本を所有するとは何と恥ずかしいことだろう

http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20050119#1106080078
栗原裕一郎さん(id:ykurihara)のお部屋で本の山が崩壊した模様。他人事じゃないなあ。いや、慢性的に本が雪崩を起こしているということを考えれば、うちのほうがたぶん重症なんだろうけれども(さすがに写真で見せる勇気はありません……)。それでもなお増え続ける本……。処分しようにも、処分すべき本は山のはるか下にあったりしてなかなかうまく行かない。そこでふと、草森紳一が本の所有についてかつて次のような文章を書いていたのを思い出した。

 本棚を自分の部屋にもっていることは、それだけで気恥ずかしいものである。
他人に、本棚を眺められる時の気分ほどいやなものはない。たかが知れた本の量を、棚にずらりと並べて平気でいられる人は、もともと本があまり好きではないのではないか、と思えるほどだ。
 気恥かしいと言っても、書物は、私にとって、いまや欠くべからざるものになってしまっているから、つぎつぎと買わないわけにもいかず、買えば買うで、増えるばかりであり、四囲にめぐらした本棚から、ついにはみだして、畳の上へ積重ねる仕儀に追いこまれる。むさくるしい風景である。こうなると、もはや読書を愛するなどというものではなくなっているのであり、やや淋しい気もする。
 本というものは、たえず気をつかっていないと、物も言わずにしのびよってくる獣のようなところがあり、気がついた時は、すでに遅かりしで、人間の居場所などは、知らずに狭められてしまっている。そこで、ようやく整理しようという決心がついて、ボール箱につめて、田舎へ送ることにしたのだが、四十箱にもなってしまった。
 ところが、驚いたことに、本棚が、がらがらになるかと思いきや、まだはみでているのである。ここで、わかったことは、本棚にはあまり収容能力がないのだということである。ずらりと並んでいるのをみると、結構、人を威圧する力をもっているのであるが、見かけ倒しなのである。畳の上に積みあげるほうが、はるかに量をさばくことができる。
 こんな始末であるから、書を愛するということから、もはや逸脱してしまっているのだが、やはり他人に見られることは、恥かしいのである。(略)
 おそらく、私には書物を読みかつ所有することに対する、劣等感が根深くあるにちがいない。本を読まない人間にたいして、すなわち本を読まないでも生きていられる人間に対して、はかり知れぬひけめをいつも感じる。なまじ本を読んでいて偉ぶる人間とか、読書の量を誇る人には、いっさいのひけめを感じない。それは、知識というものは底知らずのもので、限りもないことを知っているからだ。
 書物が恥しいということは、「知識」が恥しいということであり、つまりまだ人間が未熟だということであろう。
 ―草森紳一「本棚は羞恥する」(『狼藉集』ゴルゴオン社、1973年)

そう、知ってるなんてことはちっとも偉くない。むしろ恥ずかしいことなのだと、ぼくは常々感じている(だからこそこの日記も「Culture Vulture」=文化知識をひけらかす人という自分への揶揄を込めたタイトルを掲げているわけで)。今年は「知は恥に通ず」というフレーズを座右の銘にしようかと――それはここ数年続いてきたトリビアや薀蓄のブームへのカウンターの意もある――思っているくらいだ。
本の収蔵については、以前から友人たちと金を出し合ってどこかに部屋を借りて、共同の書庫をつくったらいいかもねえなどと話していたりするのだけれども、結局実現にはいたっていない。いつかそれが実現したなら、自宅には本など一冊も置かないようにしたいところだが。しかし昔は四方を蔵書に囲まれての生活に憧れていたというのに、それがほぼ実現したいまになって本のない生活に憧れるとは何という皮肉だろう。