2008年物故者たちをめぐるストーリー

 今回、今年一年に亡くなった人たちを振り返る、というテーマをいただいた。とはいえ、ただ名前を時系列に列挙するだけでは味気ない。そこで、ここは物故者たちになにかしらの関連性を見出しながら、語ってみようと思う。あくまでも僕の勝手な人選なので漏れも出てくるだろうが、その点はあらかじめご容赦願いたい。

 北京五輪が盛大に行なわれるさなか、中国元首相の華国鋒(8/20。以下、日付は故人の命日を示す)が亡くなった。その華国鋒から実権を奪った蠟小平が改革開放路線を始めたのはちょうど30年前のこと。この政策が本格化するとともに、中国国内では西側諸国の流行歌が紹介されるようになり、なかでも遠藤実(12/6)が作曲した「北国の春」は歌詞を翻訳されて人びとに愛唱されたという。

 北京五輪といえば、野球の日本代表チームで投手コーチを元広島東洋カープ大野豊が務めた。その大野をはじめ衣笠祥雄高橋慶彦達川光男などカープ黄金期の名選手を発掘し、「スカウトの神様」と呼ばれたのが木庭教(5/23)だ。今年はまた、1975年に開幕から3週間で監督を辞任しつつも、チームの帽子の色を現在の赤に変更し、同年のカープ初優勝の基礎をつくったとも評されるジョー・ルーツが亡くなっている(10/20)。

 カープが初優勝を達成した頃、同球団の親会社である東洋工業(現・マツダ)は深刻な経営危機を迎えていた。その再建のため住友銀行から出向し副社長に就いたのが村井勉(10/30)だった。彼は東洋工業を立て直すと、さらにアサヒビール社長として同社の再建に尽力、1987年には新たに誕生したJR西日本の初代会長に就任する。

 JR西日本を含むJRグループ7社は国鉄の分割民営化によって発足したわけだが、杉浦喬也(1/16)は最後の国鉄総裁としてその幕引きを果たした。一方、国鉄内部で民営化を推進した一人である山之内秀一郎(8/8)はJR東日本の初代副社長に就任、のちには会長も務めた。山之内はまた、『新幹線がなかったら』など一般向けの鉄道本も著している。『私鉄探検』の著者である僕としては、山之内以外にも、鉄道史研究の第一人者として多くの著作を残した原田勝正(4/7)と中川浩一(8/19)の名も忘れがたい。

 ところで、今年の物故者を振り返る上で特筆すべきは、放送史に大きな業績を残した人が目立つことである。

 たとえば、元NHKアナウンサーの藤倉修一(1/11)は、敗戦直後に始まった「街頭録音」の専属インタビュアーのほか、ラジオの人気番組『二十の扉』や最初期の紅白歌合戦などで司会を務めた。あるいは宇井昇(3/18)は1951年、日本初の民放・中部日本放送(名古屋)の開局第一声を担当したアナウンサーである。同じ年にはNHKラジオ体操の第一体操が服部正(8/2)の作曲により装いも新たに再開された。やがて放送の主役はラジオからテレビに移る。1958年には川内康範(4/6)原作の『月光仮面』が現在のTBSで放映開始され、テレビが生んだ最初のヒーローとなった。

 テレビ番組制作の現場で活躍したなかでは、紅白歌合戦や『夜のヒットスタジオ』などの人気番組を手がけた放送作家の塚田茂(5/13。彼については亡くなる直前に当メルマガに寄稿した「放送作家のあがり方」でも触れた)、TBSの同僚らとともに番組制作会社の草分けであるテレビマンユニオンを設立した村木良彦(1/21)、フジテレビで『ひらけ!ポンキッキ』を手がけ、のちに日本テレワーク設立に参加した野田昌宏(6/6)、NHKディレクターとして大河ドラマや大型ドキュメンタリーの原型をつくった吉田直哉(9/30)、それから朝日新聞社を退職後ニュースキャスターに転身し、テレビを代表するジャーナリストとなった筑紫哲也(11/7)といった人たちが鬼籍に入っている。テレビ業界ではまた、フリーアナウンサー川田亜子が29歳で自殺するという痛ましい事件もあった(5/25)。

 上記のうち吉田が1965年に演出した大河ドラマ太閤記』では、まだ新国劇若手俳優だった緒形拳(10/5)が秀吉役に抜擢され、出世作となった。また、野田の手がけた『ポンキッキ』は、アメリカの子供番組『セサミ・ストリート』の日本版として始まったものだが、ガチャピン(のモデルは野田自身……というのはテレビ番組『トリビアの泉』でも紹介されていた)とムックというオリジナルキャラや、大ヒット曲「およげ!たいやきくん」が生まれるなど、本家とはまた違った道を歩んだ。このあたり、評論家の加藤周一(12/5)が提言した「日本文化の雑種性」の表れともいえるかもしれない。

 テレビで活躍した人物としてはもう一人、『ポンキッキ』と並び子供たちに親しまれたNHKの『みんなのうた』で、数々の名作を手がけた作曲家の福田和禾子(10/5)もここでぜひあげておきたい。

 さて、村木良彦や吉田直哉の没後に放映された追悼番組では、主にテレビドキュメンタリーでの業績にスポットが当てられていた。そんな彼らに対し、土本典昭(6/24)のように、「自主製作・自主上映」を前提にドキュメンタリー映画を撮り続けた存在も見逃せない。

 戦後日本のドキュメンタリーを語る上では、映画『東京オリンピック』もまたはずせない作品だが、その総監督を務めた市川崑(2/13)は、アニメーターをふりだしに、戦後は劇映画の傑作を多数残したほか、CM、テレビドラマと幅広いジャンルで活躍した、まさに映像の時代が生んだ巨匠だった。

 市川崑が92歳の大往生だったのに対し、同姓の映画監督・市川準は59歳で突然逝った(9/19)。個人的にはその劇映画以上に、「タンスにゴン」「禁煙パイポ」といったCM作品が記憶に残る。その数日前に訃報が伝えられた野田凪(9/7)もまた、CMやミュージックビデオで映像の面白さを味わわせてくれた。

 映像時代の申し子といえば、フランスの作家、ロブ・グリエ(2/18)のヌーボー・ロマンなどと呼ばれた一連の小説作品における徹底した客観的な視覚描写は、やはり映画の影響を抜きには語れないだろう。彼自身、『去年マリエンバードで』の脚本をはじめ、何本かの映画を監督した映像作家でもあった。

 映像メディアの影響は美術の世界にもおよんだ。アメリカの美術家・ラウシェンバーグ(5/12)は、テレビやグラフ雑誌などを通じて流布されるイメージをそのままキャンバスにちりばめてみせ、ポップアートの先駆けとなった。アメリカでポップアートが全盛を迎えていた60年代には、日本ではあるビジュアル雑誌が100万部を突破する。その雑誌、『週刊少年マガジン』で編集長を務めた内田勝(5/30)は、「巨人の星」「あしたのジョー」などの名作を送り出した。同誌1970年正月号の巻頭特集「劇画入門」における「一枚の絵は一万字にまさる」という宣言は象徴的である。

 まさにその時代の『マガジン』に「天才バカボン」を連載し、ギャグをとことんまで追求した赤塚不二夫も、長い闘病の末鬼籍に入った(8/2)。同じく長い闘病生活の末に亡くなった人物としては、歌手のフランク永井(10/27)も思い出される(そのヒット曲「有楽町で逢いましょう」の歌碑が建てられたのは今年7月のことだ)。

 ちなみに、赤塚マンガの人気キャラの一つである不屈の猫・ニャロメは、60年代末の東大闘争において最後まで抵抗を続けた全共闘の学生たちに触発されて生まれたものだという。このとき事態を打開するため、東大構内への機動隊導入を要請したのは、当時の学長代行・加藤一郎(11/1)だった。

 東大闘争が60年代を象徴する事件だとすれば、三浦和義(10/11)の「ロス疑惑」と宮崎勤(6/17)の連続幼女誘拐殺人事件は80年代の象徴的な事件だった。いずれの事件も、メディアが彼ら当事者に与えた影響、また彼らをめぐる報道をも含め、現在までいたるさまざまな課題を残した。

 80年代といえば、バブル景気の発端といわれるプラザ会議(1985年)に出席した当時の日銀総裁澄田智(9/7)も今年死去している。くしくもというべきか、彼の死の翌週には、リーマン・ブラザーズが経営破綻し、アメリカ発の金融危機が世界中をかけめぐった。

 そのさなか、今年度の文化勲章に、金融工学で用いられる価格方程式の基礎となる公式を発案し、「ウォール街でもっとも有名な日本人」と呼ばれた数学者・伊藤清(11/10)が選ばれている。

 ここへ来て円高も加速している。そもそも現在の変動相場制は、1971年のアメリカのニクソン政権のドル防衛策に由来する。同政権はその3年後、ウォーターゲート事件で崩壊するが、そのきっかけとなったワシントンポスト紙のスクープは、「ディープ・スロート」と呼ばれる情報源からもたらされた。後年、その正体として元FBI副長官のマーク・フェルト(12/18)が名乗りをあげている。なお、この“情報源”を意味する隠語は、ジェラルド・ダミアーノ(10/25)が監督したポルノ映画のタイトルからとられたものだ。

 アメリカでのウォーターゲート事件に対し、日本政界に疑惑が持ち上がった事件としてロッキード事件がある。この戦後最大の疑獄事件は1976年、米上院公聴会での当時のロッキード社副会長・コーチャン(12/14)の証言により発覚し、田中角栄元首相の逮捕にまで発展したのは周知のとおりだ。

 最後に、月本裕(1/9)、草森紳一(3/20)、鈴木芳樹(5/25)、山口由美子(6/18)、島村麻里(8/24)といった、主に雑誌、あるいはネットを舞台に筆を振るったユニークな書き手たちの名前をあげて、本稿を締めたい。

 とりわけ草森、鈴木、島村の各氏は、面識はないものの知人の編集者を通じていろいろと話を聞いてるだけに(草森氏を除くお二人は当メルマガの寄稿者でもあった)、とても他人事とは思えない。それにしても、中国の古典に造詣が深く、文化大革命でのプロパガンダについての研究も残した草森氏が、もし北京五輪を見ることができたら、一体どんな感想を抱いただろうか?

 ……と、話がちょうど一回りしたところで、本稿でとりあげた人びと全員にあらためて哀悼の意を表したい。合掌。
  (初出 「週刊ビジスタニュース」2008年12月24日)