Culture Vulture

ライター・近藤正高のブログ

男の子女の子

大して好きでもないのに、それなりに読むところはあるからと毎月買ってしまう『Invitation』を今月も買う。今月号からデザイナーが変わったのか、表紙も誌面も微妙にリニューアルされていることに気づく。表紙は何だか『婦人公論』みたい(ひょっとしてデザイナーが一緒なのかしら?)。だけど日本映画での女優たちの活躍にスポットを当てるという特集は、いかにも男の発想よねえ。たしか同誌は先々月号でも少女特集を組んでいて、あたしなんか、店頭で見た時「ああこうして少年たちは無視されるのね」なんて思ったんだけど。今月号の表紙にいたっては「日本男児よ、これでいいのか!」なんてキャッチが掲げられてて、これってもう『週プレ』じゃない?(笑)
……思わず口ぶりが女性口調になってしまった。元に戻すと、男性誌ではないはずの『Invitation』からしてそんな感じなのだから、出版も含めたメディアの世界というのはまだまだ男社会なんだなーと思う。90年代のコギャルブームなんか、オヤジのスケベ根性のタマモノでしかないだろうし。コギャルたち自身もそういうメディア環境に見事に適応したというか、ある意味、メディアの中での彼女たちはオヤジたちの望むとおりに立ち振る舞っていたような気がする。極端な話、90年代のメディアには30代後半〜40代前半の新人類オヤジと女子高生しかいなかったでしょ? それって援助交際とまったく同じ構図じゃん! とぼくなんかは思うわけですが。まあその構図は、90年代末におけるコギャルの衰退でまず一方が崩れ、ここ最近の新人類オヤジの息切れで完全に崩壊しつつあるんじゃないでしょうか。
そう考えると、いま文学の世界なんかで起きているのはいわば、メディア=オヤジの操作をスルリと交わす女の子たちと、コギャル全盛期に目を向けられなかった男の子たちとの拮抗というか、そんな状況なのではないだろうか。その意味でも、今度の山本周五郎賞乙一が受賞すると面白いんだけど。そうそう、次号の『Quick Japan』はライトノベル特集らしいし、乙一さんが受賞したらまた売れるね(笑)。
少女作家といえば、今月号の『中央公論』(http://www.chuko.co.jp/koron/)がいまさらながら「芥川賞現象」……というか「綿矢りさ現象」をちょっと取り上げていた。とりあえず本屋で筒井康隆の「文壇で『モーニング娘。』を作ってどうする」と題する記事だけを立ち読み(といってもこれ、筒井自身が書いたのではなく、インタビューを記者がまとめたものだった)。乱暴に要約すれば、筒井康隆はようするに「さして小説が好きでもないやつが小説を書くんじゃねーよ。小説なんていくら頭がよくても小説を読んでなきゃ書けないんだから」と言いたいらしい。あれっ、これと似たようなことを誰かが言っていたような……と思い出してみたら、そういや、あの人が以前こんな発言をしてたっけ。

僕は実は、他分野で活躍してる人に小説を書かせてみる、とかいう試みには興味がないんですよ。僕の感じでは、小説を書くにはまず言葉が好きじゃなくていけなくて、「言葉が好きだ」っていうのはちょっと独特の体験なんですよね。
(中略)
90年代の頃はまだ文芸誌を真面目に読んでいたんだけど、柳(美里―引用者注)さんは演劇、辻仁成は音楽、鈴木清剛はファッション、中原昌也は音楽、町田康も音楽、阿部(和重―同)さんは映画……って考えていくと、「おいおい、どこに小説そのものを好きな奴がいるんだよ」みたいな感じで、ちょっと頭が痛かったんですよ。これはもしかしたら、俺がいちばん真面目に小説を読んでいるのではないか、と。
 山:それは明らかにそうだと思いますけど(笑)。
東:いや、そんなことはないと思うけどね。本当に。
東浩紀氏インタビュー「はてな・文学・80年代」、『Kluster』創刊号、2003年11月)

【追記】東さんご自身から指摘を受けて、改めて『Kluster』創刊号でのインタビューを読み返してみたのだけれども、どっちかというと上に引用した箇所よりもそのあとの部分のほうが、『中央公論』で筒井康隆が憂えていることと共通するところがあるかもしれない。というわけで改めて引用。(2004.5.12)

僕は映画とか音楽はジャンルとして好きじゃないわけ。良いものしか観たくないし聴きたくないから。でも僕は小説はかなりクズを読んでる。無論、マニアの方々には適いませんよ(笑)。でも、今でも古本屋に行くと、何とかノベルズの宇宙人がどうこうとか、結構買い込んで寝る前に読んでたりするわけ(笑)。こんなの全然仕事にならないわけだけど、そういう蓄積を持ってる人がやっぱり小説を好きだと言えると思うわけですね。ところが、そういう蓄積、つまり、決して一生言及することがないようなクズ小説を、中高時代に一生懸命読んでしまった経験をもつような連中が、ある時期以降の文芸誌の世界には流れ込まないようになっていった感じがするんですよ。
 だから文芸誌は、他の所から才能を持ってくるしかなくなった。そしてそれが終わっちゃったら、今度は「若々しい十代の感性」というわけだ。「ちょっと待ってくれよ」って思わない? 最近も『アイコ一六歳』再び、みたいな戦略見え見えなわけじゃない? いや、別に彼女たち自身がどうと言っているわけじゃないですよ。バカなのはそういう戦略で何かやった気になっている連中です。
(出典、同上)