あの娘間違って『ジョン・レノン対火星人』読んだらどんな顔するだろう

昨日、神保町の三省堂で先ごろ講談社文芸文庫で復刊された高橋源一郎の『ジョン・レノン対火星人』を、内田樹の解説は面白そうだけどなー、もう新潮文庫で出たのを持ってるし……などと迷いつつ立ち読みしていた時のこと。同書の巻末に、82年ごろ撮られたという高橋源一郎の写真(メガネをかけていないというのがレア度高し)が出ていて、まくり上げた裾から覗くその血管の浮き出た細い腕に少し衝撃を受ける。こんな細い腕で20代の後半に肉体労働をしていたのかと思うと、何だかちょっと悲哀すら感じてしまう。ぼく自身似たような腕だからなおさらそう思うのかもしれない。
結局、講談社文芸文庫版の『ジョン・レノン対火星人』は買わなかったが、帰宅してから久々に新潮文庫版の同作を本棚から引っ張り出してパラパラ読んでみる。改めて読んでみると、この小説、やっぱり狂ってるよな。あと、今回新たな発見をした。第2章「十九世紀市民小説」の冒頭には次のような会話が出てくるのだが……

「管理人さん、この人が今日からわたしと同居する人なの」
「ああ……で、お名前は?」
ポパイ、、、と申します」
「ほう……変わったお名前ですな」
「ええ、実は一昨日おとついまで雑誌だったもので」
「ほう、ほほう……と言いますと?」
一昨日おとついまでぼくは雑誌だったんです。正確に言いますと、ぼくはマガジンハウスで発行している『ポパイ』の通巻69号すなわち一九七九年十二月二十五日号だったんですが、どういうわけだか急に人間になっちゃったんです」

この《『ポパイ』の通巻69号すなわち一九七九年十二月二十五日号》というのはもしかしたら……とふと思うところあって、調べてみたらやっぱりそうだった。この号は『ポパイ』でもいまや伝説の特集とされている60年代特集号だったのだ。まあ、この小説は《60年代三部作完結編》だと表4カバーの解説にもちゃんと書かれてるんだから、何をいまさらという話ではあるが。
ところで同作より先に講談社文芸文庫に収められた『さようなら、ギャングたち』を手にとった時もそう思ったのだけれど、講談社文芸文庫ではお決まりになっている菊地信義の装丁が、これら高橋作品にはどうもいまいちしっくり来ない気がするのはぼくだけだろうか? 講談社文庫版の『さようなら、ギャングたち』の日比野克彦によるカバーも、新潮文庫版の『ジョン・レノン対火星人』の奥村靫正によるカバーも内容ととても合っていると思うのに。
余談ながら、うちの近所の古本屋では長いこと、『ジョン・レノン対火星人』が音楽関係の棚にビートルズの本と一緒に並べられています。行くたびに気になるので、よっぽど店員さんに教えてあげようかとも思ったのですが、最近ビートルズを聴き出した中学生だか高校生だかが間違ってこの本を手に取ったらどんな感想を抱くのだろう……などと想像すると愉快なのでそのままにしておこうと思います。