遅ればせながら映画『インストール』を観る

いまさらながら、映画『インストール』(片岡K監督、2004年)のDVDを借りてきて観る。以下、思ったことを箇条書き。

  • パソコンで映画を丸々一本観たのはこれが初めての体験だったのだが*1、この作品はパソコンのディスプレイ*2で観るほうがぴったりハマるなあ、なんてことを思う。とにかく、映画館でスクリーンで観るのとも、テレビで観るのともまた違った距離感がとても新鮮だった。
  • 小説を映画化するとなると、余分な設定を削るなどしてコンパクトにしてしまうことのほうが多いと思うのだが、『インストール』の場合、原作ではくわしく描かれていない主人公・朝子の母親の職業や、かずよし少年の家庭まで設定されるなど、逆に世界観が広げられている。その点では昨年放映されたドラマ版『野ブタ。をプロデュース』と同じだ。これは『野ブタ。』を観ていても感じたことだが、若い作家のまだ狭くて単純な世界観を、オトナが「世界というのはもっと広くて、もっと複雑なもんなんだよ」と導いてあげてるような、そんな印象を受けた。
  • そんな原作からの設定変更のなかでひとつだけ違和感を抱いたのが、朝子の同級生の光一が映画では死んでしまうということ。これも作品の世界観を分厚くしようという意図からの設定変更だったと思うんだけど、かえって話を重くしてしまったような気がする。
  • というわけで、冒頭をはじめ、映画のなかに登場する朝子と光一の会話シーンはラスト近くになってすべて妄想だったということにされるんだけど、その舞台に学校の時計塔の裏側が用いられているのは、両者の時間がかたや死によって、かたや不登校によって止まっているというメタファーなのだろうか。そこらへん、ちょっと押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』なんかを彷彿させた。
  • 映画に出てくるパソコンはMac。原作を読んでいて、Macというイメージは思い浮かばなかったのだが、本体とモニターが一つの筐体に収まったコンパクトなMacなら、たしかに押入れのなかで使うにはおあつらえ向きかも。

まあ、映画版『インストール』に出てくるコンピュータがMacなのには、ちょっとした因縁があるともいえるのだが。というのも、原作者の綿矢りさの名前は、Macに先立つこと一年前に1983年1月にアップル社が発表したマシン「Lisa」に由来するものなのだから(なお、Macの発表は翌84年の1月、綿矢りさが生まれたのは同年2月1日のこと)。
実は綿矢りさの父親は、京都界隈では結構よく知られたアップルコンピュータのヘビーユーザーであり、聞くところによれば、彼女の生まれる時期(1984年前後)には、京都大学などに頻繁に出入りしては、アップルのコンピュータがいかにすばらしいマシンか懇々と説いてまわっていたという。ちょうどこのころ京大人文研の助手だった浅田彰は、そのデビュー作『構造と力』について、アップルコンピュータのマニュアルになぞらえたりしていたが、彼もまた綿矢りさの父親から伝道を受けていたとも十分に考えられる。










……と、エイプリルフール用に考えていたネタを、いまごろどさくさにまぎれて発表するんじゃないよ!
ちなみに今年のエイプリルフールは、くしくもアップルコンピュータが会社創設から30周年を迎えた記念すべき日だったのだが。これは本当の話。

*1:なにしろこれまで家で使っていたパソコンではDVDが観られなかったのだ。先月買い換えたパソコンでようやくディスプレイでDVDを観ることが可能になった。

*2:ちなみに新しく導入したディスプレイのサイズは19インチと結構大きめである。