宏池会の法則

 自民党が危機のときには、宏池会出身者が捨石になるの法則。
 宏池会というのは、もともと池田勇人を首相にするために結成されたもので、池田が1960年に首相に就任したのちも自民党の一派閥として、池田―前尾繁三郎大平正芳と継承されていくことになる。とりわけ大平時代の1970年代は、党内最大派閥だった田中(角栄)派と結束するいっぽうで、福田(赳夫)派、三木(武夫)派など反主流派と激しい権力闘争を繰り広げた。
 大平は首相在任中の1979年秋の総選挙で、自民党ロッキード事件発覚直後の前回よりも一議席減らし(選挙後、無所属の当選者を追加公認してかろうじて過半数を維持)、その責任をめぐって党内で「40日抗争」が勃発する。さらに翌80年には野党の提出した内閣不信任案が自民非主流派の決議欠席により可決してしまう。大平は衆院を解散し再度総選挙にのぞむも、選挙戦中に死去。結果的に自民は大勝、党内抗争も一区切りつくことになったのはなんとも皮肉である。宏池会の「捨石」の系譜はここから始まったといっていい。
 その後も、自民単独政権最後の首相となった宮沢喜一自民党の総裁では初めて首相になれなかった河野洋平森内閣に対する野党の不信任案に同調しようとするも果たせなかった加藤紘一、そして先の総選挙で民主党に政権を明け渡すことになった麻生太郎と、宏池会出身の政治家たちはそのときどきで「捨石」となった。
 この法則からすれば、自民党の次期総裁は、谷垣禎一河野太郎ということになる。どちらかといえば、大平の秘蔵っ子である加藤に師事した谷垣のほうが宏池会の本流といえるだろうか。かねてより消費税の引き上げを明言している谷垣には、消費税の導入を初めて提唱した(それゆえに選挙で負けた)大平の正統な後継者であるという強い自認がありそうだし。

総理の品格―官邸秘書官が見た歴代宰相の素顔

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池田勇人以来、四代の首相につかえた宏池会元事務局長の著書。