「『国のかたち』を問うた2012年物故者たち」補遺

 ソフトバンク クリエイティブの「ビジスタニュース」で毎年末、その一年間に亡くなった著名人を回顧する記事を担当するようになって早5年目を迎えます。昨年以前、過去4年分の原稿は下記のとおり。

 そして今年は「『国のかたち』を問うた2012年物故者たち」と題し、去る27日深夜に掲載されました。

 このエントリでは、本編ではスペースの都合や構成上とりあげられなかった物故者、エピソードを外伝的に紹介するとともに、参考文献などもあげておきたいと思います。
 まず、基本資料としては毎年のように下記のものを参照しています。

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 2011年、中国から東京の上野動物園に新たなパンダ2頭が貸し出された。1年後、その子供が生まれたものの、生後わずか6日目で肺炎によいり死亡、その繁殖、飼育のむずかしさをあらためて感じさせた。
 40年前の1972年、日中国交正常化を記念して初めてパンダが来日した際、ほとんど情報がないなかで試行錯誤しながらその飼育にあたったのが、当時上野動物園の飼育課長でのちに多摩動物公園の園長などを務めた中川志郎(7/16。以下、カッコ内の日付は故人の命日を示す)である。

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 原田正純(6/11)は1960年以来、水俣病の調査研究、患者の支援を続け、近年はこの公害が突きつけた問題を普遍化しようと「水俣学」を提唱した。自ら白血病と闘いながら、亡くなる直前まで患者たちの支援に奔走する姿は、没後放映されたNHK教育のドキュメンタリーでも紹介されていた。

 水俣病の未認定患者の問題の背景には、水俣病に対する根深い差別や偏見がある。一方、これは感染症ではあるが、ハンセン病に対しても長らく偏見がつきまとった。ハンセン病訴訟全国原告団協議会の会長を務めた曽我野一美(11/23)は、粘り強い運動により、差別を生んだ原因である隔離政策を改めさせたのち、元患者らに対する国の責任を追及した。
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 伊藤エミ(6/15)・ユミによる双子の姉妹デュオ「ザ・ピーナッツ」の出演した映画『モスラ』(1961年)については、小野俊太郎モスラの精神史』講談社現代新書、2007年)を参照した。
 ちなみに『モスラ』の原作小説は、中村真一郎福永武彦堀田善衛という戦後派文学の作家たちによって手がけられた。このうち堀田の芥川賞受賞作『広場の孤独』は、受賞の翌年の1953年、津島恵子(8/1)主演により映画化された。本編でも書いたように、同作は俳優の小沢昭一(12/10)の映画デビュー作でもある。
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 吉本隆明(3/16)については、その著書である『共同幻想論』(角川ソフィア文庫)や、同書の刊行(1968年)前後に吉本が行なった講演などを収録した『吉本隆明全著作集』第14巻』(勁草書房、1972年)のほか、「共同幻想再論」という一章を設けた武田徹の『偽満州国論』(中公文庫、2005年)を参照した。とりわけ『偽満州国論』は、吉本が「共同幻想」や「逆立」といった独特の用語を、明確に定義することなく使用していたことに着目し、そこに宮沢賢治の影響を見てとるなど興味深い指摘が多い。
 吉本隆明に関しては、亡くなってまもなく、エキレビでもその仕事を振り返っているので、ご一読いただければ幸いである。

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 上山春平(8/3)については主に、『上山春平著作集 』第1巻法蔵館、1996年)所収の「論理から国家へ 一九八四年の退官記念講演」を参照した。京大退官にあたり、論理学から国家論へと発展した自らの研究の足跡を語ったものである。
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 パティ・ロイ・ベーツ(10/9)が“建国”した「シーランド公国」については、『国マニア 世界の珍国、奇妙な地域へ!』(ちくま文庫、2010年)にくわしい。同書は、わたしがエキレビに寄せた最初の記事でも紹介している。

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 ノロドム・シアヌーク(10/15)の記述は、「cakes」での拙連載「ノロドム・シアヌーク――「気まぐれ殿下」がカンボジアにもたらしたもの」でも引用した冨山泰『カンボジア戦記 民族和解への道』中公新書、1992年)を主に参照した。
 なお上記「一故人」での参考文献のひとつ「シハヌーク 最長不倒の人」(別冊宝島EX『英雄たちのアジア』JICC出版局、1993年)の執筆者で、日本におけるベトナム史研究の第一人者であった桜井由躬雄も、今年12月17日に亡くなっている。
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 寛仁親王(6/6)は雑誌への寄稿も多かったが、拙稿では「美しい日本 「開かれた皇室」より「静かなる皇室」」(『文藝春秋』2003年9月号)、また工藤美代子による『Voice』誌でのインタビュー(2008年、連続9回)を参照にした。
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 井上ひさしの『吉里吉里人』や北杜夫の『楡家の人びと』といった各作家の代表作は、彼らの亡くなったあとその文庫版が帯を変えて増刷されたが、同じ新潮文庫に収録されながら丸谷才一(10/13)の長編『裏声で歌へ君が代』(新潮社、1982年/新潮文庫、1990年)がいまだに版元品切れとは、どういうことだろう。
 邱永漢(5/16)の直木賞受賞作『香港』をはじめとする初期短編は『邱永漢 短篇小説傑作選―見えない国境線』(新潮社、1994年)という一冊にまとめられている。台湾に生まれ日本で学び、その後イギリス領だった香港に一時亡命するという波瀾に富んだその青年時代については、『中央公論』1993年6月号〜10月号で連載された「わが青春の台湾」に詳述されている。
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 本文でとりあげたテオ・アンゲロプロス(1/24)の代表作のひとつ『ユリシーズの瞳』は、『テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX II』に収録されている。
 若松孝二(10/17)の近年の2作も以下のとおりDVD化されている。

 最新作『千年の愉楽』は2012年秋の公開予定だったのが2013年春に延期された矢先、監督の訃報があった。中上健次の同名小説を原作としたこの映画は、来年1月6日にロケ地となった三重県で先行上映されたのち、全国で公開予定だという。詳細はオフィシャルサイトを参照。
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 石岡瑛子(1/21)が美術を担当した映画『Mishima: A Life in Four Chapters』については、エキレビの拙記事でとりあげたことがある。

 この映画に端を発する、石岡の国際的な活動はその著書『私 デザイン』(講談社、2005年)にくわしい。
 また、彼女の存在を一躍知らしめたパルコでの仕事は、『パルコのアド・ワーク―1969〜1979』(パルコ出版、1979年)にまとめられている。パルコの広告には、ドミニク・サンダフェイ・ダナウェイなど海外の有名な女優があいついで出演して話題になった。このうちドミニク・サンダ出演にあたっては、そのセッティングに作家の虫明亜呂無がかかわっているという(虫明のエッセイ集『女の足指と電話機 回想の女優たち』清流出版、2009年参照)。虫明はその連載小説の挿絵を依頼するなど、早くから石岡と親交があった。
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 森稔(3/8)については、『週刊ポスト』2012年4月13日号の追悼記事「ヒルズ神話 膨張する野望」では、本文でも少し触れた弟の森章(森トラスト社長)との関係など生臭い話も含め、その功罪が言及されている。森は生前、松島茂・竹中治堅編『バブル/デフレ期の日本経済と経済政策(歴史編)3 日本経済の記録 時代証言集(オーラル・ヒストリー)』でも、自身の足跡を語っている。
 森が六本木ヒルズの森タワーに設けた森美術館には、現代美術キュレーターの東谷隆司(10/16)も一時期所属し、その開館直後に開催された「六本木クロッシング2004」などに参画した。日本における同時代の美術の紹介者としては、東京・青山のワタリウム美術館(1990年開館)の和多利志津子(12/1)の訃報も記憶に新しい。

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 日本初の超高層ビル霞が関ビル」(1968年)を設計した台湾出身の建築家の郭茂林(4/7)は、その後も、東京・浜松町の世界貿易センタービル(今年取り壊しが決まった)や新宿副都心計画、サンシャイン60など多くの超高層ビルの計画に携わり、近年は台湾の台北市の都市開発も手がけた。2012年10月の東京国際映画祭では、彼のドキュメンタリー映画空を拓く〜建築家・郭茂林という男〜』が上映されている。
 戦後まもなく、東大工学部建築学科の教授で建築家の吉武泰水のもとで、公営住宅の2DKの基本モデルの設計も手がけている。
 同じく建築家の菊竹清訓(2011年12/26)が参加したメタボリズムグループについて、その回顧展についてはエキレビでも昨年とりあげた。

 日本の城郭や江戸の都市計画などを建築史のなかで位置づけた内藤昌(10/23)も今年亡くなっている。『江戸と江戸城』(鹿島出版会、1966年)はその代表的著作。
 本文でとりあげた、ブラジルの首都ブラジリア建設に関するオスカー・ニーマイヤー(12/5)の証言は、『近代建築の証言』(TOTO出版、2001年)を参照。
 ちなみにブラジリアは、1987年にユネスコ世界文化遺産に選ばれている。第二次大戦後につくられた都市・建築としては異例の早さでの認定である(これ以外に現代建築で世界遺産というと、シドニーのオペラハウスが選ばれているぐらいではないか)。
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 ニーマイヤーは2004年に高松宮記念世界文化賞を受賞している。このほか、スペインの美術家アントニ・タピエス(2/6。1990年受賞)、イタリアの建築家・デザイナーのガエ・アウレンティ(10/31。1991年受賞)、ドイツの作曲家ハンス・ウェルナー・ヘンツェ(10/27。2000年受賞)、メキシコの建築家リカルド・レゴレッタ(2011年12/30。同年受賞)、それからインドのシタール奏者で作曲家のラビ・シャンカル(12/11。1997年受賞)と、この一年のあいだには世界文化賞受賞者の物故があいついだ。
 シャンカルは、ビートルズジョージ・ハリスンシタールを手ほどきしたことでも知られる。このとき、ジョージのインド来訪が知られるや、大勢の若いファンが彼の泊まるホテルの前に群がり、またシャンカルの家でも電話が鳴りっぱなしになったという。

 12歳から17歳の少女がほとんどのこの若者たちの気狂いじみたバカ騒ぎを見たとき、私は目を疑った。それがもしロンドンや東京、またニューヨークだったら信じられただろうけれどインドでは! そしてボンベイやデリーといった大都会での若者は、もはや世界中の若者たちの何の隔たりもないことに気がついた。
  ――シャンカル『ラビ・シャンカル/わが人生、わが音楽』(小泉文夫訳、音楽之友社、1972年)

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 同じく本文中でとりあげた写真家・石元泰博(2/6)の発言は、日経デザイン編『デザイン“遣唐使”のころ 昭和のデザイン〈パイオニア編〉』(日経BP社、1995年)から引用した。
 同書では、2011年12月に亡くなった工業デザイナーの柳宗理、2010年に亡くなった舞踏家の大野一雄、また前衛生け花の中川幸夫(3/30)などもとりあげられている。中川は同じ前衛生け花でも、「草月流」の創始者勅使河原蒼風のように流派をつくることはなかった。池坊門下を脱退してからはどこの流派にも属さず、腐らせたカーネーションを自作のガラス器に詰めた「花坊主」(1973年)など型破りな作風で知られた。中川と同じ香川県出身の脚本家・作家の早坂暁は、勅使河原と中川をモデルに実名小説『華日記』(1989年)を著している。
 石元と同じくアメリカ移民2世としては、やはりアメリカの上院議員として長らく活躍したダニエル・イノウエ(12/17)もあげておきたい。
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 東條輝雄(11/9)については、前間孝則YS‐11――国産旅客機を創った男たち講談社、1994年)を参照した。
 富士通の元社長・山本卓真(1/17)に関しては、主に田原総一朗の『日本コンピュータの黎明 富士通・池田敏雄の生と死』(文春文庫、1996年)に依った。同書は、山本の社長時代、1980年代に米IBM社とのあいだに持ち上がった、大型汎用コンピュータの互換性をめぐる知的財産権紛争(のち、富士通がライセンス料を支払うも互換性は認めさせる)を足がかりに、富士通にあって国産コンピュータの開発を主導した天才エンジニア池田敏雄の生涯を追ったノンフィクションである。
 日立製作所フェローで物理学者の外村彰(5/2)も、企業内技術者、そして研究者として多くの業績を残した。自ら開発に携わった電子顕微鏡を用いて、物理学における画期的な発見を次々と成し遂げている。なお日立製作所日立ハイテクノロジーズは2012年1月、「電界放出型電子顕微鏡の実用化」の功績によりIEEEアメリカ電気電子学会)からマイルストーン賞を授与されている。
 星晃(12/8)は、旧国鉄にあって、車両製作に工業デザインの概念を導入した先駆者であった。ブルートレインや日本初の電車特急「こだま」、そして新幹線の0系電車と鉄道史に残る数々の名車をデザインしたほか、東海道本線・準急の車内での寿司屋の営業を提案するなどアイデアマンでもあった。

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 元宇宙飛行士のニール・アームストロング(8/25)については、こちらの拙記事およびブログエントリを参照。

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レイ・ブラッドベリ(6/5)のくだりでの、その代表作『華氏451度』(1953年)をめぐるエピソードは、ハヤカワ文庫NV版巻末の、福島正実の解説「ブラッドベリ・ノート」に引用された、以下のようなブラッドベリの文章を参照した。

 『華氏四五一度』を書くとき、私は、四、五世紀のちにやってくるかもしれない世界を書いていたつもりだった。だがほんの二、三週間前のある夜、私は、ビヴァリー・ヒルズで、一組の夫婦連れが犬を散歩させているのとすれちがった。私は呆気にとられて彼らの姿を見まもった。細君の方は、片手に煙草の箱ほどの小型ラジオを、アンテナをぶるぶるふるわせながら持っていた。ラジオからはほそいコードが出ていて、彼女の右の耳の中の優雅なレシーバーにつながっていた。彼女は、夫も、犬も完全に忘れて、安っぽい流行歌にうっとりと聞き惚れていた。カーブに来ると、いないも同然の夫に手を引かれて、夢遊病者よろしく、あぶなっかしく歩いている。これは小説ではない。われわれの生きているこの社会に、新らしく生まれ出た現象なのだ。

 なお、ブラッドベリが自著の電子書籍化のオファーを拒否したという話は、一昨年の90歳の誕生パーティーの記事に出てくる。

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 吉田秀和(5/22)のエッセイ「薄気味の悪い話」(1974年。『吉田秀和全集』第10巻白水社、1975年に所収)を、私は片山杜秀が『片山杜秀の本(5)線量計と機関銃──ラジオ・カタヤマ【震災篇】』(アルテスパブリッシング、2012年)での吉田の追悼文(もともとはラジオ番組でのトーク)で紹介しているのを読んで初めて知った。片山は、このエッセイについて現在のグーグル的なものを予見したものとしてとりあげている。
 片山杜秀は、このほか『アルテス』Vol.3や、『吉田秀和――音楽を心の友と』音楽之友社、2012年)に、吉田の追悼記事を寄稿している。後者の巻頭には、丸谷才一(10/13)による「追悼の辞」も再録されている。丸谷もそれから5カ月後に世を去った。
 戦後における吉田秀和の活動、さらに別宮貞雄(1/12)や林光(1/5)といった作曲家たちについては以下の本も参照した。

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 100歳の誕生日を迎えた直後に亡くなった新藤兼人(5/29)の監督作品は、以下の作品を含めほとんどがDVD化されている。

 ぼくとしては、『ボク東綺譚』(1992年。ボクの字はさんずいに墨)も忘れがたい。新藤作品の常連で、その夫人だった女優の乙羽信子は、この作品では眼帯をした女郎屋の女将の役で出演している。
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 春日野八千代(8/29)については、連載「一故人」の「春日野八千代――宝塚男役という「虚構」を生きた80年」で、すでに宝塚歌劇団の歴史とあわせてくわしく書いている。
 諏訪根自子(3/6)は、里見トン(トンは弓に亨)の小説『荊棘の冠』(1934年)のモデルにもなった。1930年代後半から40年代初めにかけては、諏訪のほかにも、巌本メリー・エステル(のち真理)、さらに岩淵龍太郎江藤俊哉辻久子とローティーンのバイオリニストが立て続けにデビューした。そこには、諏訪と巌本を育てた亡命ロシア人・小野アンナなどヨーロッパ出身の音楽教育家の存在も大きくあった。
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 森光子(11/10)については、本文でも引用した志賀信夫の『テレビを創った人びと』(日刊工業新聞社、1979年)をとくに参照した。
 森と山田五十鈴(7/9)という対照的な女優については、ルポライター竹中労も両者を比較して次のようなことを書いている。

 映画界でのラジカルな芸と恋の旅路から、舞台への転身をとげてわずか数年のあいだに、山田五十鈴の芸は大きな変貌をみせた。それは一口でいうと、“女形”への接近である。女形とは男の目を通してみた女、つまり現実の女ではなくて、女の理想像である。森光子が舞台で演ずる“おんな”は、いじらしくせつなく、甘美である。アチャラカをひとつやっても可愛らしく、憎さというものがない。
  ――竹中労芸能人別帳』(ちくま文庫、2001年)

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 松下正治(7/16)と山下俊彦(2/28)の松下電器(現パナソニック)の二代の社長については、『復讐する神話 松下幸之助の昭和史』(文春文庫、1992年)でくわしくとりあげられている。それを読むと、社長の在任期間でいえば正治が16年、山下が9年と、正治のほうが長いものの、「山下革命」とも呼ばれたドラスティックな経営改革を断行した山下のほうがより重要な役割を果たしたことがわかる。
 ちなみに山下俊彦が亡くなった同じ2月28日には、かつての松下電器提供によるテレビのクイズ番組『ズバリ!当てましょう』の初代司会者であり、松下のCMにも多数出演して、同社の旧ブランド名から「ナショナルの顔」とも呼ばれたタレントの泉大助も亡くなっている。
 パナソニックの経営不振が取りざたされた2012年に、元社長の2人をはじめ、ゆかりの深い人物があいついで亡くなったのは象徴的といえるかもしれない。
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 住友銀行(現・三井住友銀行)出身の元アサヒビール社長の樋口廣太郎(9/16)については、下記の拙記事でくわしく書いている。

 りそなホールディングス会長として同社の再建にあたった細谷英二(11/4)については、下記のようなウェブ上の記事を参照した。

 りそなは、主に中小企業や個人を相手とするリテールバンクへ転換するにあたって、必然的に大企業を切り捨てざるをえなかった。現在不振が伝えられる三洋電機やシャープといった企業は、かつてりそなと関係が深かったが、先述のような事情からりそなからは援助を得ることができなかった……との指摘もある(上記のうち「ビジネスジャーナル」の記事を参照)。
 細谷はJR東日本時代にエキナカビジネスを成功させ、東京駅の再開発計画を軌道に乗せたのち、りそなに転じている。生前のインタビュー記事によれば、グループ会社の東日本キヨスク(現JR東日本リテールネット)の社長というポストが用意されていたにもかかわらず、リスクを冒しての転職であった。
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 本文において、1989年から1994年にかけて日銀総裁を務めた三重野康(4/15)が、就任当初に行なった3度の公定歩合引き上げについて、(国民から期待されたような)地価抑制を目的としたものではないと発言したことに触れた。このくだりでは、小峰隆夫編『バブル/デフレ期の日本経済と経済政策(歴史編)1 日本経済の記録 第2次石油危機への対応からバブル崩壊まで(1970年代〜1996年)』のうち第3部・第3章(リンク先、PDF)の「平成の鬼平伝説はどこから来たのか?」と題する一節(P.453〜455)を参照している。
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 浜田幸一(8/5)については、「一故人」の第1回となった「浜田幸一――不器用な暴れん坊のメディア遊泳術」でくわしく書いた。
 日本政治の関係者としては、1946年に婦人参政権が認められたのち初めて実施された総選挙で当選した女性代議士のひとり山口シヅエ(4/3)、平和や女性の権利などをめぐる社会活動も積極的に行なった評論家・吉武輝子(4/17)、また歴代首相夫人の三木睦子(7/31)、中曾根蔦子(11/7)といった人たちがあいついで亡くなっている。このうち三木と中曾根については、下記の拙稿でもとりあげている。

 このほか、泡沫候補とみなされながらも国政選挙や都知事選に何度も立候補し、同性愛者などマイノリティの解放を訴え続けた東郷健(4/1)の存在も忘れがたい。
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 米長邦雄(12/18)に関しては、2012年1月のコンピュータソフト「ボンクラーズ」との対局直後に『週刊文春』に掲載された阿川佐和子との対談のほか、『中央公論』に掲載された梅田望夫との対談も参照した。

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 松平康隆(2011年12/31)がバレーボールのファン層拡大のために行なったメディア戦略については、下記のフジテレビのゼネラルプロデューサーによる講演でも触れられている。

 2012年はオリンピックイヤーだった。ノルウェーの競泳選手アレクサンドル・ダーレ・オーエン(4/30)は、北島康介のライバルと目され、ロンドン五輪でも活躍が期待されていたが、直前に26歳の若さで急逝した。
 桜井孝雄(1/10)は、1964年の東京オリンピックでボクシング・バンタム級で同競技で日本初の金メダリストとなる。ロンドン五輪では、村田諒太がミドル75kg級で、じつにボクシングでは48年ぶりの金メダルを日本にもたらした。
 プロ野球界の物故者としては榎本喜八(3/14)の名前をあげておきたい。1955年に毎日オリオンズ(のちの大毎〜ロッテオリオンズ、現・千葉ロッテマリーンズ)に入団、一塁手で5番打者に抜擢され、その年の新人王に輝いた。その後「大毎ミサイル打線」の中核を担い、ヒットを量産、「安打製造機」の異名をとった(首位打者には2度なっている)。1968年の通算2000本安打達成は、川上哲治山内一弘に次ぎ日本プロ野球史上じつに3人目の快挙であった。安打数は1972年の引退までに2314本を数え、生涯打率は2割9分8厘。
 現役後半には奇行が目立ったとはいえ、独特の打撃理論を持ち、引退後も長らく現役復帰と通算打率3割をめざしてトレーニングを欠かさなかったという。文句なしの記録を残し、そのパーソナリティーからもファンに強烈な印象を与えた彼が、亡くなるまで野球殿堂に選ばれなかったという事実は、その選考方法に問題があるのではないかとさえ思わせる。
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 2012年12月の総選挙では、自民党による改憲案も話題にのぼった。現行の日本国憲法が戦後の占領軍によって押しつけたものだと言うのはたやすい。しかし法学者で最高裁判事も務めた團藤重光(6/25)は、現行憲法について《第二次大戦、ヨーロッパ戦争の経験をふまえて米国に亡命したユダヤ人など、いろいろ大変な経験をした、優れた人が知恵を集めて、ずいぶん立派なものを作った。決して米国の短期的な利害、ご都合だけで作ったというふうには(中略)読めない》と語っている(伊東乾との共著『反骨のコツ朝日新書、2007年)。
 團藤自身、終戦直後、ドイツ生まれのユダヤ人(のちアメリカに亡命、GHQに配属)の法律家アルフレッド・C・オプラーの指導のもと、新憲法にもとづき新たな刑事訴訟法を起草した経験を持つ。團藤はオプラーからプロフェッサーとして信頼され、現行犯の規定についてまるまる任されたりしながら討議を繰り返した末に新たな刑訴法をつくりあげたという。
 政治学者で、防衛大学校校長も務めた猪木正道(11/5)も、「平和憲法の理念を守りつつ、自国の防衛軍を明確に保持できるようにするべきだ」と改憲論を打ち出す一方で(「朝日新聞デジタル」2012年11月7日)、現行憲法でも自衛力を保持することは認められていると強調、《現行憲法が押しつけ憲法であるとか、占領下に制定されたとかを指摘して“憂国者”ぶりを競う傾向が見られるけれども、そういう間違った“憂国”の狂気こそ、全世界を相手にする無謀な戦争へと、わが国を暴走させた危険な病症であった》とも書いている(「現行防衛体制の評価――第1章 憲法と自衛力の限界」1977年初出、『猪木正道著作集』第5巻、力富書房、1985年)。
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 日本映画における録音技師の第一人者、橋本文雄(11/2)は、半世紀にわたる自身の仕事について『ええ音やないか 橋本文雄・録音技師一代』(リトルモア、1996年)で、評論家の上野昂志相手に語っている。彼が手がけたのは、映画黄金期の名作から、日活ロマンポルノ、さらに1980年代以降の新人監督(森田芳光和田誠など)の作品にいたるまで、じつに多岐におよぶ。
 橋本のかかわった『幕末太陽傳』(1957年)は落語のさまざまな噺を下敷きにしている。劇中、「品川心中」の貸本屋の金造を演じた小沢昭一(前出)は、俳優になる前は落語家志望で、早稲田大学在学中には落語研究を創設している。
 同作をはじめ川島雄三監督作品の常連であった小沢に対し、作家の藤本義一(10/30)は一時期、川島の弟子として映画脚本のいろはを叩きこまれた経験を持つ。直木賞候補となった短編「生きいそぎの記」(1971年)は、小説ではあるが、川島が実名で登場し、当時の藤本との関係がうかがえる。

 中村勘三郎(18代目。12/5)の最後の主演映画『やじきた道中 てれすこ』(2007年)も、落語を下敷きにしたものであり、『幕末太陽傳』を意識したのではないかと思わせる部分もある。
 本文中とりあげた、歌舞伎の定番の演目を、現在のセリフや設定からあえて原作に忠実なものへと変更したという勘三郎の発言は、『東京人』2002年7月号での丸谷才一(前出)との対談に出てくる。

勘九郎[当時] (中略)平成中村座の『法界坊』にしても、今はみんな永楽屋の女房になってる役が、原作では男親なんですよ。娘のお組の前で法界坊がその親爺を惨殺して、手と足を切って「徳利爺」……みなさんとっくりとごらんください、って。だからそのくだらなさ、残酷さ。でもそんなこと誰が考えたんだ、って批評が出たんですよ。誰って、原作だよ、って。春陽堂の古い文献なんですけどね。そういう批評書かれるとカーッとくるんです。
丸谷 そういう事実関係の間違った批評については淡々と冷静に反論すればいい。
勘九郎 淡々とはできないんですよ、ぼく。
丸谷 じゃあぼくが代筆してあげる。
勘九郎 ありがたいね(笑)。

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 本文でとりあげた桑名正博(10/26)や尾崎紀世彦(5/31)以外にも、元フォーリーブス北公次(2/22)、海外でもホイットニー・ヒューストン(2/11)、ドナ・サマー(5/17)、元モンキーズデイビー・ジョーンズ(2/29)と、2012年は歌手たちの訃報もあいついだ。長良事務所(現・長良プロダクション)を設立し山川豊氷川きよしなどを育てた長良じゅん(5/2)、新栄プロダクションを設立し村田英雄をはじめ北島三郎五月みどり藤圭子などを世に送り出した西川幸男(12/26)も亡くなっている。
 「ぴんからトリオ」から「ぴんから兄弟」、さらにソロ歌手として活躍した宮史郎(11/19)は、もともと漫談グループ「スパロー・ボーイズ」として出発した。彼のデビューした1960年代には演芸ブームが巻き起こり、その火元のひとつNET(現テレビ朝日)の『大正テレビ寄席』からは、内藤陳(2011年12/28)らの「トリオ・ザ・パンチ」、小野ヤスシ(6/28)らの「ドンキー・カルテット」など多くのグループ、芸人が輩出された。同時期のテレビの笑いを語るうえでは、桜井センリ(11/10)が参加したクレイジー・キャッツ新倉イワオ(5/9)が長年構成作家を務めた日本テレビの『笑点』も忘れるわけにはいかない。
 もっともテレビの世界でお笑いが主流になるには1980年代まで待たねばならなかった。その急先鋒となったフジテレビの『オレたちひょうきん族』には、大平サブロー・シロー(2/9)、小林すすむ(5/16)が所属した「ヒップアップ」といったお笑いタレントのほか、俳優の安岡力也(4/8)も出演して「ホタテマン」で新境地を拓いた。
 これ以外にも流通ジャーナリストの金子哲雄(10/2)、キャスターの山口美江(3/7)、ニッポン放送アナウンサーの塚越孝(6/26)とテレビ、ラジオで活躍した人たちの早世も目立つ一年であった。

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 本文の脱稿後も、特撮人形劇『サンダーバード』などを手がけたイギリスの映像プロデューサー、ジェリー・アンダーソン(12/26)、それから1991年の湾岸戦争多国籍軍を率いたアメリカの元中央軍司令官ノーマン・シュワルツコフ(12/27)と訃報があいついだ。シュワルツコフの死去は、湾岸戦争時の米大統領ジョージ・H・W・ブッシュパパ・ブッシュ)が入院先の病院で集中治療室へ移された直後のことであった(その後、容態は回復し一般病棟に移ったという)。
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 ずいぶん長い補遺になってしまった。声優・谷口節(12/27)の缶コーヒーのCMでの名台詞を借りるなら、ここまで名前をあげた「ろくでもない、すばらしき世界」を生き、またつくりあげたすべての人々にあらためて哀悼の意を捧げつつ、本稿を締めたい。