書評:『夢をかなえるゾウ』水野敬也著

 2008年の大ベストセラー(本年書籍売り上げ第2位を記録)になった本書。その内容は、水野家に代々口伝されてきた家訓を小説仕立てで紹介したものである。
 すでによく知られているように、著者は、江戸幕府で老中を務めた水野忠之水野忠邦といった人物らの末裔にあたる。今回おおやけにされた水野家の口伝は、享保2年(1717)、8代将軍・吉宗直々に勝手掛老中に任命され、逼迫しつつあった財政の再建、いわゆる「享保の改革」を推し進めた忠之より伝わるものだ。
 忠之からの言い伝えを一言でいうなら、「夢をかなえたいなら、地に足をつけて生きろ」となろうか。これには、忠之自身の苦い経験が反映されている。
 享保の改革で忠之らは、「米価安の諸色高(しょしきだか)」、すなわち米の価格が安いにもかかわらずほかの商品の価格は高騰するという現象を解決するべく、さまざまな政策をとった。その一つが空米(からまい)取引(米の先物取引。「不実商」ともいった)の解禁である。空米取引は米価の高騰を防ぐため、4代将軍・家綱以来禁止されていたものだが、享保年間、幕府は米の仮需要を拡大するべくこれを緩和、さらには積極的に奨励し、そのための市場として大坂・堂島に米市場を開設した。ちなみに、堂島米市場での米の先物取引は、現代のデリバティブ取引のルーツともいわれている。
 さて、このほかにも忠之は、米価安を打開するためさまざまな手を打ったが、なかなか成果は上がらず、最終的に忠之は、病がちであるとの理由で突如老中職を解かれてしまう。事実上の罷免であり、吉宗が責任を忠之一人にかぶせたというのがその真相といってよい。忠之の心中はいかばかりだったか。くだんの口伝によれば、忠之は解任後ひそかに、当時浜御殿で飼育されていたゾウのもとを何度となく訪ねていたという。
 このゾウというのは、清の商人を通じて将軍吉宗がベトナムから買い入れたもので、享保13年(1728)から翌年にかけて、長崎(当地では牡・牝の二頭連れてこられたうち牝が死亡している)から京での天皇謁見を経て、江戸に到着した。吉宗が謁見したのち、ゾウは「御用済み」を申し渡されたものの引き取り手がなく、浜御殿で引き続き飼われていたという。このゾウが幕府より用済みとされたのが享保15年、くしくも水野忠之罷免と同年である。忠之はこのゾウと自分とを重ね合わせていたのだろうか。
 口伝によれば、忠之ははじめ、ゾウを相手に吉宗に対する憤りなどを口にしていたが、そのうちに、ゾウの言葉を解するようになったという。というか、ゾウはある日突如口をきいたらしい。ゾウもまた長年の異国暮らしに疲れていたのだろう、愚痴を忠之に対し漏らしたという。しかし、ある夜、忠之に辛辣なことばを投げかける。それが結果的に彼とゾウとの最後の対面となった。
 最後の夜に忠之がゾウから言われたこととは何だったのか。水野家口伝によると忠之は、自身の推進してきた米価安対策のうち、空米取引の奨励を厳しく諌められたようだ。
 いわく、「まったく、実際に形もなーんもないもんに、カネを注ぎ込むのを認めるどころか勧めるなんて、どうかしてまっせ。そりゃ商いちゃう、バクチや。人間、目に見えんもんばっか追いかけてると、いずれ泣きをみるで。いや、ほんまに。もちろん夢はあってもええけど、それを実現するにはやっぱり、地に足つけて少しずつ目標を達成していくしか道はないんやで〜」と(ゾウは不思議なことに、ベトナム語ではなく流暢な関西弁で話したと伝えられる)。
 このことばを忠之は心に深くとどめ、以後、子孫に代々伝えていくよう家の者たちに言い遺して、翌16年に死去した。なお、ゾウはそれから10年後に中野の農民に下げ渡されたのち一年も経たずして死んだという。
 この先祖の教えを実践したのが、忠之と同様、幕府老中として財政再建、いわゆる「天保の改革」を推し進めた水野忠邦である。忠邦がこの改革において、贅沢品や風俗を厳しく取り締まったのも、上記のような先祖より伝わるゾウの教えを守ったものと思えば合点がゆくはずだ。
 それにしても、水野敬也氏はなぜいまになって、300年近く一族のあいだだけで伝えられてきた教えを公表したのだろうか。それは、あまりにもアメリカ式の市場原理主義が世界経済を支配し、カネが実体からかけ離れたところで動くようになってしまったことへの危惧があったものと思われる。
 偶然というべきか、本書がどんどんと部数を伸ばしているころ、2008年9月のアメリカのリーマン・ブラザーズの経営破綻を発端に、金融危機が世界中を駆けめぐった。忠之に教えを説いたあのゾウは、まさに今日の事態を予見していたのではないだろうか。そう思うと、本書の伝えるものの意味がさらに重いもののように感じられる。この本はまさに出るべきときに出た本、売れるべくして売れた本、といえそうだ。(2008年12月)
※本日は4月1日です!

夢をかなえるゾウ

夢をかなえるゾウ