“新人類生産者”としての中森明夫

http://d.hatena.ne.jp/solar/20040302
高校時代に『SPA!』の連載「中森文化新聞」でライターとしてデビューし、当時創刊したばかりだった『Quick Japan』編集部(といってもまだ編集長の赤田さんしかいなかったわけだけど)を紹介してもらうなど中森明夫氏には少なからぬ恩恵を受けているぼくとしては*1仲俣暁生氏の上記URLでの中森批判を複雑な気持ちで読んだ。的を得た批判であるだけ、よけいに。
中森氏の新刊『東京アリス』は、『SPA!』の「美女研究所」にてプロモーション的に掲載されたものしか見ていないけれども、相変わらずだなあと思うとともに、毎週各ジャンルで活躍する人たちが人気アイドルなどをプロデュースするというコンセプトのこの企画において、正直いって中森氏の回はいかにも古くさく感じられた*2。中森さんにとってはそれこそ「80年代に殉じる」ということなのかもしれないが。そういえば、ぼくが『QJ』の編集部に入ったばかりのころ(1995年)には、中森さんは『東京トンガリキッズ』の続編的な企画(といっても小説ではない)を同誌で行なっているのだが、読者……中でもかつて『宝島』で『トンガリキッズ』を読んでいたような年代(当時20代前半ぐらいか)の読者から特に反発の声があがったことを記憶している。結局のところ、『トンガリキッズ』的なものは95年ぐらいにはすでに若い世代の感覚とズレ始めていたのではないだろうか。
とはいえ、これらの事例から中森氏を「過去の人」だと一言で切り捨ててしまうのはどうかとも思う。ぼくがそう思うのは、中森さんのこれまでの仕事として、80年代以来彼がずっと若い才能を世に送り出す手助けをしてきたことをやはり見過ごすわけにはいかないと考えるからだ*3。それこそ『東京おとなクラブ』周辺から出てきた宅八郎・菅付雅信・石丸元章の各氏の「新・新人類」にはじまって、「中森文化新聞」でとりあげられた『完全自殺マニュアル』の鶴見済氏や角川短歌賞“落選”の枡野浩一氏など多くの書き手や、さらには97年に国民的美少女コンテストで審査員特別賞を受賞した上戸彩にいたるまで、やはり中森氏がいないことには出てこなかった、出てきたにしてもおそらくまた違った形で出てきたであろう人材は各界にたくさんいる。才能や人材というのは口はばったいが、ぼく自身、彼がいなければいま出版の世界で働いていなかったかもしれないし、少なくとも10代の終わりに『QJ』の編集アシスタントを務めるという貴重な体験はできなかった。しかしそれらの事実まで彼が「過去の人」扱いされることによって忘れ去られてしまうのは、あまりに忍びない。
おそらく中森氏が「80年代に殉じる」というのには、「新人類として世に出てきた自分の立場をまっとうする」という意味も含まれているのではないだろうか。たとえば中森氏は10年ほど前にとある週刊誌のインタビューで、「新人類なんてすぐ消えるとよくいわれたが、宅八郎や『完全自殺マニュアル』などが出てくると、自分が新人類を増やせばいいんだと思うようになった」といった主旨の発言をしている。すると『SPA!』の「中森文化新聞」などは、まさに“新人類養成所”ともいうべき場だったのだろう。その意味では、「新人類の旗手たち」という連載で新人類の語を流行らせた(とされる)筑紫哲也編集長時代の『朝日ジャーナル』的なものを引き継いだのは中森明夫だったともいえるかもしれない*4。たしかに「中森文化新聞」に登場する人々のほとんどは、大塚英志氏が近著『「おたく」の精神史』で「新人類の旗手たち」について指摘していたのと同じく、「いまだ何者でもなかった」。また先述の鶴見氏や枡野氏のように、彼らをめぐるできごとが「事件」としてとりあげられることも多く、それをうさんくさく感じる人も少なくなかったかもしれない*5。しかしそれも中森氏が別のところで語っているように、《あのページは本当に少ないページだし、二週間に一回の連載だから*6、分かりやすくあざとく売りたいという気持ちがすごくあるから。わざと過剰にやっている部分がある》(田村章中森明夫山崎浩一『だからこそライターになって欲しい人のためのブックガイド』太田出版、1995年)というような事情からだった。まあそういったあざとさが大塚氏などには《「企画書」的なサブカル・ジャーナリズム》(『「おたく」の精神史』)の急先鋒として映ったであろうことは、想像に難くないが。
……と、そんなことをうだうだ書いている最中に、偶然にもぼくと同様「中森文化新聞」出身の“東京解析男”塚本色夢氏からHP紹介のメールをいただき驚いてしまった。せっかくなのでそのURLを貼っておくことにする。
http://www26.tok2.com/home/TokyoWanderAbout/
「中森文化新聞」から登場した人の中には現在も表舞台で活躍する人がいる一方で、表舞台から消えてしまった人、または塚本氏のように表舞台ではけっしてないけれど、一貫して自分の活動に打ち込んでいる人や、あるいはぼくのように何かよくわかんないけど業界の片隅でうだうだと活動を続けている人間まで色々といると思う。
そもそも「中森文化新聞」と赤田祐一氏が創刊した『Quick Japan』は、『SPA!』で1991年末に大々的に組まれた特集「サブカルチャー終戦争」に端を発する(両者ともこの特集で初めて告知が打たれたのだった)。「サブカルチャーは死んだのか?」と冒頭で疑問を投げかけたこの特集では*7、《サブカルチャーとは、もはや〈subculture〉ではなく〈suvculture〉=(survival-cultureの略)である。サバイバル・カルチャー、それは生き残った文化、生き残り続けるカルチャーだ》(『SPA!』1991年12月25日号)との見解が示されていた。では、果たしてこの10数年で何が生き残ったのだろうか? 生き残ったものたちこそが現在の文化を代表すると言い切ってしまってもいいのか……。それを検証してみる価値はちょっとぐらいはあるかもしれない。少なくともぼくにとっては自分の足元を見つめるという意味でけっこう重要なことなんじゃないかと思っている。

*1:これはそもそも高校時代に地元のラジオ局で番組のDJを務めていたライターの石丸元章氏にインタビューしたレポートを、『QJ』と「中森文化新聞」へ投稿したことがきっかけとなっている。ちなみに石丸氏は中森氏の弟子的存在であり、かつて「新・新人類」と呼ばれたこともある。そう考えるとぼくは新人類とは直系の関係なのだ。いっそ「第三の新人類」とでも名乗ってやろうか(笑)。

*2:仲俣氏も指摘しているように、ぼくも大塚英志氏の『「おたく」の精神史』での第2章「少女フェミニズムの隘路」を読んで、これは『東京アリス』批判として読むことができると思った。

*3:まあこれは中森氏にかぎったことではなく、ササキバラ・ゴウ氏のこの文章などを読むと、いわゆる新人類・おたく第一次世代には面倒見のいい人が多いようにも思うのだが。

*4:『朝ジャ』の「新人類の旗手たち」のあとの企画が「元気印の女たち」であり、中森氏の『SPA!』でのもう一つの連載が「ニュースな女たち」だったことを考えるとさらにその思いを強くするのだが。なお、『朝日ジャーナル』的なものを継承したのが『SPA!』だという捉え方は、『朝ジャ』休刊時における四方田犬彦の『SPA!』でのコラムや、別冊宝島の『雑誌狂時代』での神足裕司の論考などにすでに見られる。こうした言にしたがえば、現在の『SPA!』で連載中のインタビューシリーズ「エッジな人々」は、さしずめ現代版「若者たちの神々」ということになろうか。

*5:ぼくが初めて登場した時の見出しなんか「17歳の文化大革命宣言!」だもんなー。うさんくさいったらありゃしない(笑)。

*6:この発言当時には同連載は隔週・3ページだったが、のちに2ページで毎週の連載となる。

*7:同時期にはちょうどパルコの『アクロス』で宮台真司氏らが「サブカルチャー神話解体」を連載していたはずで、やはりバブル崩壊とも重なるこの時期が日本の若者文化の一つの曲がり角だったのだろう。