石原慎太郎と河野洋平の和解?

東京マラソンのゴール地点で石原慎太郎河野洋平が仲よさそうに並んでいるのを見て、沢木耕太郎の「シジフォスの四十日」(『馬車は走る』文春文庫所収)を思い出した。同作は1975年、初めて東京都知事選に出馬した石原を追ったルポルタージュである。
このときの選挙で、石原の参謀を務めた浅利慶太(石原と浅利は60年安保闘争の際の「若い日本の会」への参加、その後の日生劇場の創設などことあるごとにタッグを組んできた)は、

  • 三選をめざす現職の美濃部亮吉に対し、この闘いを「保守か革新か」ではなく、「若い世代か老人たちか」というテーマに組み替えることができる。
  • ハト派の代表格だった河野を連れてくることで、美濃部陣営の「石原の体質はファッショ的だ」という攻撃をある程度かわすことができる。

といった理由から、応援演説に河野をなんとしてでも連れてきたかったという。
だが結局、河野はこの要請を「自分ひとりでは答を出せないから」とことわっている。

(引用者注―河野が)仲間たちに相談すると全員が反対だった。青嵐会時代の石原らに受けた侮辱には誰もが許せない気持を持っていたからだ。
 ※沢木、前掲書

しかしきょうの両者を見て、そんなわだかまりはとっくの昔に消えてしまったように思えた。事実、東京マラソン組織委員会が発足した2006年4月の時点で、都知事である石原と日本陸連の会長である河野は協力関係を結んでいる。
こうした両者の歩み寄りは、まさにスポーツは政治的対立をも乗り越えさせるということのなによりの証しではないか。
……などと受け取るのはちょっと人がよすぎよう。おそらくは、時が解決したというか、ようするにかたや東京都知事(しかも三期目)、かたや衆議院議長というふうに、両者とも政治家として「あがり」にまでのぼりつめてしまったからこそ、もはや対立することが無意味になったまで、ということではないだろうか。
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話はそれるが、沢木耕太郎の「シジフォスの四十日」は、その後の70年代末から80年代にかけての政治を考える上でも非常に興味深い。
というのも、都知事選初出馬の石原のためブレーンとして結集した浅利をはじめ、牛尾治朗黒川紀章などといった面々はそのまま、その後、大平正芳内閣で「近代以後」の日本の方針を多方面から検討する目的で「政策研究会」が発足したり、さらに中曽根康弘内閣で各種審議会や閣僚の私的諮問委員会がフルに活用されるなかで、ブレーンとして重要な位置を占めることとなったからだ。
そう考えると、石原が1975年の都知事選に出馬したことは、当選のいかんを問わず、まずは今後の保守政治で活用できそうな人材を見出し、その力量を測るために、当時の自民党首脳陣がしかけたのではないか、などという深読みもしたくなる。石原に出馬を積極的にすすめたのが中曽根康弘だということからして、どうも怪しいではないか。