新一万円札はピカピカに光って あるいは MATERIAL MONEY

家賃を払うために、新札をATMでおろしたのだが、一万円札の左下についた銀色のホログラム部分がピカピカ光って妙に安っぽい印象を受ける(その技術開発には相当の金がつぎ込まれているのだろうが)。何というか、絶対にコピー(偽造)されないオリジナルを目指せば目指すほど、どんどん紙幣としての物質性(あるいは物体性?)を失っていくのが面白いといえば面白い。
そういえば、何年か前に、いまは亡きBOX東中野で『競輪上人行状記』(参照)という小沢昭一演じる善良な教師にして寺の息子が競輪にハマッて人生を転げ落ちていくという映画を観たのだけれども、その一シーンで、一万円札(千円札だったかも。いずれも当時の肖像は聖徳太子だが)が水たまりか何かに落ちてグショグショに濡れるカットがあり、その濡れた紙幣がやけに生々しく見えたものだ。それは映画がモノクロだからとか、紙幣がいまより大ぶりだったからというのもあるのかもしれない。しかし、それ以上に、あの当時(昭和38年)はまだ紙幣を含めて貨幣というものが純然たる「物」だったからこそ、一万円札があれほど生々しく見えたのではないだろうか*1。実際に、あの時代、給料の支給などは当然、直接現金の手渡しで行なわれていたわけだし、「お金」は汚いものという通念もいまよりずっと根強かったはずだ(そう考えるとお金はどこか呪物的なものでもあったのだ)。
しかしそうした紙幣の「物質性」も、キャッシュディスペンサーやATMの登場、あるいはキャッシュカードの普及などによりだんだん薄れていく。さらにはドルショックによる変動相場制への移行などといった世界経済の変動もあり、1ドル=360円といままでちゃんと決められていたはずの貨幣の価値も、状況によってめまぐるしく変化するようにもなる。そして、いつしかお札は「物」なんだけど、あまり「物」っぽくないものになっていた、というわけだ。
とはいえ、日本の紙幣は、偽造防止を名目にだいたい20年ごとのモデルチェンジ(何だか伊勢神宮遷宮式みたいだ)が定着しつつあるのに対して、その世界での流通量を考えれば円以上に偽造されやすいはずのドル紙幣は、なぜかほとんどモデルチェンジされていないし、偽造防止用に使われている技術も日本とくらべたら格段に少ない(参照)。そもそもアメリカ人は紙幣をそんなに大事に扱わず、平気で丸めてポケットに突っ込んでいる人も多いと聞く。そのぞんざいな扱いは、完全に「物」に対する扱いだ。ひょっとしたら、こうした紙幣に対する「唯物主義(マテリアリズム)」がいまだにしっかりと生き残っているからこそ、アメリカ経済はどんなに不況になろうともそれに耐えうる強靭さをまだ保っているのかもしれない。もし将来、米ドル紙幣のすべての種類がフルモデルチェンジする時が来るとすれば、それは米ドルが完全に失墜を迎えた時ではないだろうか……?

参照:新札アラカルト(讀賣新聞http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/special/40/shihei_top.htm

*1:思えば、ちょうどこの時期は、赤瀬川原平が「物」としての興味から千円札の模造や模写に没頭していた時期にも重なる