東京国際女子マラソンを観戦しにゆく

そういえば、東京にもう10年以上も住んでいるのに、東京国際女子マラソンをまだ一度も生で観たことがない! と思って、午後、国立競技場まで出かけた。
……のはいいものの、実際に“現場”に足を運んで気づいたのだが、ぼくたち国立競技場でのマラソン観戦者は、走者がふたたび競技場に入ってくるまでは、会場に設置された大型ビジョンでレースの展開を確認するしかないのだ。これでは家でテレビで見てるのとたいして変わりはない。というか、国立競技場のモニターはあまり解像度が高くないので、家でテレビ観戦していたほうがよっぽど臨場感が味わえたのではないかと思ったぐらいである。競技場に行ったからといって、マラソンの全体像を生で見られるわけではないのが、なんだかミョーな気分(テレビのオンエアでCMが入ると、競技場の大型ビジョンではそのあいだだけ映像が消えるのも、ミョーだった)。
そもそもマラソンも含めたロードレース(ほかに自転車やトライアスロンなど)は、車やオートバイなどで追いかけないかぎり、目近でそのレースの展開を逐一追うことのできないという点で特殊なスポーツである。テレビ中継という技術のおかげで初めてその事の成り行きをリアルタイムで知ることができる、というわけである。
実は同じような主旨のことを、僕はすでに6年前にミニコミ誌に書いていた。参考までにセルフ引用。

 そもそも、マラソンという競技は、他のスポーツと比べて、その全体像を多くの人々がつかめるようになるまで、かなりの時間を必要とした競技だとはいえないだろうか? たとえば一〇〇メートル走をはじめとする他の陸上種目やサッカー、テニスなどはその競技場にいれば、だいたいの全体像はつかめるし、そこで競技者と同じ時間を共有することも可能だ。しかし、マラソンの場合、一ヵ所にとどまっていてはその全体像をつかむのは不可能である。何せコースは四二・一九五キロもの距離にわたるのだから。この道程を競技者について同時に体験しようとするのは、どだい無理な話である。いや、自転車や自動車を用いればそれは可能かもしれない。しかし、競技を観る者すべてがそんなことをしようとすれば、たちまち競技は実行不能に陥るだろう。そのため多くの人がマラソンの全体像を把握するには、彼らの視覚の代役を果たすものが必要不可欠となってくる、というわけである。それが映像メディアであることは言うまでもない。
 しかし、第一回オリンピックとほぼ同時期に産声をあげた映画では、マラソンの全体像をつかむにはまだ不完全であった。たしかに、四二・一九五キロすべてにわたり走者を追うことは可能になったかもしれない。そして後世にその記録を残すこともできるようになったことはたしかだろう。しかし、記録はあくまでも記録でしかない。それを観る人間は競技からしばらく時間を経てからでしかそれを観ることができないのである。
 スポーツ観戦にあって、観る者が競技者と同じ時間を共有することも、その重要な要素の一つだろう。また、対戦するどちらが勝つか、あるいはどんな新しい記録が生まれるのか、それらの結果をすでに知ってから観るのと、知らないで観るのとでは興奮の度合いが違ってくるのは当然である。ここで求められてくるのは、そう、同次元中継ということになる。
 まずラジオ放送によってそれが実現された。だがこれでは当然ながら画像は伝わらない。つまり、マラソンという競技に関して、多くの人々が視覚によってその全体像を把握し、なおかつ競技者と同じ時間を共有するにはテレビの登場まで待たなければならなかったのである。
  ※初出:『ZAMDA』第6号(2001年8月。その後2006年11月に発行した個人誌『Re:Re:Re: 近藤正高雑文集』Vol.4にも収録)

……とまあ、そんなわけで、競技場で売られていたカップラーメンを食べたりしつつ大型ビジョンでレースの展開を追っていると、やがて野口みずきが独走状態に入り、そのまま逃げ切ったのだった。

上の画像は野口が国立競技場に入ってきた瞬間を撮ったところ(クリックすると拡大されます)。
それから、レース後の優勝者インタビューまで立ち会ったのち、竹橋の東京国立近代美術館・工芸館(下の画像はその閉館後に撮ったもの。クリックすると拡大されます)まで足を伸ばす。そんな晩秋の一日であった。