気がつけば、2013年初めての更新となります。今年ももう半分すぎようとしているのにナンですが、あらためまして、あけましておめでとうございます。

 さて、昨年9月よりウェブサイト「cakes」にて、そのときどきで亡くなった著名人たちの足跡を振り返る「一故人」という連載を不定期ながら続けております。5月28日の更新分では、弁護士の中坊公平と俳優の夏八木勲をとりあげました。
 このエントリでは、夏八木勲について執筆するにあたり観た、彼の出演作である『人間の証明』などについての雑感を、ツイート風にメモしておきます。
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 映画『人間の証明』をDVDで観ていたら、ここ数年に亡くなった人がやたら出てきて驚いた。ざっと名前をあげるなら、夏八木勲坂口良子大滝秀治地井武男ジョー山中長門裕之今野雄二北林谷栄峰岸徹鈴木ヒロミツ……といった具合(さらにさかのぼれば、主演格の松田優作ハナ肇もすでに亡くなっているわけだが)。
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 最近、昔の映画を観るたびに、「この人、最近亡くなったよな」とか「わ、この場面に出てる人たち、全員もうこの世にいない!」などとつい“おくりびと目線”でチェックしてしまう私だが、その意味でこれほど目の離せない映画はなかった。おそらく同作ぐらい、出演者が短期間のうちにあいついで亡くなった映画もないかもしれない。それも公開当時における新人から中堅、すでに大御所だった人までまんべんなくそろっている。
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 ところで、『人間の証明』のプロデューサーである角川春樹は、『人間の証明』の企画当初、大島渚に監督をやってくれるよう依頼していたという。これに対し、大島は「この企画は自分には向いていないと思います」と断ったとか(樋口尚文『砂の器』と『日本沈没』 70年代日本の超大作映画』)

 角川春樹は当時世間を沸かせていた『愛のコリーダ』に一種のイベント性(事件性)に一種のイベント性を嗅ぎ取って、大島渚に声をかけたのだろうが、大島の場合は異色のイベント性(事件性と言うべきか)を発散する企画を好みながら、映画そのものを毅然とイベントという通俗さに譲り渡さない二面性がある。角川春樹は、いかんせんその大島の鉄壁の貞操観には無頓着であったのだろう(後略)
  (樋口、前掲書)

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 じつは、角川が大島に監督をオファーする伏線は、『愛のコリーダ』の日本公開直後に『朝日ジャーナル』に掲載された座談会にすでにうかがえる。
 このとき会したのは、大島と角川に、当時の『キネマ旬報』編集長の白井佳夫、さらに文化人類学者の山口昌男が加わるという、その人選がいかにも『朝ジャ』らしいのだが、それはともかく、座談会の終わりがけ、角川は、山口の「映画は基本的に見世物でなければならない」「見世物性というのは端的にいえばいかがわしさ、そのいかがわしさが大きな姿で現れたものがスキャンダルだ」との発言を受けて、次のように大島に話を持ちかけていた。

 美しいうそっぱちをまじめな顔でやって観客をだます、それがぼくのいうエンターテインメントなんだが、山口さんの意見に全く同感です。そういう意味で、これはまじめな提案なんだけど、大島さんどうですか、ぼくとスキャンダルやりませんか。スキャンダラスな監督とスキャンダラスなプロデューサーの組み合わせ、これはいいと思うんだが。
  (「社会観察座談会 「スキャンダラス」こそ映画のいのち」、『朝日ジャーナル』1976年11月19日号)

 このラブコールに対し、大島ははっきりと回答しないまま(けっして無視したわけではなく、このすぐあとに角川が振った話に話題が流れてしまったのだが)座談会は終わっている。
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 ただ、角川とのコラボレーションは実現しなかったとはいえ、角川映画から大島が影響を受けたり触発されなかったかというと、そうではないような気がする。たとえば、大島の『戦場のメリークリスマス』は、ビートたけし坂本龍一デビッド・ボウイといった豪華な出演陣といい、公開前後の監督が率先しての派手なPRといい、いかにも角川映画の祝祭的な部分を踏襲しているとはいえまいか。
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 それにしても、この時期の角川春樹は本当にカメオ出演が好きだったんだな。ウィキペディアでリストアップされているだけでも、こんなに出ているとは。

 夏八木勲主演の『白昼の死角』では、角川が社長役で、顧問弁護士役の鬼頭史郎ロッキード事件でのいわゆる「ニセ電話事件」で知られる元判事)に相談する場面があったが、ここは笑うところだよね?
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 さらに余談。いま、『人間の証明』をリメイクするとしたら、岡田茉莉子は、息子の岩城滉一をニューヨークではなく宇宙に高跳びさせるんでしょうね?


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