Culture Vulture

ライター・近藤正高のブログ

「一故人」全記事リスト

ウェブサイト「cakes(ケイクス)」が2012年に開設されて以来、2022年にクローズするまで10年にわたって私が連載した「一故人」の全記事のタイトルと公開日をここにリストアップしておきます。そのときどきで亡くなった著名人の生涯を振り返った同連載は、2017年4月にスモール出版より単行本化されました。リスト中、単行本に収録した記事は「収」、未収録の記事は「未」で示しています。

2012年

タイトル 公開日 単行本収録
浜田幸一――不器用な暴れん坊のメディア遊泳術 9月11日
ニール・アームストロング――月着陸30年を経て明かされた真実 10月1日
樋口廣太郎――「聞くこと」から始めたアサヒビール再建 10月26日
春日野八千代――宝塚男役という「虚構」を生きた80年 11月2日
ノロドム・シアヌーク――「気まぐれ殿下」がカンボジアにもたらしたもの 11月30日
宮史郎――女の悲哀を歌っても醸し出す「道化の味」 12月11日
中村勘三郎(十八代目)――歌舞伎のタブーぎりぎりを疾走する 12月14日
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樹木希林――内田裕也と久世光彦と、時々、森繁(初出:「cakes」2018年10月15日)

俳優の樹木希林が2018年に亡くなってから、きょう9月15日で丸6年が経ち、7回忌を迎えました。これに合わせて、亡くなったちょうど1ヵ月後に彼女の人生を「cakes」の拙連載「一故人」でたどった回を再掲載します。

舌禍事件で名ディレクターと絶交

女優の樹木希林(2018年9月15日没、75歳)は、自分の発言が原因で、同志ともいうべき人物と約20年にわたり絶交状態になったことがある。その相手とは演出家の久世光彦(てるひこ)だ。久世は樹木の特異な才能を高く買い、1970年代にTBSのディレクター、プロデューサーとして手がけたホームドラマでは必ず彼女を出演させてきた。

だが、二人の関係は突如として断たれた。それは1979年、『ムー一族』の打ち上げパーティーでのこと。このとき、スピーチに立った樹木は、ドラマに出演していた若手女優が久世の子供を妊娠していると暴露した。会場には取材陣も詰めかけ、あらかじめ「私がこれから言うことは記事にしないでください」と釘を刺したが、それはさすがに無理筋というもの、すぐにスポーツ紙や週刊誌で報じられ、一大スキャンダルへと発展する。結局、久世は責任をとってTBSに辞職願いを出し、フリーとなる。

樹木が見たところ、久世は妻と離婚していないのに別の女性とそのような関係になったがために、『ムー一族』が最終回に近づくにつれボルテージが下がり、仕事がおざなりになっていたという(田山力哉『脇役の美学』。以下、参考文献について詳細は記事終わりのリストを参照)。それが彼女には許せず、くだんの発言につながった。後年のインタビューでは、《出演者がみんな、女性のことで久世さんを軽蔑しだした。だから、これまでのことはチャラにして、パーッとやりましょうよ、というつもりだった。それが裏目に出た》とも振り返っている(『朝日新聞』2007年1月13日付)。

もう少し歳を重ねてからの樹木なら、もっと穏便に事を収めることもできたかもしれない。しかし当時の彼女としてみれば、これまでお互い真剣になってドラマをつくってきた同志が、私的な事情で仕事をおろそかにすることにどうしても耐えられなかったのだろう。

このエピソード一つをとっても、樹木の高いプロ意識がうかがえる。やはり久世の演出によるドラマ『時間ですよ』(1970年)では、樹木(当時の芸名は 悠木千帆(ゆうきちほ)だが、この記事での呼称は樹木希林で統一する)が堺正章らとギャグを演じる場面が人気を集めたが、脚本の向田邦子はこの場面には何も書かず、彼女たちにすべて任せていた。これに対し樹木は、自分たちは徹夜でギャグをつくっているのに、なぜ脚本のクレジットには向田の名前しかないのかと抗議したこともあったらしい(小林竜雄『久世光彦vs.向田邦子』)。

演技に力を注ぐ一方で彼女は、いつ女優をやめてもいいと言ってはばからなかった。実際、本業のかたわら、不動産を購入して収入源としていた。《私も言いたいことを言いますから、ケンカして仕事がなくなっても生きていけるように》というのがその理由である(『週刊朝日』2016年5月27日号)。

仕事ではけっして手を抜かないが、俳優という職業にこだわっていたわけではない。矛盾しているようでいて、それを納得させてしまうものが彼女にはあった。その人柄はいかにして育まれたのか、探ってみることにしよう。

無口な少女がテレビの人気者になるまで

樹木希林は1943年1月、東京に生まれた。結婚前の本名は中谷啓子。父はもともと警察官だったが、のちに薩摩琵琶奏者となった。彼女は俳優として絶妙な「間」で笑いを誘ったが、それは父親ゆずりのものらしい(『朝日新聞』2007年1月6日付)。一方、母は戦後、池袋で飲食店を始め(のちに店は横浜に移る)、一家を支えてきた。

幼少期の彼女はめったに口をきかなかった。4~5歳のころ家の中2階から1階に転落した事故が原因で、おねしょをするようになり、それに強い引け目を感じていたからだという。だが、それも鍼灸師にかかるなどして、しだいに治っていった。中学に進むころには《普通に口を利くようになって、いつのまにかケンカっ早くて生意気な人間になっていた》(『朝日新聞』2018年5月10日付)。

俳優の道に進んだのは成り行きだった。高校卒業を前に、父から「おまえは結婚しても夫とうまくいくかわからないから、食いっぱぐれないよう手に職を持て」と薬科大学に行って薬剤師になるよう勧められた。しかし、もともと数学が苦手だったうえ、旅行先の北海道でスキー中に骨折し、受験を断念。けがのため卒業式にも出られず、途方に暮れていたところ、新聞で「新劇の3劇団が研究生を募集」という記事を見つける。新劇3劇団とは文学座俳優座劇団民藝を指し、樹木はこのうち文学座を受験、合格した。決め手は、試験のとき相手のセリフをよく聞いていたからだと、のちに劇団の大先輩の長岡輝子から教えられた。少女時代、口をきけなかった分、周囲をよく見て、よく聞いていたのが活きたらしい(『朝日新聞』2018年5月11日付)。

こうして彼女は1961年、文学座付属演劇研究所の1期生となる。同期には橋爪功小川真由美寺田農北村総一朗、最初の結婚相手となる岸田森(しん)らがいた。デビューにあたり、悠木千帆という芸名を父につけてもらう。

研究所での身体訓練などは後年、役立つことになるが、当時の樹木は芝居をずっと続ける気はなかった。そんな彼女が最初に注目されたのは、舞台ではなくテレビだった。1964年、TBSで放送されたホームドラマ七人の孫』でお手伝いさんの役に起用され、森繁久彌演じる一家の長との掛け合いがウケて、たちまち人気者となったのだ。

同番組でアシスタントディレクターを務めていた久世光彦によれば、この役は交代で書いていた脚本家の一人が唐突に登場させたもので、樹木は文学座より急遽呼ばれた若手のなかから適当に選ばれたにすぎなかった。セリフも「ご隠居さん、もう遅いから帰りましょ」という一言のみ。それを彼女は、「ちょっと頭の回転が遅そうな感じで、しかも、どことも知れぬ地方訛りで」やったところ(森繁久彌久世光彦『大遺言書』)、面白いということになった。もっとも、当人に言わせると、出番までさんざん待たされたのに怒って、セリフをひどくつっけんどんに言ったのが、たまたまウケたのだという(『週刊平凡』1966年6月9日)。

それからというもの、台本に書かれていなくても、ご隠居のそばにはいつもお手伝いさんがいることになり、出番はどんどん増えた。普段から人間を観察し、芝居に活かすということなど、森繁との共演を通して学んだことも少なくない。ただ、出番は増えてもギャラは変わらないし、撮影が夜中までかかるのでくたびれてしまった。このため、好評につき続編が決まり、森繁も「あの子が出るなら」と続投に応じたにもかかわらず、彼女はオファーをいったん断っている。そこへTBSの局長が飛んできたので、ギャラを100%アップすると約束させて、やっと承諾したのだとか(『朝日新聞』2018年5月15日付)。

この間、1965年に同期の岸田森と結婚、翌年1月にはそろって文学座を退団する。新婚時代、夫妻の自宅には編集者の津野海太郎や詩人の長田弘、俳優から演出家へ転身を考えていた蜷川幸雄など多彩な人たちが出入りし、自前で劇団を立ち上げる計画を練った。こうして66年6月、劇団「六月劇場」が旗揚げし、岸田と樹木の新居に劇場を設けた(なお、蜷川は結局この劇団には参加しなかった)。ちょうど既存の演劇にアンチテーゼを掲げる小劇場運動が盛んになりつつあった時期である。

仲間内でも稼ぎ頭だった樹木は、しょっちゅう劇団に制作費を貸していたという。そもそも文学座時代から、ドラマ以外にCMにも出演し、同期の誰よりも稼いでいたので、みんなで飲むとなるとカネを払うのはいつも彼女だった。

その後、1969年に六月劇場が劇団「自由劇場」と合同で「演劇センター68/69」を組織したのを境に、樹木は劇団からフェードアウトする(岸田と別れたのもほぼ同時期だった)。演劇センターは、やがて黒いテントを張った仮設劇場での公演から「黒テント」と呼ばれ、小劇場運動の一翼を担うことになる。なお、樹木は六月劇場の結成前からの仲間で、黒テントの座付作家だった山元清多(きよかず)を、『時間ですよ』の台本作家としてテレビの世界に引き入れている。以来、山元は久世と組んで、のちにはホームドラマの枠を突き破るような異色作『ムー』や『ムー一族』などを手がけた。

樹木がデビューしたころ、新劇の役者のあいだでは、テレビは三流の役者が出るところで、CMにいたっては「出ると芸が荒れる」とまで言われていた。しかし、彼女は気にせず、テレビにもCMにも請われるがままに出演した。おかげで、自分は役者というより、むしろ芸能人でいるという意識のほうが強くなったという。

《役者はみんな役作りをするんだけど、私の場合そこにもう一つ、『世の中はもうこういうものに飽きているな』とか『観たくなくなっているな』とか『こういうものを欲しがっているな』とか、そういうことを何となく感じるタイプなのよ》(『SWITCH』2016年6月号)

彼女を精神的死から救った内田裕也

世の中の流れや視聴者の欲求を意識することは、久世光彦との仕事でより深められたに違いない。1974年、31歳のときには、久世の演出するホームドラマ寺内貫太郎一家』に、一家の長である貫太郎の母・きんばあさんの役で出演する。このとき、髪を脱色し、シワのない手を隠すため、指先を切った手袋をはめるなどして、おばあさんになりきった。このドラマをもっておばあさん役は彼女のハマり役となる。

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さくらももこ―― グータラなまる子、働き者のももこ(初出:「cakes」2018年10月1日)

ちびまる子ちゃん』などの作品で知られるマンガ家のさくらももこが2018年に亡くなってから、きょう8月15日で丸6年が経ち、七回忌を迎えました。これに合わせて、訃報が伝えられたのち「cakes」の拙連載「一故人」で彼女をとりあげた回をこちらに転載します。

目下、一昨年の高松を振り出しに「さくらももこ展」が全国各地を巡回中です(10月5日からは東京・六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催予定)。私も先月、名古屋の松坂屋美術館で開かれたのを観に行ったのですが、数ある展示品のなかでも、さくらが小学校の卒業文集に寄せた作文のうまさに驚きました。本文でも紹介したように、彼女がのちにエッセイをマンガで描いたらどうかと思いつくきっかけとなる、短大推薦希望者のための模擬テストで書いた作文を絶賛されたという話も、小学生時代の作文を読んで納得できました。

今年は『ちびまる子ちゃん』の舞台となる(作中のまる子が小学3年だった)1974年から半世紀という年でもあります。これは以前、べつのところで書いたことですが、1974年は、『ちびまる子ちゃん』のテレビアニメが始まった1990年の時点でいえば、たかだか16年前にすぎません。それにもかかわらず、当時25歳の女性マンガ家の描くその世界観は幅広い世代のノスタルジーを喚起することになりました。

ひるがえって、いま25歳の作家が、16年前の2008年を舞台に自身の小学校時代を描いたとして、果たして『ちびまる子ちゃん』ほどに広く共感を呼ぶことができるかとなると、なかなか難しいように思います。そう考えてみると、1974年は、日本人が懐かしいと思える最大公約数ともいうべきギリギリの時代設定だったのかもしれません。

ちびまる子ちゃん』の雑誌連載が始まった1986年から、アニメ化されるまでの時期はちょうどバブル景気の時代と重なります。そのなかで自作がブームになれば、思わず浮かれてしまってもおかしくはないでしょう。しかし、本文でも紹介したように、さくらはけっして浮き足立つことなく、むしろ冷静に自分を見つめ直すいい機会となったと語っていました。そのことに改めて感服させられます。

先述の展覧会では、マンガにとどまらず、エッセイ、アニメの脚本、絵本、ラジオのパーソナリティと多方面におよんださくらの仕事の全貌を捉えることができます。『ちびまる子ちゃん』に、まる子が青島幸男になりたいと家族に宣言してあきれられるというエピソードがありましたが(集英社刊の単行本・第7巻所収「その55『まる子 みんなにばかにされる』の巻」)、多岐におよぶばかりでなく、いまも彼女の作品が人気を持続しているのを見ると、すでに青島幸男を超えたと言ってもいいのではないでしょうか。一体なぜ、彼女はそれほどまでにさまざまな仕事に力を入れて取り組むことができたのか、拙文を読めばきっとわかっていただけるはずです。

親友が「社長さんみたい」と感心するほどのしっかり者

《私は働き者ですが、まる子は怠け者です。私はしっかり者ですが、まる子はだらしがない。しっかりしろよと言いたくなります》(『MOE』1999年11月号)

マンガ家のさくらももこ(2018年8月15日没、53歳)は、《さくらさんとまるちゃんのいちばん違うところは?》との質問に対し、こんなふうに答えた。「まるちゃん」とは言うまでもなく、さくらの代表作『ちびまる子ちゃん』の主人公である小学3年生の女の子を指す。

ちびまる子ちゃん』はエッセイマンガと銘打ち、小学生のころの作者をモデルにしていることを思えば、先のさくらの回答はちょっと意外にも思える。事実、次の発言にもあるとおり、彼女自身、子供のころは「怠け者」で「だらしがなかった」ことを認めている。

《高校まではテレビを見たり、漫画を読んでばっかりで、グータラしていたんですよ。三年寝太郎なんていうものじゃないくらい、馬鹿みたいに寝ていましたし。母親が「情けないよ、この子は」と、泣いちゃったくらいですからね。「こんな子を産んで損したよ、私は」って(笑)》(『週刊文春』1992年12月17日号)

そんな怠け者がマンガ家になってからは一変する。マンガの連載だけでなく、自作の『ちびまる子ちゃん』や『コジコジ』がテレビアニメになると脚本を手がけた(原作者のマンガ家が脚本まで書くのは珍しい)。文才も発揮し、『もものかんづめ』(1991年)をはじめ、エッセイ集は次々とベストセラーとなる。このほかにもイラストや絵本の仕事をこなし、テレビドラマの脚本やラジオ番組のパーソナリティを担当したこともあった。多忙をきわめた当時、彼女はこんなことを語っている。

《私、とにかく仕事が好きなんです。今の仕事が終わってもまたすぐに、先の仕事をやるぐらい好きなんです。(中略)オフにしようと思えばできるんですけれど、やりたい仕事が急にきて、それができないのは嫌だから、ふだんの仕事はなるべく早目にやっておくんです。(中略)すごく仕事がたて込んでいる時は、体力が尽きてもう描けなくなったという時に二時間ぐらい仮眠を取って、また起きて……という感じで。だから、連続何十時間も起きていることもありますよ。ふだんは朝寝て、お昼起きて……睡眠時間は四、五時間ですね。(中略)八時間も寝ると、寝過ぎで、体調が悪くなっちゃうんですよ》(前掲)

かつては寝てばかりで親に泣かれた彼女だが、このころには逆に「少しは休んでよ」と心配されるまでになっていた。本人いわく《きっとなりたかった漫画家になれて張り合いがあるから、チャキチャキやっているんでしょうね》(前掲)。

忙しいなかでも、作家の吉本ばななやコピーライターの糸井重里など各方面に交友関係を広げた。女優の賀来千賀子もその一人で、さくらのエッセイを読んでファンレターを送ったのを機に親しくつきあうようになったという。その親友から見て、さくらももこはこんな人物であった。

《さくらさんは、子供の部分と大人の部分が同居してる方。だからすごく純粋な、子供らしい可愛らしい“まる子ちゃん”の部分もあるし、まるちゃんの中にも、非常にシビアにものを見ている部分ってありますよね、なんていうのかな……たとえば社長さんみたいな視点でものを見るようなキャパの大きいところもあるんです。私、何度言ったかしら、「しっかりしてるよね」「ほんとにえらいね」って。いつも「そんなことないヨ」って笑ってますけどね》NHKトップランナー」制作班・編『トップランナー VOL.5』)

後年、さくらが最初の夫と離婚するに際し、賀来は自分の家族とともに協力することになる。なかでも引っ越し先の手配など実務的なことをいちばん手伝ってくれたのが、賀来の兄だった。彼は流通大手のセゾングループに勤務しており、社長秘書を担当したこともあるという。

しばらくして彼が転職を考えていると知ったさくらは、自分のプロダクションに入ってもらえないかと画策。賀来とともに数度にわたって説得した結果、スカウトに成功する。このとき、さくらが《もしも私が死んだら、書店では一応“さくらももこ遺作フェア”というのをやってくれるでしょう。そんな時こそお兄ちゃんの力が必要なんです》などと自分の没後のことまで持ち出して説得する様子は、エッセイ集『さくら日和』にユーモアたっぷりにつづられている。ともあれ、会社の経営のため必要な人材をめざとく見つけ、獲得に動いたのは、賀来の言うとおり「社長さん」らしい手腕をうかがわせる。

かつてはまる子と同じグータラだった女の子が、いかにして変わっていったのか。その足跡をたどってみることにしよう。

さくらももこ」はもともと芸名だった!?

さくらももこは1965年5月、静岡県に生まれた。出身地は『ちびまる子ちゃん』にも出てくるとおり、清水市(現在の静岡市清水区)である。実家は八百屋を営んでいた。

小学生のころは授業をまるで聞かない子供だったようだ。たとえば学校の外から焼き芋屋の売り声が聞こえてくると、《お芋、おいしそうだな。いま、ここを抜け出して買いに行ったら、まにあうかな。あっ、今日はお金を持っていない。明日からお金用意しておかなけりゃ……。そうだ、お小づかいもらっていないや。お年玉、今年は少なかったのはなぜだろうか……》などと次々と空想が膨らんできたという(さくらももこもものかんづめ』文庫版「巻末お楽しみ対談」)。参観日に来た母親に上の空でいるのを見破られ、注意されたこともあった。

母親に怒られることはしょっちゅうだったが、どこか釈然としないものを感じていた。本人の言い分はこうだ。

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はからずも予言の書?~『総理の辞め方』本田雅俊著(初出:「日経ビジネス・オンライン」2008年9月3日)

 岸田文雄首相がきょう8月14日、9月に予定される自民党総裁選への不出馬を表明し、それにともない首相を辞任する方向となりました。このタイミングに合わせ、いまから16年前の2008年9月(北京五輪の翌月)に当時の首相・福田康夫の辞任発表を受けて、ウェブサイト「日経ビジネス・オンライン」の「日刊新書レビュー」*1に書いた書評を再掲載します。

 レビューでとりあげた『総理の辞め方』での歴代首相の辞任劇・退任劇の“6類型”(本文参照)でいえば、今回の岸田首相は、支持率が低下し、自民党内からもトップを替えなければ次の選挙を戦えないとの声が高まっていたことから、「流れに逆らえない辞任」ということになるでしょうか。

 ついでなので、本文でとりあげた福田康夫以降の首相たちについても、私なりに例の6類型に当てはめてみると……福田辞任の翌2009年の総選挙で民主党への政権交代を許した麻生太郎と、その民主党政権鳩山由紀夫野田佳彦は「結果責任による辞任」、自党内からも上がった辞任を求める声に従わざるをえなかった菅直人菅義偉は今回の岸田と同じく「流れに逆らえない辞任」、二度目の政権を担当した安倍晋三は「未練のある辞任」とも「再起を目指した辞任」とも言えそうです。

 なお、『総理の辞め方』の著者である本田雅俊(経済行政アナリスト、現・金城大学客員教授)は現在、共同通信のウェブサイトでコラムを連載しています。その最新回(2024年8月9日配信)では、岸田首相が総裁選への出馬を表明する「Xデー」を8月28日と予想しながらも、一方で《もちろん、出馬を断念する可能性も低くはない》として、《その場合、尊敬する池田勇人首相(当時)に倣い、スポーツの祭典への敬意から、パラリンピックの閉幕を待って、9月9日あたりに退陣を表明するかもしれない》と書いていました。実際にはお盆のさなかの8月14日となったわけですが、本田氏の書いたように、1964年の東京五輪閉幕後に病気を理由に勇退した池田勇人に倣ってなのか、パリオリンピックの閉幕の直後となりました。

 蛇足ながら、本文の引用文中に出てくる、福田康夫座右の銘だという勝海舟の言葉「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張」はもともと、勝が福沢諭吉からその論説「痩我慢の説」について発表前に感想を求められて、書き送った返書のなかに出てくるものです。福沢はくだんの論説のなかで、勝が幕臣時代、薩摩・長州に対して、まだ勝敗が決していないにもかかわらず、あっさり和議を結んで江戸城を明け渡したことを、《立国の要素たる瘠我慢の士風を傷(そこな)うたるの責(せめ)は免(まぬ)かるべからず》と批判していました。それに対し勝は「自分の出処進退は自分で決める、批評は他人の主張である」との意味の言葉を返したわけです。

 この事実を私はつい最近、花田清輝のエッセイ「「慷慨談」の流行」(『もう一つの修羅』講談社文芸文庫、1991年所収)で知ったのですが、花田が《勝海舟の返事は、味気なく、素っ気ない。しかし、わたしには、そこから、「機があるのだもの、機が過ぎてから、なんといったって、それだけのことサ」というかれの声がひびいてくるようにおもわれる》と書くように、勝としては福沢の言い分に「わかっちゃいねーなー」というのが正直なところだったでしょう。その心情は、辞任会見で記者に向かって思わず「あなたとは違うんです」と言い放ってしまった福田のそれにもつながっているはずです。

(以下、再録)

『総理の辞め方』本田雅俊著(PHP新書、2008年7月)

評者の読了時間:4時間10分

 9月に入ってすぐ福田首相が辞任を表明した。一体何があったのか、首相の会見を見ただけではまだよくわからないが、あまりにも唐突だということは間違いない。 まあ、8月初旬に、首相と麻生太郎氏とのあいだで政権禅譲の密約があったとする説がささやかれた時点で、この政権もそんなに長いことはないなとは思っていたが、まさかこんなにも早く終焉が訪れようとは思わなかった。ちょうど同じころ本書を上梓した著者は、果たして事態をどこまで予想していたのだろうか。

 本書は、そんな一夜にしてタイムリーになってしまった「総理の辞め方」というテーマを通して戦後の歴代首相を紹介するものである。

 この手の本はえてして首相の業績に対し高みから評価を下しがちだが(その最たる例は福田和也の『総理の値打ち』だろう)、本書は批判すべきところは批判しつつ、どの首相に対しても慰労の拍手を送るという姿勢で書かれている。

*1:日経ビジネス・オンライン」で複数の執筆者が持ち回りで連載していたもの。ただし、2009年の同サイトのリニューアルにともない、それまでに掲載されたすべてのレビューは、担当の編集者や執筆陣には何の断りもなしに削除されてしまったため(←これ、強調)、現在は読むことができない。自分が執筆した分についてはこれを機に本ブログに転載していきたい。

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あなたはいま、ニセモノをつかまされている!

 徳島と高知の県立美術館が所蔵し、最近になって贋作の疑いの出ていた油彩画について、「天才贋作師」と呼ばれる画家のウォルフガング・ベルトラッキが「私が描いた作品だ」と認めたという(「読売新聞オンライン」2024年7月21日配信)。

 疑惑の出ている作品のうち、徳島県立美術館が所蔵するフランスの画家ジャン・メッツァンジェの「自転車乗り」は、最近まで京都市京セラ美術館で開催されていた「キュビスム展 美の革命」に出品されており、私も4月末に観て、とくに印象に残った作品の一つだった(その後、疑惑が出て、展示は中止されたようだが)。キュビズムの手法を用いて、やはり当時まだ目新しかったであろう自転車レースを描いたというのが面白いと感じたのである。気に入ったので、絵はがきがあったらほしいと思ったほどだが、たしか物販にはなくてあきらめたのだった。もし、絵はがきが売っていて購入していたら、いまごろ、誰かに「あなたはいま、ニセモノをつかまされている!」とでも書いて暑中見舞い代わりに送っていたのに……あ、いや、これは冗談。

 CNNの昨年のレポート(2023年3月18日配信)によれば、贋作師のベルトラッキの手がける絵は、既存の絵画を偽造したのではなく、亡くなった画家たちのスタイルを巧みに模倣した“オリジナル作品”とのことらしい。制作は夫人と共同で行っていたという。その制作プロセスがまた手が込んでおり、夫婦で模造する絵画を観るため世界中の美術館を回ったり、画家たちの手紙や日記、彼らの作品にまつわる学術研究まで調べ上げ、それで得た情報をもとに、作品に関する偽の歴史をでっちあげたという。

 また、絵画を模造するだけでなく、より本物らしく見せるため、フリーマーケットで古い額縁やキャンバスを入手したり、その作品が年代物だと証明するため、1920年代のカメラを使って見た目の古い写真を撮ったりまでしていたらしい。前出の「自転車乗り」には証明書もついていたというから、それもこのように偽造したものだったのだろう。そこまでするなら、現代アートのやりくちにならって、制作の過程を引っくるめて全部作品ということにすればよかったのではないか、という気もするのだが(実際、ピカソポロックの絵画をサンプリングした作品を手がけるマイク・ビドロのような作家もいるのだから)、別の画家の作品として売ったほうがよっぽど儲かるのだろう。

 Wikipedia英語版には、メッツァンジェの手になる真作「自転車レース場にて(原題:Au Vélodrome)」(1911~12年)の項目があり、画像も載っている。これとベルトラッキの贋作(前出の読売記事の画像参照)とくらべると、贋作に描かれた車輪のほうが躍動感にあふれており、どうも私にはこちらのほうが本物っぽく見えてしまう。まあ、そんなふうに感じてしまう自分は、まさにベルトラッキの思うつぼなのだろうが。

 多くのバイヤーやギャラリーがだまされたというだけあって、ベルトラッキの絵の完成度は高く、美術館にだまされるなと責めるのは酷である。贋作をつかまされてしまった美術館は気の毒と言うしかない。ただでさえ、地方の公立美術館の経営状況はどこも厳しいだろうに、この件で美術作品、とくに20世紀以降の作品の購入に行政側が及び腰になり、予算を充てるのを渋ったりしないか心配になる。今後は、購入前のチェックも従来以上に念入りにならざるをえないだろう。とはいえ、それにしたって限界がある。まさか、買ってもいない絵画の塗料を採取して分析してから……なんてことは無理だろうし。

ニール・アームストロング――月着陸30年を経て明かされた真実(初出:「cakes」2012年10月1日)

アメリカが1972年に終了したアポロ計画以来、約半世紀ぶりに始動させた有人月探査「アルテミス計画」において、将来的に日本人宇宙飛行士も月面着陸することが今年(2024年)3月、日米間で合意されました。他方、6月には中国の無人探査機が月の裏側からのサンプルリターン(岩石などの試料の持ち帰り)に史上初めて成功しています。このように月に向けて世界的に関心が高まるなか、日本時間できょう2024年7月21日、1969年のアポロ11号による人類初の月面着陸から55周年を迎えました。これを記念する意味も込め、アポロ11号の船長で、人類で初めて月に降り立ったニール・アームストロングが2012年に82歳で亡くなったときに私が書いた記事を再公開します。

本記事の初出はコンテンツ配信サイト「cakes(ケイクス)」です。私は同サイトでオープンから10年にわたり、「一故人」と題して、そのときどきに亡くなった著名人の足跡をたどる記事を連載してきました。アームストロングをとりあげたのは第1回の浜田幸一に続く第2回目でした。今回の再公開にあたっては、加筆・修正は引用した資料のデータを一部補足するだけにとどめ、あとは初出時のままとしています。

一昨年のcakesの閉鎖にともない、「一故人」の記事は現在、単行本(スモール出版、2017年)に収録したもの以外読めない状態となっています。書いた当人である私もこれには忸怩たる思いでおり、今回の再公開をきっかけに、できれば同連載のすべての記事がこのブログで読めることを目指して、今後も随時こちらに掲載していければと考えています。なお、今回、私にとっては初めての試みとして、cakes初出時には有料公開だったことを踏まえ、大変恐縮ながら、再公開に際しても記事全文を読むには有料とさせていただきます。

本記事執筆にあたって参考にした文献は記事終わりにもあげていますが、有料部分に入っているのでこちらにもあげておきます(ただし、一部は現在入手が容易な文庫版などと差し替えました)。

余談ながら、おととい日本でも公開された『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』という映画は、アポロ11号は月に行かなかったという有名な陰謀論を逆手にとって、エンターテインメントとして楽しめる作品になっているそうです。月着陸をめぐる陰謀論については本記事でも後半で少し触れているので、興味のある方は参考文献にあげた『ファースト・マン』(映画化もされています)などとあわせてお読みいただけると幸いです。

「人が月に行く時代」もいまは昔

ぼくの通った小学校の図書室や学級文庫には、1970年代あたりに書かれた子供向けの本が結構あって、それを読んでいると「人が月に行く時代に……」というのがわりと決まり文句として出てきた記憶がある。しかし、その当時(1980年代)ですらもはや「人が月に行く時代」ではなくなっていた。NASAアメリカ航空宇宙局)の有人月飛行計画であるアポロ計画は、1972年のアポロ17号をもって終了していたからである。

「人が月に行く時代」を今風に言い換えるとしたら何になるだろうか。「人々が電話を持ち歩く時代」「個人がコンピュータを所有し、世界中に発信できる時代」……いくつか思い浮かぶものの、どれもしっくりこない。たしかにこの40年でテクノロジー、とりわけ情報技術は飛躍的に発達をとげたはずだが、月旅行とくらべるとやはりスケール感に欠ける。テクノロジーの進歩を端的に示すという点でも、「人が月に行く」以上のものはなかなかなさそうだ。

人が月に行くという計画はそもそも、1961年5月、前月のソ連による世界初の有人宇宙飛行にアメリカ国民がショックを受けるなか、ときの大統領ジョン・F・ケネディが「1960年代の終わりまでに人間を月に送りこむ」と宣言したことに始まる。はたしてその公約どおり、1969年、アポロ11号により人類初の月着陸が実現した。その船長を務め、月への第一歩を記した人物こそ、去る2012年8月25日に亡くなったニール・アームストロングである。

アームストロングの月着陸をめぐってはいくつか謎が残る。それらの真相を探ってみると、彼の人柄が垣間見える一方で、後世に向けた記録とはどうあるべきか考えさせられたりもする。まずは、あの有名な言葉をめぐる謎について見てみよう。

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2023年

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