おれの読書室は電気じかけで地中をグルグル回る

さて、金城ふ頭から再び名古屋駅に引き返し、そこから地下鉄東山線で栄まで出て今度は名城線をグルッと一周してみることにする。栄から右回りの電車(名城線では電車の進行方向が「右回り」と「左回り」に分けられている)に乗ると車内が混雑していてしばらく座れなかったものの、名城公園を過ぎたあたりで空席を見つけ腰を下ろしてからはずっと『ウラBUBKA』の書評で紹介する予定の本を読んでいた(とはいえ、ぼくが栄から乗った電車は大曽根駅どまりだったためそこからもう一本電車を待つことになったのだが、次の電車はすぐに座ることができた)。実はぼくは、東京では書評用の本を読むためによく都営大江戸線を利用しているのだが、同じく地下鉄環状線である名城線に乗っていたらその沿線が大江戸線と驚くほどよく似ていることに気づいた。両者ともその都市の一番の繁華街(栄/新宿)を通るし、そのほか役所(愛知県庁の最寄駅でもある市役所/都庁前)、国立大学(名古屋大学*1/東大の最寄駅である本郷三丁目)、スポーツ施設(瑞穂運動場東/国立競技場と、愛知県体育館の最寄駅である市役所/国技館の最寄駅である両国)、ドーム球場ナゴヤドーム前矢田/東京ドームの最寄駅である春日)、高級住宅街(本山/麻布十番)という具合に両路線の沿線風景はいちいち対応を見せている。そのせいか、乗っているうちにだんだん自分がいまいるのが名古屋なのか東京なのか区別がつかなくなってきてしまい、あげくの果てには「次は茶屋ヶ坂」という車内アナウンスを「えっ、神楽坂!?」と一瞬聞き間違える始末だった。
ただしこれが地上を走る電車であれば、そんな勘違いは絶対しないだろう。たとえば大阪環状線に乗っていて、自分がいま山手線に乗っていると勘違いするなんてことはきっとあるまい。そもそもぼくが大江戸線を読書に利用するのにはちゃんと理由がある。自宅ではネットやテレビと誘惑が多いし、喫茶店は結局何杯もコーヒーなどを頼んで金を使ってしまうし(かといってミスドのようにコーヒーが飲み放題の店でも、つい飲みすぎて胸焼けを起こしたりしてしまうからいけない)、電車に乗ってもぼくの場合、地上を走る電車では車窓のほうについつい気を取られてしまって読書どころではなくなる。そこで自然と地下鉄の車内が、ぼくが唯一読書に集中できる場として選ばれたというわけだ。中でも大江戸線は、東京の地下鉄では唯一地上に出ることがなく*2都庁前駅での乗換えさえいとわなければグルグルと何度も周回することができる上、一部の区間を除いては混雑もほとんどないため、まさにぼくが読書するにはうってつけだと言える。
そういえば別役実があるエッセイで「地下鉄の乗客は『空間抜きの時間体験』を強制される」といったことを書いていたが*3、ぼくが地下鉄の車内で読書に集中できるのも、やはり別役が指摘するように体験される空間性が希薄だからこそだと思う。地上に出ることもなく一周すれば同じ場所に戻ってくる名城線大江戸線の場合、その空間体験の希薄さ(あるいは空間の抽象性)はほかの地下鉄よりずっと高いだろう。いわば地下鉄環状線である名城線大江戸線は「純粋地下鉄」「純地下鉄」とも言うべき路線なのだ。そんな路線の性質と「名城」「大江戸」という古風な名前はあまりにもギャップがありすぎる。ここは一つ、「市営M」「都営E」とか、もっと記号的な名前に変えてしまったほうがいいのではなかろうか*4

*1:ちなみにこの駅は全国で唯一大学構内に設けられた地下鉄の駅である。

*2:ほかの路線はだいたいが私鉄に乗り入れていて地上、それも場合によっては東京都の外に出てしまうし(それゆえにずっと乗っていると引き返すのにえらく苦労したりする)、他線に乗り入れていない銀座線と丸ノ内線にも地上に出る区間がある。

*3:別役実「正しい地下鉄の乗り方」、『日々の暮し方』白水社所収。別役はこのエッセイの中で、地下鉄の《乗客は、自分がどこにいてどの方向に向かいつつあるのかを、知ることが出来ない。ただ、出発駅と到着駅を知っているだけなのであり、その意味で地下鉄は、これからそれに至る時間経過に過ぎない》と書いているが、その駅の名前ですら最近では番号で呼ばれるようになり、人々は地下鉄においてますます空間体験から引き離されつつある。

*4:そーいえば、大江戸線が全線開通したころ、小林旭の「恋の山手線」にあやかって、大江戸線の各駅名をもじった「恋の大エロ線」なんてしょーもないネタをつくったことがあったなあ。あまりにも卑猥なんでここでは発表できないけど。そもそもあのネタをメモった紙はどこへしまったんだっけ。