華麗なる近鉄文化圏の斜陽?

先日『タイアップの歌謡史』を上梓されたばかりの速水健朗さん(id:gotanda6)が、今年の目標は鉄オタになることと書かれていましたが(http://d.hatena.ne.jp/gotanda6/20070105/houfu)、たしかに今年は「鉄」が来そうな雰囲気ではあるかもしれない。先々週、先週と続いた『タモリ倶楽部』の京浜急行車両基地ツアーもすばらしいできだったし、この年頭より華々しくはじまったドラマ『華麗なる一族』も「鉄」がらみではないですか。あ、いや、あれは鉄は鉄でも、鉄道ではなく、製鉄会社の話ですが*1
それでも、私はあのドラマの出演陣を見て、なんとなくピンとくるものがあるのです。ええと、このドラマには万俵家の長女と次女(鉄平の妹)の役として、吹石一恵相武紗季が出演していますね。思い出してください。吹石さんは奈良県香芝市出身で、大阪近鉄バファローズの選手・コーチだった吹石徳一氏を父にもちます。一方、相武さんは兵庫県宝塚市出身で、母と姉がそろって宝塚歌劇団出身という家庭で育っています。そう、このおふたりは、吹石さんが近鉄文化圏、相武さんが阪急文化圏と、関西を代表するふたつの私鉄文化圏の出身なのです。そんな彼女たちが、今回ドラマのなかで、関西財界を牛耳る財閥の令嬢を演じているというのが、なんだか面白いなあと……(かなりこじつけめいた見方ですけど)。ま、『華麗なる一族』で万俵財閥が擁する銀行と製鉄会社は、近鉄でも阪急でもなく「阪神」の名を冠しているわけですが(笑)。
そういえば、『華麗なる一族』の放送がはじまって間もなくして、ドラマの冒頭にも登場した志摩観光ホテル東館の取り壊しが決まったというニュースが報じられました*2。志摩観光ホテルといえば、近鉄が経営する、まさに近鉄文化圏を象徴する存在です。ここ数年、近鉄は球団のほか、阪急の宝塚歌劇団に対抗して傘下に収めていたOSK日本歌劇団を手放したり、沿線の近鉄あやめ池遊園地を閉園するなど、その文化圏に翳りが見られます。今回のホテル東館の取り壊しは老朽化によるもので、経営不振が理由というわけではありませんが、日本建築界の巨匠・村野藤吾が設計した、ホテル開業以来の建物である東館が取り壊されるというのは、やはり一抹の寂しさを覚えざるをえません。
さて、関西私鉄にかぎらず、日本の私鉄の歴史は群雄割拠の歴史であり、現存する大手私鉄の多くはこれまでに幾度となく合併、分離を繰り返してきました。近鉄の場合、その前身である大阪電気軌道(大軌)と姉妹会社の参宮急行電鉄(参急)が多くの地方私鉄を吸収合併しながら路線網を拡大していき、1941年には大軌と参急が合併、関西急行電鉄(関急)となります。さらに敗戦色の濃くなりつつあった1944年には戦時体制の強化を推し進める政府の圧力もあり、関急は南海鉄道と合併、ここに近畿日本鉄道が発足しました。
結局、戦後間もなくして南海は近鉄から独立し、南海電気鉄道として再出発するのですが、近鉄の社名は変わらず、その路線網は大阪・京都・奈良・三重・岐阜・愛知と2府4県にまたがる日本最大の私鉄としていまなお君臨しています。とりわけ、大阪と名古屋のあいだを直通特急が走る区間は、JR以外では珍しいふたつの大都市圏を結ぶ主要路線です。この路線について、社会学者の加藤秀俊は「間道」と呼んでいます。

 もしも、京阪神から琵琶湖の東岸ぞいに濃尾平野に出る東海道が本道であるとするならば、近鉄が結んでいる大阪、名古屋間の路線は間道である。(……)
 歴史的事実にてらしてみても、近鉄路線はひとの目につかないように東海道から京阪神を結ぶ通路として使われてきた。たとえば、1582年本能寺の変のあと、徳川家康泉州堺から三河へひとまず待避する決心をした。だが、まともに京、大坂を通過して三河に戻ることは政治的、軍事的に不可能かつ危険であった。そこで、かれはほぼ現在の近鉄路線にそって鈴鹿山系を越え、神速果敢に三河に帰ってしまったのである。
 上野盆地は伊賀・甲賀の忍者の里として知られるが、その伊賀・甲賀の衆がこの家康を護衛し、無事伊勢湾まで送り届けたという事実もある。(……)
 伊賀越えでもうひとつ思い出すのは、荒木又右衛門の伊賀上野の仇討ちである。九州をめざして逃げのびようとする河合又五郎の一行を義弟の渡辺数馬とともに追跡して、めでたく仇討ち本懐を遂げるのはまさしくこの間道ぞいにおいてであった。
 ずいぶん話が講談調になってしまったが、伊賀越えは東と西を結ぶ重要な間道だったのである。だからこそ徳川家は、禄高わずか1万石ではあるが、柳生家をこの間道の中心部に配置し、その東側を藤堂家に管理させていたのであった。本道に対する間道として、近鉄路線はそのような社会文化史的背景を背負っている。
 こんにちの社会でも、もしも東海道新幹線を本道とするなら、近鉄は明らかに間道路線である。この点で近鉄は日本のさまざまな私鉄の中で独特の性格をもっているとわたしは考える。なぜなら、日本の大部分の私鉄は本道文化に寄生しており、主としてメガロポリスの支神経として作用しているからである。近鉄メガロポリスという本道とまったく無関係に、みずからの間道文化をつくりあげた。
  加藤秀俊「環境産業」の偉大な構想/近畿日本鉄道」(『近代経営』1965年11月1日号)

私自身、郷里の名古屋から大阪に出かける場合、よく近鉄特急を利用します。たしかに、新幹線を使えば最速で50分ほどで着くのに対して、近鉄特急で行く場合2時間かかります。それでも、急用で出かけるのでなければ、遅すぎず早すぎず、十分に鉄道旅行を堪能できるところがいいのです。それに、金券ショップでなら3000円と、新幹線料金の半額以下でチケットが手に入るというのもありがたい。
話を戻せば、加藤秀俊が「間道」と呼んだ大阪・名古屋間の近鉄路線はそもそも、1959年に名古屋線大阪線と同じ標準軌へと拡幅されたことで、直通運転が実現したのでした(それまでは伊勢中川で乗り換えが必要だった)。この改軌工事の実施に先立って、同年9月、名古屋周辺を伊勢湾台風が襲い甚大な被害をもたらします。近鉄名古屋線も堤防決壊で浸水し、一時は復旧の目処も立たないほどだったといいます。それを、禍を転じて福となすとばかりに、当時の近鉄社長・佐伯勇の決断で予定を繰り上げて工事が行なわれ、その年の12月には路線の復旧とともに改軌も完成したのでした。改軌工事にかかったのはわずか9日間といいますから、忍者も顔負けの早業です。復旧と併せて登場した大阪・名古屋直通の二階建て特急・新ビスタカー*3、1964年の東海道新幹線開業まで同区間の輸送において国鉄に大きく水を開けました。
新幹線が開業してからの近鉄は、新幹線に連絡する区間の列車を増発・新設することでその効果を生かす方向へと転じます。さらには、1970年の大阪万博を前に、全国から訪れる観光客の誘致を目指して、伊勢志摩地域の観光開発への集中的な投資や、鳥羽線の新設、三重交通志摩線の合併・改良工事を行ない、国鉄との競争では引き続き善戦することになります。先述の志摩観光ホテルも、ちょうどこれと前後して西館、本館と建て増しを行なっています。まさにこの時期こそ近鉄の黄金時代といっていいでしょう。ちなみに、1975年にエリザベス女王が来日した折、伊勢志摩を訪れた女王夫妻の乗る特別列車を走らせたのも国鉄ではなく近鉄でした*4
一方、名阪直通特急の運行開始とほぼ時期を同じくして、沿線の宅地開発も進められます。先に引用した加藤秀俊の文章の後半には、近鉄の宅地開発のスケールの大きさが賞賛されています。日本一長い路線網を擁するだけあって、フロンティアもまた大きかったわけですね。しかし、いまとなっては、近鉄という鉄道会社はその長い路線をやや持て余しているような気がしてなりません。近鉄にふたたび、往時の輝きが戻る日は来るのでしょうか。

*1:それにしても、木村拓哉演じる製鉄会社の若き専務の名前が「鉄平」というのも、あまりにもそのまんまという感じがしますな。

*2:参照:「華麗なる一族」の舞台終幕/志摩観光ホテル東館が取り壊しへ中日新聞1月23日)
http://megalodon.jp/?url=http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20070123/mng_____sya_____005.shtml&date=20070128082636ウェブ魚拓

*3:どうでもいいですが、ウィンドウズ・ビスタのビスタって、やっぱりビスタカーのビスタ(展望)と同じ意味なんですよね?

*4:国鉄は女王が来日した当日、ちょうど労組が春闘ストに突入したため、東京から関西に向かう女王夫妻のため新幹線を走らせることを断念せざるをえませんでした(結局、空路での移動となった)。ようやく女王が伊勢志摩から東京に戻る直前になってストが解除され、名古屋からは無事、新幹線に乗せることができ、何とか面目を保ったのですが。