時代を仕掛けた2010年物故者たち

 一年間のごぶさたでした。

 ……と、TBSテレビの往年の歌番組『ロッテ歌のアルバム』での司会者・玉置宏(2/11。以下、日付は故人の命日を示す)の決まり文句「一週間のごぶさたでした」をもじってみたところで、一昨年・昨年に続き、今年もこの一年間に亡くなった著名人たちを振り返ってみたい。

 玉置の没後、昭和のヒット歌謡を彼のナレーション付きで収録したCDシリーズ『玉置宏の昭和ヒットコレクション』がリリースされた。そのうちVol.2に収録された小林旭の「昔の名前で出ています」のイントロには、こんな玉置によるナレーションがかぶせられていた。

 〈木の葉が枯れて冬になる/若葉が萌えて夏になる/たった一つのこの愛を抱き続けて日が過ぎる/一つの川が流れるように/海までひたすら流れるように/私の恋はあなただけ/「昔の名前で出ています」〉

 思えば今年は、まさに「昔の名前で出ています」とばかりに、芸能人やミュージシャンの活動再開が目立った。たとえば、小沢健二。小沢が13年ぶりのライブツアー決定を発表したのと前後して、アメリカの小説家、J.D.サリンジャー(1/27)の訃報が流れた。アメリカ文学に造詣の深い小沢だけに、そのタイミングに驚いたファンも多いのではないだろうか。サリンジャーもまた45年ものあいだ完全に隠遁状態にあったため、その訃報じたいが「昔の名前で出ています」という感があった。

 復帰組としてはほかに歌手の佐良直美がいる。27年ぶりの新曲を発表した佐良は、30年前、とあるスキャンダルを芸能レポーター梨元勝(8/21)にスクープされた。芸能活動を休止したのもそれが原因だとまことしやかにささやかれていたが、佐良は復帰時にこれを明確に否定、梨元についても「直接話をうかがってみたかった」とその死を悼んだ。

 さて、「昔の名前で出ています」を作詞した星野哲郎(11/15)には、元遠洋漁業の船乗りだったせいもあってか、この歌以外にも流浪を歌った作品が多い。たとえば、北島三郎「函館の女」「風雪ながれ旅」、都はるみアンコ椿は恋の花」、黒沢明ロス・プリモス「城ヶ崎ブルース」――ここでは吉岡治(5/17)作詞の「天城越え」とニアミスする――、あるいは水前寺清子「東京でだめなら」などが思い出される。

 「東京でだめなら」というつもりではなかっただろうが、東京都の副知事として1964年の東京オリンピックを成功させたのち、いったん東京を離れて、大阪での万博開催に尽力したのが鈴木俊一(5/14)である。鈴木は、次期知事の呼び声も高かったものの、自民党の指名を得られず、都庁を離れた。その直後、日本万国博覧会協会の事務総長に推され、開幕までの準備、1970年3月から半年間におよぶ会期中の運営と、万博の実務レベルでの全責任を負うことになる。

 大阪万博については開催前より、美術評論家針生一郎(5/26)が「民衆不在の祭典」と批判するなど反対の声もあったが、結果的に、多くの学者や芸術家たちが動員された。民族学者の梅棹忠夫(7/3)もその一人である。このとき梅棹は、テーマ館に展示するため、世界各地の民族資料の収集を担当している。集められた資料は、のちに万博会場跡地に建設され、梅棹が初代館長に就いた国立民族学博物館の基礎となった。

 この万博はまた、日本のコンテンツ産業の一つの原点ともいえる。電気事業連合会が出展したパビリオン「電力館」のプロデュースを手がけた本橋浩一(10/26)は、これを契機にアニメーション製作に乗り出し、1975年には日本アニメーションを設立、世界名作劇場シリーズや『ちびまる子ちゃん』などを手がけた。

 尖閣諸島沖での海上保安庁の巡視船と中国漁船との衝突事件の動画がYouTubeに流出したり、内部告発サイト「ウィキリークス」にアメリカの外交機密文書が大量に公開されるなど、今年ほど情報のあり方をめぐって議論が起こった年もないだろう。先述の梅棹忠夫は、すでに1963年に情報産業が中心となる時代の到来を予見、「情報産業論」という論文を『放送朝日』という雑誌に寄稿している。

 『放送朝日』は大阪の民放・朝日放送が発行していた広報誌である。当時の同局の最大の人気番組は何といっても、藤田まこと(2/17)主演のコメディ『てなもんや三度笠』だった。1960年代の多くの日本人にとって、日曜日の夕方には大阪発の『てなもんや三度笠』と、東京発(日本テレビ)のバラエティ『シャボン玉ホリデー』を見るのが定番だったという。『シャボン玉ホリデー』にはクレージーキャッツが出演、そのメンバーだった谷啓(9/11)が「ガチョーン」などのギャグを披露し、流行語となった。

 藤田まことは『てなもんや三度笠』の放映終了後、しばらく人気が低迷するが、1973年、朝日放送製作のテレビ時代劇『必殺仕置人』で江戸町奉行所の同心・中村主水(もんど)を演じて以来、同役で必殺シリーズの顔となった。中村主水は設定こそ関東出身ながら、金をもらって仕置を請け負うというところは、じつに関西的だった(実際、東京のキー局の上層部は、このことを嫌がり変更を求めたという)。

 1984年に阪神間を中心に起こった江崎グリコや森永製菓に対する脅迫事件(グリコ・森永事件)では、ルポライター朝倉喬司(11/6に死亡確認)が、「かい人21面相」を名乗った犯人の関西弁による脅迫状と河内音頭との共通性を指摘するなど、事件の背景に関西の風土をみてとった。

 グリコ・森永事件のように、メディアを通じて犯行を誇示するといった類いの犯罪を「劇場型犯罪」と呼ぶ。この種の犯罪の嚆矢としては、1968年に、在日朝鮮人2世の金嬉老(3/26)が、静岡・寸又峡温泉の旅館に篭城し、集まった報道陣を前に民族差別の現状を訴えた事件をあげることもできよう。あるいは、小説家の立松和平(2/8)が『光の雨』(1998年)で題材とした1971〜72年の連合赤軍事件(とくにあさま山荘事件)も、劇場型犯罪の走りといえる。

 そういえば、劇作家・演出家のつかこうへい(7/10)の出世作熱海殺人事件』(1973年初演)は、幼なじみの女工を殺した「ありきたりの犯人」を、刑事たちが「どこに出しても恥ずかしくない、よりすぐれた犯人」に仕立て上げようとするという、後年の劇場型犯罪を予見するかのような作品だった。

 都市を文字どおり劇場に仕立て上げた先駆的存在として、阪急グループが生んだ宝塚歌劇がある。元阪急電鉄社長の小林公平(5/1)は、宝塚歌劇団の理事長だった1974年に『ベルサイユのばら』を企画、ヒットさせるなど文化事業に力を入れた。そのいっぽうで1988年には、戦前からの伝統を誇ったプロ野球チーム・阪急ブレーブスをオリエンタル・リース(現・オリックス)に売却している。

 その阪急ブレーブスからオリックス・ブルーウェーブ(現・バファローズ)時代を通じて、それぞれ「ブレービー」と「ネッピー」というマスコットキャラのスーツアクターを務めたのが、かつて巨人や阪急でプレイした島野修(5/8)である。球場でのマスコットのパフォーマンスはいまやプロ野球ファンの楽しみの一つとなっているが、それも島野の存在なしにはありえない。なお、島野がかつて演じた「ネッピー」は、来シーズンからの球団デザイン一新により、今季かぎりで卒業することになった。

 プロ野球界では、いわゆる「江川事件」の“犠牲”となる形で、1979年に巨人から阪神にトレードされ「悲劇のエース」とも呼ばれた小林繁(1/17)、巨人優勝に貢献した昨シーズンかぎりで引退した木村拓也(4/7)と、元選手の急死があいついだ。両者とも、それぞれ日本ハム、巨人のコーチに就任したばかりだったこともあり衝撃は大きかった。

 このほかにも、「ミサイル打線」と称された大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の主砲の一人・田宮謙次郎(5/5)、立教大学野球部の黄金時代の監督で、プロ経験は皆無ながら国鉄(現・東京ヤクルト)スワローズでも指揮をとり、国鉄時代唯一のAクラス入り(1961年・3位)へと導いた砂押邦信(7/18)、その砂押から立大時代に指導を受けた、元南海(現・福岡ソフトバンク)ホークスの選手で、引退後は日本ハムなどの監督を務め「親分」の愛称で親しまれた大沢啓二(10/7)が亡くなっている。

 球界ではまた、横浜ベイスターズの売却話が持ち上がったものの、買収に名乗り出た住生活グループと、現在の親会社であるTBSホールディングスとのあいだで話がまとまらず、破談に終わった。とくに焦点になったのは、本拠地の移転問題であったという。

 ベイスターズの本拠地である横浜スタジアムの建設に際し、横浜市の技監として各方面との調整にあたったのが田村明(1/25)である。田村はこのとき、ベイスターズの前身で、それまで川崎に拠点を置いていた大洋ホエールズを迎えるにあたり、チーム名に横浜と冠することを条件につけた。結果的にこの条件は受け入れられ、その後、チームの愛称や親会社が変わっても継承されている。

 もともと民間の都市プランナーだった田村だが、飛鳥田一雄市長の招きで横浜市入りし、1968年から13年間にわたって、ハードもソフトも含む総合的な都市計画を推進した。田村はこれを「まちづくり」と名づけている。まちづくりといえば、戦後を通じて日本各地の民家をフィールドワークし、建造物の保存や町の景観の保護などにも大きな影響を与えた建築史家の伊藤ていじ(1/31)の名もぜひあげておきたい。

 田村明は、横浜市にあって民間企業とも協調しながらまちづくりを進めた。1980年代以降、こうした手法は民間活力(民活)の導入として脚光を浴びるようになる。都市計画において民活を大胆に取り入れたのは何といっても、鈴木俊一知事時代の東京だろう。大阪万博を成功させたのち、1979年に念願の東京都知事に就任した鈴木は、4期16年におよんだその在任中に、都庁の新宿移転を実現、臨海副都心の建設も端緒につけた。

 鈴木都政のもとでは都内各地に多くのハコモノが建設された。江戸東京博物館もその一つである。JR両国駅の旧国鉄用地に建てられた同博物館は1993年、国技館の横に開館した。ほぼ同時期、国技館内にある相撲博物館の館長を務めていたのが花田勝治、元横綱若乃花幹士(初代。9/1)である。

 現役時代のライバル・栃錦より20年も長生きをし、82歳と歴代横綱では稀有な長寿だった初代若乃花だが、その晩年は、弟(初代貴ノ花)の早世や甥兄弟(花田勝貴乃花親方)の確執に加え、角界の不祥事もあいつぎ、幸せなものだったとは言い切れまい。

 名アスリートとして栄光を得ながらも、晩年に挫折を経験した点では、オランダの柔道家アントン・ヘーシンク(8/27)も似ている。東京オリンピックの柔道・無差別級において、神永昭夫を下して金メダルを獲得したヘーシンクは、70年代にプロレスラーとして活躍したのち、柔道の世界に戻り後身の指導に専念した。1987年からは国際オリンピック委員会IOC)委員としてカラー柔道着の導入などの功績を残したものの、ソルトレーク冬季オリンピック招致にからむ買収スキャンダルで1999年、警告処分を受けている。

 多くの処分者が出たこのときの五輪スキャンダルでは、当時のIOC会長、ファン・アントニオ・サマランチ(4/21)の責任も厳しく問われた。サマランチは、1980年に会長に就任すると、財政の逼迫していたIOCを、放映権の販売やスポンサーシップの導入などにより再建を果たしている。しかしこうしたオリンピックの急速な商業主義化は、サマランチの長期支配もあいまって、組織の腐敗をもたらすことにもつながってしまった。彼の栄光の絶頂は、1992年、母国スペインでのバルセロナ・オリンピックの開催を見届けたときではなかったか。冷戦の終結直後に行なわれたこの大会は、政治的対立による参加国のボイコットも久々になかった。

 ソビエト連邦が解体されたのはバルセロナ五輪の前年のことである。ソ連解体は、当時の副大統領、ゲンナジー・ヤナーエフ(9/24)らがゴルバチョフ大統領の静養中に企てたクーデターの失敗以降、一気に現実のものとなった。解体直前のソ連政府では、グラスノスチと呼ばれた情報公開が急速に推し進められたが、そのなかで、第二次大戦中の1940年にソ連の領土内で起こった、ソ連軍によるポーランド軍将校たちの虐殺事件(カチンの森事件)も初めて公式に認められた。

 カチンの森事件の発生から70年を迎えた今年、ロシア政府の主催により、ポーランド大統領のレフ・カチンスキも出席して追悼式典が行なわれる予定だった。だが、カチンスキは現地に向かう途中、搭乗していた政府専用機が墜落、同乗していた夫人や同国の多くの要人などとともに死亡が確認された(4/10)。この事故はロシアだけでなく、カチンスキとは歴史認識の問題で対立していたドイツなど、各国に大きな衝撃を与えた。

 冷戦終結は、旧ソ連のほかヨーロッパ各国でさまざまな公文書が公開される契機となった。イギリスの現代史家、トニー・ジャット(8/6)の大著『ヨーロッパ戦後史』(2005年)もそうした幸運なしには完成しなかったという。日本でも今年、民主党政権の意向により、沖縄返還交渉に関するものなど多くの外交文書が公開された。これら新資料をもとに、わが国の戦後史も書き換えられるべき時期に来ているのかもしれない。

 明治維新から戦後へといたる政治史については、「55年体制」という言葉を発案した政治学者の升味準之輔(8/13)や、共同通信社の元記者で、政治評論家の内田健三(7/9)といった人たちが多くの著作を刊行している。このうち内田は、細川護熙熊本県知事選に出馬する際、同郷のよしみから協力を頼まれて以来、細川が1993年に首相に就いたのちもことあるごとに相談に乗っていた。

 細川を首相に担ぎ上げたのは、いうまでもなく小沢一郎である。しかし当時より、小沢には「強権」などといったレッテルがつきまとった。内田はこのような「小沢一郎悪党論」が出てくるのは、小沢という政治家の持つ特異な本質ゆえと説明した。その小沢の評価は、昨年の政権交代を経たいまも定まるどころか、批判と称賛のあいだでますます激しく揺れ動いているように思われる。ちなみに、竹下登元首相の政治団体代表を務めるなど、「最後のフィクサー」と呼ばれた異色の財界人・福本邦雄(11/1)は7年前のインタビューのなかで、小沢について「企画力はあるのだろうが、情がない」「暗い」と評している。

 内田や福本のほかにも、元首相・田中角栄の地元後援会「越山会」の会計責任者で、田中の愛人でもあった佐藤昭子(3/11)、長らく裁判所制度などの改革に取り組み、細川内閣では法務大臣も務めた法学者の三ケ月章(11/14)など、今年は政界のブレーン、黒幕的存在の人々の訃報が目立った。

 ブレーンといえば、1980年代に中曽根康弘内閣が設置した臨時行政改革推進審議会には、日本教職員組合日教組)委員長や日本労働組合総評議会(総評)議長を務めた槇枝元文(12/4)も委員として参加していた。槇枝は、日教組委員長時代の1974年、全国統一4・11ストを指導して地方公務員法違反に問われるなど、急進的労働組合の指導者の代表的存在であった。

 旧国鉄労働組合である国鉄労働組合国労)と国鉄動力車労働組合動労)も、大規模ストライキを実施するなど急進的な姿勢で知られた。とくに後者は「鬼の動労」と恐れられたが、中曽根内閣の推進した国鉄の分割・民営化に対しては、最初こそ国労とともに反対していたものの、やがて賛成に転じる。国鉄民営化の実現へと大きく前進させたこの方針転換を決定したのが、動労中央本部委員長の松崎明(12/9)だった。1987年の国鉄民営化後には、鉄道労連(現・JR総連)やJR東労組の幹部を務めた松崎は、新左翼セクト革マル派」の結成時からのメンバーとしても知られる。

 海外の政界ブレーンに目を向ければ、ケネディ米大統領の側近で、弁護士・作家のセオドア・C・ソレンセン(10/31)があげられる。ソレンセンは、1961年のケネディの就任演説に、「国が何をしてくれるのだろうかと問うことはやめていただきたい。反対に自分が国のために何をなすことができるかを問うていただきたい」という名文句を盛りこんだことで知られる。

 ケネディはまた、大統領選挙中に対立候補ニクソンとテレビ討論を行なうにあたり、映画監督のアーサー・ペン(9/28)から「カメラをまっすぐに見据え、答えを短く」とのアドバイスを受けた。これが有権者に自信と落ち着きのある雰囲気を印象づけ、大統領選勝利へとつながったといわれる。

 ペンはその後、1967年に『俺たちに明日はない』を監督した。反体制的、アンハッピーエンドといった、それまでのハリウッド映画にはない新しい傾向を持つこの作品を、『タイム』誌は「アメリカン・ニューシネマ」と称し、以後、米映画界に大きな流れが形成されることになった。俳優のデニス・ホッパー(5/29)が監督・出演した『イージー・ライダー』(1969年)もそのなかで生まれた名作である。

 文化の世界にも、政界と同じく仕掛人や黒幕がいる。たとえば、イギリスの音楽プロデューサー、マルコム・マクラーレン(4/8)。彼は1970年代半ば、セックス・ピストルズというロックバンドを世に送り出した。ピストルズは、マルコムとそのパートナーでブティック「セックス」を共同経営していたヴィヴィアン・ウエストウッドや、グラフィックデザイナーのジェイミー・リードらとの共同プロデュースによるものだともいえるが、それでもすべての決定権を握っていたのはマルコムだった。やがてメンバーのジョニー・ロットン(のちのジョン・ライドン)は、彼に支配されることに嫌気が差してピストルズを脱退してしまう。

 クセの強いプロデューサーといえば、日本にも西崎義展(11/7)がいた。1970年代にテレビアニメから劇場版シリーズへと進展した『宇宙戦艦ヤマト』のプロデュースを手がけた西崎は、昨年には自身初の監督作品である『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』を劇場公開した。この間、『ヤマト』の著作者は西崎なのか、それともマンガ家の松本零士なのかをめぐって法廷で争われたが、最終的に西崎であることが認められている。それにしても、『ヤマト』における西崎と松本の関係は、ピストルズにおけるマルコムとジョニー・ロットンの関係とどこか似てはいまいか。

 出版界では、JICC出版局(現・宝島社)の編集者として『別冊宝島』を創刊し、のちに洋泉社の社長となった石井慎二(2/12)をはじめ(付録つき女性誌電子タバコなどで売り上げを伸ばし続ける現在の宝島社を、石井はどう見ていたのだろうか)、文芸誌『新潮』の新人編集者として太宰治の連載「斜陽」(1947年)を担当し、その後『週刊新潮』の創刊に参加、編集長も務めた野平健一(7/5)、『文藝』『海燕』の編集長として中上健次島田雅彦よしもとばなななどといった作家たちを育てた寺田博(3/5)、人文・社会科学系の学術専門書を多数出版しているミネルヴァ書房の創業者・杉田信夫(9/14)、米男性誌ペントハウス』を創刊し、のちにハードコアポルノ映画『カリギュラ』(1980年)も製作したボブ・グッチョーネ(10/20)と、名物編集者・経営者らの死去があいついだ。自宅で刺殺されるという痛ましい死をとげた「鬼畜ライター」の村崎百郎(7/23)も、もともとはマイナーな海外文学やカルチャー誌の出版で知られたペヨトル工房の編集者だった。

 ノンフィクション作家の黒岩比佐子(11/17)は、『編集者 国木田独歩の時代』(2007年)では作家・国木田独歩がグラフ雑誌の発行のため設立した「独歩社」を、亡くなる前月に刊行された遺作『パンとペン』では社会主義者堺利彦のつくった日本初の編集プロダクション「売文社」を、というぐあいに、その時代の文化人たちの接点となった“場所”を好んで題材にとりあげた。

 社会科学者・評論家の小室直樹(9/14)が、参加者の所属・専攻・年齢を問わず門戸を開き、広く社会科学の基礎を指導した自主ゼミからは、社会学者の橋爪大三郎宮台真司などが輩出されたが、これもまた文化的接点の一種といえるだろう。

 文化の本体は、地上に出ている花というよりは、むしろ地下に菌糸のようにはりめぐらされた、ややこしい人間関係みたいなものにこそある……と、ユニークな文化論を展開したのは数学者の森毅(7/24)だ。キノコに関する編著もある森はさらに、文化を樹木に寄生するカビやキノコになぞらえ、キノコ=文化は時の権力の成長の証しであるいっぽうで、権力から養分を吸い尽くしてつぶす役割も果たしていると喝破した。

 戦後誕生した民間放送は、経済成長とともに発展をとげつつあった日本企業にある意味、寄生することで育ったということもできるかもしれない。さらにその民放のなかでも、放送局に“寄生”することで、若者たちの解放区たりえたのがラジオの深夜放送だったとはいえまいか。俳優・声優の野沢那智(10/30)が白石冬美とDJを担当したTBSラジオ『パックイン・ミュージック』、渡邊一雄(10/11)がプロデューサーを務め、桂三枝谷村新司明石家さんまなどがパーソナリティーを担当した毎日放送の『MBSヤングタウン』などは、一時代を築いた深夜番組だった。

 在京の民放テレビのなかでは後発局にあたるフジテレビには、女性のテレビ制作者の草分けである常田久仁子(11/3)もその設立に参加していた。常田は、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』など同局での萩本欽一のすべての出演番組を手がけ、萩本から「テレビ界のおっかさん」と慕われた人物である。コント55号としてテレビに出始めたばかりの萩本は、常田から「テレビは女の人が見てんの。女はね、いくらコントがおもしろくても、汚いかっこしてると見てくれないわよ」とアドバイスを受けたという。思えばこのときこそ、浅草の芸人だった萩本が、テレビタレントへと生まれ変わった瞬間だったのかもしれない。

 「テレビは女の人が見ている」ということは、同じくフジテレビが放映しヒット作となった昼のメロドラマ『日日の背信』(1960年)が証明していた。このドラマに主演したのが池内淳子(9/26)である。池内は後年、NHK連続テレビ小説天うらら』(1998年)でヒロインの祖母を演じ、介護される様子も描かれたが、実生活では実母の介護経験を持ち手記も著している(ちなみに池内は、やはり今年亡くなった俳優の池部良[10/8]、小林桂樹[9/16]と、松本清張原作の映画『けものみち』で共演している)。

 すでに日本は、本格的な少子・高齢社会に突入している。今年亡くなった著名人のなかにも、舞踏家の大野一雄(6/1)、女優の長岡輝子(10/18)と、100歳をすぎてなおも活動を続けていた人たちがいた。

 小説家・劇作家の井上ひさし(4/9)の長編小説『吉里吉里人』(1981年)では、日本からの独立を宣言した東北の農村が、海外から一流の医師を集めて医療立国を標榜し、不老不死のユートピアをめざすさまが描かれた。果たして人間が永遠に生き続けることなど、本当に可能なのか。

 美術家の荒川修作(5/19)は、「人間は死んではならない」という課題を設定し、妻で詩人のマドリン・ギンズと作品をつくり続けた。死なない=「天命の反転」のために荒川がとった方法は、延命治療などではなく、「人間の可能性の拡張」というものだった。彼の手がけた「養老天命反転地」(岐阜県養老町にある体験型庭園)や「三鷹天命反転住宅」(東京都三鷹市)は、歩いたりするのに特別なバランス感覚が必要とされる。後者について、荒川は「ここに住むと身体の潜在能力が引き出され、死ななくなる」と説明した。

 荒川はまた、三重苦を乗り越えたヘレン・ケラーを「天命の反転」を成し遂げた人物として称えた。そういえば、先述の梅棹忠夫もまた、60歳をすぎて失明したが、それを克服して亡くなるまでになおもたくさんの本を著した。あるいは、脳梗塞によって右半身麻痺や言語障害に陥り一時は絶望のふちに立ちながらも、やはりこれを乗り越え、克明な闘病記『寡黙なる巨人』(2007年)を上梓するなど著述活動を続けた免疫学者の多田富雄(4/21)も、「天命反転」を達成した人物とはいえまいか。

 絵本作家・佐野洋子(11/5)の『100万回生きた猫』(1977年)は、100万回生き返りながら一度も他者を好きになったことのなかった猫が、一匹の猫を初めて本気で好きになり、相手が死ぬと、あまりの悲しさに泣き続け、ついには自分も死んでしまい二度と生き返ることはなかった……という話だった。この絵本から私は、人生は一回きりだからこそ幸福や充実感が得られるのだというメッセージを読み取った。しかしそれは、荒川修作のめざしたものと何ら矛盾しないような気がする。たとえ何度も生き返ることができても、自分の可能性を引き出せないのであれば、それは生きているとはいえないように思うからだ。

 とはいえ、自らの可能性を十分に出し切って死ぬことはやはり難しい。アニメーション映画監督の今敏(8/24)は新作の制作途中、46歳にして末期がんで亡くなったが、その死後公開された遺書により、がんを宣告された彼が、生き延びるための方法を模索するいっぽうで、「ちゃんと死ぬための準備」を可能なかぎりして逝ったことがあきらかにされた。この遺書を読んで、自分が同じ境遇に立たされたとき、ここまでできるだろうかと思った人は結構多いのではないか。

 おそらく、ここまでとりあげた人の多くは、自分の可能性を出し切ったとまではいかなくても、引き立すべく常に努力を続けてきたはずである。今年亡くなった人にはまた、各分野の黒幕やプロデューサー的な人たちが目立つ。これらの人々はいわば、時代の可能性を引き出したともいえないか。時代を仕掛け、歴史を動かした彼ら彼女らを称えながら、あらためて哀悼の意を捧げたところで、本稿を締めたい。

  (初出 「ビジスタニュース」2010年12月29日)