コンパニオンによる科学万博日記

愛知万博の会場には弁当が持ち込めないというのは、建前では「食中毒防止」となっているが、おそらく20年前の科学万博の反省からではなかろうか。というのも、科学万博では食べ物の値段が高いとの前評判から弁当持参の入場者も多く、レストランや土産物店など会場に出店した業者の9割が赤字を出したからだ(このことは先月の『ウラBUBKA』の拙稿「科学万博のウラネタをどうぞ!」でも紹介した)。
そんな状況であったにもかかわらず、科学万博会場内の店舗数は開幕当初は300ほどであったのが、その後新たに露店が立ち並ぶなど会期中増加し続け、最終的には約500店に膨れ上がり、主催者である国際科学技術博覧会協会も正確な数を把握できないほどになったという。また、どうやら会場内には複数の暴力団が出入りし、彼らにショバ代をとられる業者もあったようだ。科学技術がテーマの博覧会で、こんな泥臭い人間模様が繰り広げられていたとは……。これではまったく田舎の祭りと変わりないではないか。
――と、以上は先述の『ウラBUBKA』の記事を書くにあたって、科学万博開催当時の新聞や雑誌記事を調べていた際に見つけた事柄である。参考にした記事の中でも特にぼくの目を惹いたのが、『新潮45』1985年10月号に掲載された「コンパニオンから見た「科学万博」」という万博コンパニオンによる日記だった。この日記には、たとえばこんな記述が出てくる。

科学万博ご自慢の巨大テレビ、ジャンボトロンが、日航機の墜落現場を報じるニュースを、真っ暗な闇夜に放映していました。最新鋭の科学技術を誇らしげに唱いあげる万博会場で、科学への不信を象徴するようなジャンボ機墜落の悲惨な現場が映し出されること自体、何だかこの博覧会全体を皮肉っている光景のようにも思えてなりませんでした。

あのジャンボトロンの大きな画面に墜落現場の映像とは、想像するだに何ともグロテスクである。思えば、万博の前後には、日航ジャンボ機墜落事故以外にも、世田谷地下通信ケーブル火災(84年11月)や過激派による国鉄施設への同時多発ゲリラ事件(85年11月。国鉄のケーブルが切断されるなどこのゲリラによって各路線はのきなみ不通となった)、そしてスペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故(86年1月)とチェルノブイリ原発事故(同4月)と先端技術の脆さを露呈する事件・事故が相次いだ。上記の日記の記述は、そうした科学万博以後さらに不信を強めることとなった科学技術の行く末を予見していたかのようにもとれる。
とはいえ、当時『子供の科学』や『コペル21』といった子供向けの科学雑誌を愛読していたぼくは、相次ぐ大事故に対してたしかにショックはあったものの、わりとまだ科学技術の未来そのものには明るい展望を抱いていたような気がする。どんな大きな事故があっても、それもまた科学技術の進歩によって乗り越えられる、みたいなそんな感じで。
それにしても、科学万博コンパニオンの日記は面白かったので、愛知万博のコンパニオンの中からもブログなどで逐一万博について記録する人が出てきたら面白いのに、と思った。