秀吉と利休と黒川紀章と

今年3月に亡くなった小説家の城山三郎は、生前、NHK大河ドラマ黄金の日日』(1978年放映)の原作を手がけている。

このドラマのみどころのひとつに、天下人となってからの豊臣秀吉(演じるのは緒形拳)と、その茶道の師・千利休(同、鶴田浩二)との対立がある。劇中、秀吉は、「天下を統一するとは、物の価値を不動のものとすること」と語り、利休が大徳寺の山門に自身の木像を置いたことに加え、彼の目利きを危険視する。どういうことかといえば、利休の目利きが、ときには単なる土器(かわらけ)を黄金と同等の価値にまで釣りあげる、それによって「物の価値が乱れ、人の世の上下秩序がないがしろになる」ことを秀吉は恐れたのだ。いわば秀吉は、利休を価値紊乱者とみなし、最終的に処罰を下す(切腹を命じる)こととなった、というわけである。

話はいきなり飛ぶが、城山が亡くなったころ、ちょうど建築家の黒川紀章東京都知事選に出馬していた。

黒川にかぎらず、建築家ぐらい様々な種類のものさしを必要とする職業はない。それは設計のときに使う本物のものさし(言い方を変えるなら空間を測るものさし)だけではない。経済的な尺度を測るものさしや、あるいは、時間を測るものさしというのも必須だろうし、もちろん、美の尺度を測るものさしは欠かせない。とにかくあらゆる物の価値を測るものさしが、建築家には求められる。そう考えてみると、建築家は驚くほど政治的な職業なのだ。

黒川紀章が、日本でもっとも政治的な建築家であり、その頂点をきわめた人物だということに異論はないと思う。そのへんは千利休と似ている。時の権力との接し方といい、絶妙なバランス感覚やしたたかさといい、黒川と利休の共通点は多い。黒川自身、かつて「利休ねずみ」という利休の愛した色彩を引き合いに出して、都市における中間領域やグレー・スペースの必要性を説いていたことがある。そのなかで彼は、利休へのシンパシーを示す一方で、秀吉に対してはほとんど敵視していた。

《秀吉のセンスのなさ、美意識のなさ、そのために、利休はほとほと困りきっていたのではないか。おそらく彼は、秀吉をひどく軽蔑していたのであろう。その成金趣味には我慢ならなかったのかもしれない。だからこそ、地味で質素な精神をことさらに強調して語ったのではなかろうか》(『黒川紀章ノート』同文書院、1994年)

この文章で黒川は、利休の視点を装いつつ、その実、自らの美学を語っているように思える。ちなみに黒川は秀吉と同じく名古屋の出身だが、同郷ゆえの嫌悪というのもあるのかもしれない。

しかし、都知事選、それに続く参院選を、ガラス張りの選挙カーやクルーザーなどを投入して戦った黒川はどう見ても、利休というより「成金趣味」の秀吉だった。夫人で女優の若尾文子を引き連れての遊説というのも、なんとなく秀吉と淀殿の関係を髣髴とさせた。

それ以前に、黒川が選挙に立候補したこと自体に僕は違和感を覚えた。なぜなら、政治的でありつつも、選挙のような生々しい人間同士の闘争とは無縁で、あくまでも高踏的な立場にあるのが建築家というものだ、と思っていたからだ。また、民意の洗礼を受けることにより、プライドを傷つけられるかもしれない、というリスクを犯してまで出馬するなんて、これまでの黒川の生き方からすれば考えられない、という思いもあった。黒川にはやはり、いい意味でも悪い意味でもデモクラシー=下克上(というふうにたとえたのは、『大言海』の大槻文彦だが)は似合わない。それがなぜいまになって、選挙戦出馬なのか。このへんにも、黒川の“秀吉化”を感じた。

選挙戦出馬だけではない。選挙と前後して取り沙汰された、黒川の初期の代表作「中銀カプセルタワービル」(1972年竣工のマンション)をめぐる騒動にしてもそうである。この建物がアスベストに汚染されているという管理組合からの報告を受けて、黒川は、なんとか一時的な補修で済ませ、外観はそのままで残してくれるよう懇願したという。しかしそれにはあまりに莫大な費用がかかりすぎることから、結局、管理組合の総会で全面改築が決まった。

これがかつての黒川なら、過去の自作に未練を残すことなく、いさぎよく全面改築に応じたのではないか。あるいは、旧来の建物に代わるものを、新たな方法論で設計しなおすぐらいのことは提案したかもしれない。それが先述の体たらくである。デビュー以来、メタボリズム(新陳代謝)やメタモルフォーシス(突然変異)などをキーワードに、絶えず変貌を続ける建築や都市を提唱してきた黒川なのに、まったく「らしくない」ではないか。

選挙戦への出馬や、中銀タワーの一件が意味するものはいったい何なのか? 大建築家の老いのあらわれ、という気もする。個人的には黒川センセエには、老いぼれてなお権力や過去の栄光に恋々とする秀吉になるぐらいなら、利休のようにいさぎよくセップクして果ててほしいところだが……。

【追記】黒川紀章が亡くなってから、あらためて上の文章を読み返してみたところ、末尾の《いさぎよくセップクして果ててほしいところだが……》という一文にわれながらビビった。
偶然といえば、今回黒川紀章について調べていたら、こんな新聞記事を見つけた。

これは1963年1月18日付の『朝日新聞』文化欄の紙面である(クリックすると拡大画像が見られます)。そこでは、建築界の「'63年ホープ」として黒川が紹介されている……のだが、その記事の下に目をやると、『週刊明星』の広告に、「若尾文子身延山で2月3日異例の佛前結婚!」という見出しが踊っているではないか。
もちろん、このときの若尾の相手は黒川とは別人(東大出のデザイナーの西館宏幸という人らしい)である。黒川のほうもこの当時すでに京大での同級生だった最初の夫人と結婚していたはずである。まさか、このとき同じ紙面に名前が出たふたりがその20年後(ふたりが入籍したのは1983年末)に、再婚同士結ばれようとは誰も想像だにしなかっただろう。
そういえば、雑誌『東京人』の2004年9月号でも、黒川と若尾がお互いまったく別の企画でインタビューに答えていたなんてことがあった。こんなふうにいくつか事例をあげてみると、ふたりは単に仲がいいという以上の縁で結ばれていたのかもしれない、という気もしてくる。よくわかんないけど。