きょう2026年7月31日で、昭和の大横綱の一人である千代の富士(亡くなった当時は九重親方)が61歳で死去してから10年が経ちました。これに合わせ、亡くなった翌月にその生涯を振り返った拙稿を再公開します。
なお、本文にかかわる基本的な事柄なので付記しておくと、大相撲の番付は、横綱を頂点として、上から順に大関、関脇、小結の三役、前頭(ここまで幕内)、十両(ここまで関取)、幕下、三段目、序二段、序の口まであります。参考にしていただければ幸いです。
- 昭和の終わりを飾った53連勝
- 角界入りは「飛行機に乗せてやる」の言葉に誘われて
- 自腹を切りタクシーで出稽古にまわる
- 「短命横綱」と予想されながらの奮起
- 一代年寄という名誉を辞退して部屋を継ぐ
- 参考文献
- 2026年追記
昭和の終わりを飾った53連勝
昭和天皇は大の好角家として知られた。大相撲観戦の回数は、学習院初等科から数えるとじつに71回におよぶ。1988(昭和63)年9月18日にも両国国技館を訪れる予定だったが、折から高熱が続いており、大事をとって中止となった。天皇の容体が急変したのはその翌日の夜中のことだった。
このあと昭和天皇の病状は一進一退を繰り返す。9月24日には最初の危篤状態に陥るも、何とか乗り切った。あくる日、意識の戻った天皇は「全勝か」と侍医らに訊ねたという。ちょうど大相撲秋場所の千秋楽で、第58代横綱・千代の富士貢(2016年7月31日没、61歳)の成績を気にしての質問だった。
千代の富士はこの年5月、夏場所の7日目に花乃湖に勝って以来、連勝を続けていた。7月の名古屋場所、そして秋場所と全勝優勝をはたす。これにより優勝回数は25を数え、北の湖(第55代横綱)の記録を上回り大鵬(第48代横綱)の32回に次ぐ歴代2位(当時)となった。それまで連勝など考えもしなかった千代の富士だが、この記録更新で一つ大きな仕事が達成できたと思い、楽な気持ちで相撲が取れるようになったという(『プレジデント』1989年12月号)。
千代の富士の連勝は11月の九州場所にも続いた。7日目には目標に置いていた大鵬の45連勝を抜いて歴代2位(当時)となる。その夜、当の大鵬親方と街でばったり会い、「連勝記録は一番一番の積み重ね。これからも一日一日、大事に取ってもらいたい」と激励された。ファンやマスコミからも、史上最多記録である双葉山の69連勝の更新を期待する声が高まる。本人にはそんな大それたことができるわけがないとの思いもあったというが、大鵬の言葉を胸に着実に連勝を伸ばしていった。14日目には53連勝にまで伸ばして優勝を決める。しかし11月27日の千秋楽、横綱・大乃国(現・芝田山親方)に敗れて双葉山超えはならなかった。
そのあいだ昭和天皇の病状は重くなる一方で、もはや九州場所をテレビ観戦する体力すら残っていなかった。結局、千代の富士が連勝を阻まれた取組が、昭和の大相撲の締めくくりとなる。翌89年1月、昭和天皇は崩御、元号は平成に改まった。千代の富士の目標は、元小結・大潮の持つ通算964勝という記録の更新、さらには前人未到の通算1000勝へと移っていく。
角界入りは「飛行機に乗せてやる」の言葉に誘われて
千代の富士、本名・秋元貢は1955年6月1日、北海道松前郡福島町に生まれた。津軽海峡に面する福島町は、青函トンネルの北海道側の建設基地として栄えた町だ。この町からはまた、第41代横綱の千代の山雅信が輩出されている。スポーツ万能だった秋元少年に力士の素質を最初に見出したのも、千代の山とつきあいのある地元の人たちだった。
地元の関係者から話を聞いて、1970年8月、中学3年生だった秋元少年の家に元千代の山の九重親方がスカウトに訪れる。それまで角界入りをすすめられても「相撲は好きじゃない」と断っていた秋元少年は、親方直々の誘いにも当初気乗りしなかった。しかし「飛行機に乗せてやる」の殺し文句に気持ちが一変する。飛行機のプラモデルをつくるのが好きだった彼は、本物に乗れるというだけで、東京行きを決めたのだった。
九重親方はこのとき地方巡業で福島町に来ていた。その弟子の北の富士勝昭は、ちょうど同年3月に第52代横綱になったばかりだった。北の富士は巡業中に親方から秋元少年と引き合わされ、「坊や、俺の名前を知ってるか」と訊いたところ、「知りません」と言われてガクッと来たという。それほど少年は相撲に興味がなかったのだ。しかし恥ずかしがったりおびえたりもせず、けっして視線をそらさない彼の態度は、北の富士に強い印象を残した(『文藝春秋』1989年12月号)。
上京した秋元少年は、9月の秋場所の新弟子検査に合格して、本名の「秋元」で初土俵を踏む。続く11月の九州場所は「大秋元」、さらに翌71年1月の初場所に際して「千代の冨士」の四股名を親方より与えられた(千代の「富」士となったのは75年初場所)。だが、もともと陸上でオリンピック出場を夢見ていた彼は、いまひとつ相撲になじめなかった。転入した台東区立福井中学では、区立中学連合の陸上競技大会に出場し、あこがれの国立競技場にて砲丸投げで2位に入賞までしている。そもそも約束では中学卒業まで相撲をやって、いったん北海道に帰り、それから先は相談して決めることになっていた。千代の富士は71年の春場所が終わると、郷里の高校に入って陸上に打ちこむつもりで、荷物も実家へ送り帰してしまった。あわてた九重親方は、何とか東京に引きとめるべく、明治大学付属中野高校に入学させる。
しかし高校では陸上部ではなく、相撲部に入れさせられた。しかも通学するうちに学業と相撲の両立の難しさに気づく。結局、高校は半年で退学し、相撲一本で行くことを決心した。これに親方は泣いて喜んでくれたという。
1971年の九州場所では三段目に昇進しながら、場所前の稽古中の骨折により全休、翌年の初場所には序二段に逆戻りする。それでも千代の富士は、けがの回復とともに猛烈な闘志で稽古に励み出した。兄弟子の北の富士から「オオカミ」というあだ名をつけられたのはこのころだ。一説には目をランランと光らせながら稽古する姿からつけられたとも、あるいはチャンコを鉈みたいなものを持ってつくっていたところからの命名とも伝えられる。いずれにせよ、つけられた本人はあまり気に入らなかったらしい。オオカミは昔話などで悪役のイメージが強いからだ。やがてオオカミでは言いにくいと、英語の「ウルフ」に変わり、これがのちの横綱昇進前後に一般にも広まっていった。
自腹を切りタクシーで出稽古にまわる
幕下時代の千代の富士の写真を見ると、痩身で鋭い目つきをしており、たしかにオオカミにそっくりだ。しかし彼には大きな弱点があった。それは肩だ。幕下となっていた1973年夏場所で左肩を脱臼してからというもの、何度も肩を抜いては休場を余儀なくされた。もともと肩の関節のかみ合わせが浅く、根本的に治すには手術をするしかないと医者から言われていたという。しかし手術するカネも、回復まで待てる時間も、若い千代の富士にはなかった。
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