなく、市民の理解に加え地元選出の黒人上院議員の支援もあって、試合を開催することができたのだ。

 1971年3月には、アリは自分の追放中にヘビー級世界王者となっていたジョー・フレイジャーに挑戦するも、プロ入り後初めて敗北を喫する。フレイジャーはその後、73年にジョージ・フォアマンにタイトルを奪われた。こうしてアリは、チャンピオンに返り咲くため今度はフォアマンに挑むことになる。

「打たれない」から「打たれてもかまわない」ボクシングへ

 フォアマンとの決戦の舞台となったのは、ザイール(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサである。当時のザイール大統領、モブツは自ら変更した国の名を世界中に宣伝するため、1000万ドル(約3億円)というプロスポーツ史上空前のファイトマネーを支払うこともいとわなかった。もともとアリはファイトマネーとして500万ドルを要求していたし、またアメリカの黒人の故郷であるアフリカでの開催は、黒人の自立を訴える彼の主張にも合致した。

 キンシャサの戦いは、ジェームズ・ブラウンB.B.キングなどアメリカの黒人ミュージシャンによるコンサートがあわせて開催されるなど華々しいものとなった。試合は現地到着後、フォアマンが練習中にけがをしたためいったん延期されたのち、1974年10月30日に行なわれた。開始が早朝となったのは、全米のテレビのゴールデンタイムに合わせたためだ。

 事前の下馬評では、フォアマン有利と見る向きが圧倒的に多かった。何しろアリはボクシング界から3年半も追放されており、復帰後の対フレイジャー戦で往年のフットワークが見られなかったうえ、続く72年の対ノートン戦ではあごを砕かれて入院までしていたからだ。これに対し、当時25歳のフォアマンは破壊的なパンチ力でそれまで40戦全勝、うちKO勝ちはフレイジャーから王座を奪った試合を含め37回と最盛期にあった。アリのあごを打ち砕いたノートンも、たった2ラウンドで破っている。

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