見る前に跳ぶか、跳んでから見るか

目下抱えた原稿の資料として、中村彰彦『烈士と呼ばれる男 ――森田必勝の物語』(文春文庫)を流し読み。改行が多いので、遅読のぼくにもすらすら読める。
森田必勝とはいうまでもなく、三島由紀夫の結成した私設軍隊「楯の会」のメンバーのひとりであり、あの市ヶ谷でのクーデター決起事件で三島を介錯したのちすぐそのあとを追った青年である。
同書によれば、三島が森田をああいう結末へと導いていったのではなく、むしろ逆に森田が三島をグイグイと引っぱっていったのではないかという。事実、それを裏づけるような証言を著者は何人かの関係者たちから引き出している。
この本を読むかぎりでは、森田は思想よりも行動が先に立つ、――大江健三郎の短編のタイトルではないが――まさに「見る前に跳ぶ」タイプの青年だったようだ。
たしかに三島由紀夫も行動するタイプの作家ではあった。けれども、その本質はやはりかなり観念的な人物だったのではないかと思う。そんな三島が、あれこれ考えるよりもまず行動してしまう森田に憧れやコンプレックスを抱いたというのも、考えられないことではない。
しかし、この評伝、興味深かったことはたしかなのだが、いささか食い足りないところもある。たとえば、森田とは早稲田大学の先輩であり、三島事件後に新右翼団体「一水会」を結成することになる鈴木邦男などとの関係について、この本では一切触れられていないのはなぜなんだろうか? どうもこの本を読んだだけでは、森田と三島の死によって、彼らの思想や行動が継承されることなく、一切が断ち切られてしまったかのような印象を受けるのだが。