戦後は59歳を迎えた

終戦の日。今年は一応戦後59年ということになるが、果たして来年、戦後60年*1と無邪気に騒ぐことはできるのだろうか?
とりあえず来年予定通り(?)戦後60年を迎え、各テレビ局で記念特番が組まれるとして、そこで従来通りのありきたりな戦後回顧/懐古などをされてもあまり意味のないことだと思う。ぼくとしては、そんなことをやるぐらいだったらむしろ、これまで戦後20年・戦後30年・戦後40年・戦後50年と節目の年に放映された戦後回顧番組をそのまま流してくれたほうがよっぽど面白い。各年の番組を通して見ることによって、時が経つごとに戦後のとらえ方というのは大きく変化したのか否か、変化したとすればそれはいつなのか? そういったことも検証できると思うのだ。
ところで偶然気づいたのだけれども、戦後20年の1965年も、戦後30年の1975年も、戦後40年の1985年も、戦後50年の1995年も、いずれも不景気の年ではなかったか。65年は前年に東京オリンピックの開催を終え、それまでの建設ラッシュが一時的に退潮したことなどによるいわゆる「オリンピック不況」の年であり、赤字国債が初めて発行され、また山一證券の経営危機に対し政府が緊急支援を行なった年でもあった(ただしこの年の後半には早くも景気は回復し、「いざなぎ景気」という長い好景気へと入る)。75年は2年前の第一次オイルショックより続く不況の最中であり(当時戦後最大と言われた興人の倒産や、造船不況が始まったのもこの年)、85年はプラザ合意による急激な円高が輸出産業にダメージを与えた「円高不況」の年だった(それでも政府の低金利政策などにより翌年末には好況に転じ、バブルの時代に突入するわけだが)。そして95年にいたっては、バブル崩壊後の不況に加え、阪神大震災オウム事件と世相的にも閉塞感が強まった。
これはちょっと考えすぎかもしれないが、国民が一丸となって廃墟の中から立ち上がり驚異的な経済発展を成し遂げた――というのが、「戦後」というおおまかな物語だとすれば、その節目である「戦後X0年」と、経済的に停滞している不況時とが奇しくも重なることによって、こうした物語が必要以上に大袈裟に喧伝され(たとえば「われわれは戦後、こうして成功を成し遂げたのだ。だからこのぐらいの不況などなんてことはない、また立ち上がれ!」といった調子で)、日本人をさらなる経済活動へと駆り立てた……といったことは考えられないだろうか? もちろんこの物語も、バブル崩壊後の不況という経済的なダメージのみならず、震災・オウムという精神的なダメージを日本人が受けた95年以降にあっては、とっくに無効となっているはずである(それでも『プロジェクトX』みたいな「成功物語」がウケるというのは一体どういうことなのか)。
とすれば、戦後60年を迎えるはずの来年2005年に果たして戦後はどのように語られるのか? その語られ方の一つとして、これまで戦後という時代がいかに語られてきたかを語るといったメタな方法も十分に有効だと思うのだが。

*1:60年も経つのにいまさら「戦後」でもないだろうという向きもあるかもしれないが。